「ジニア先生、また経費申請の項目に誤りがありましたよ」
夜間授業も終わり、ジニア先生が一人になったところを狙って私は職員室に飛び込んだ。パソコン画面の光を浴びたジニア先生は「あ、チクマさん。どうしたんですかあ?」ときょとんとした声を出してくる。まっすぐ向かう私に彼はにこにこといつもの笑顔のまま。
だから開口一番に指摘した。けれどもジニア先生はきょとんと眼を丸くして「経費……?」と首を傾げるばかり。ぱちくり、数回瞬きをしてからぽそりと呟いた。
「申請、していましたっけ?」
「そこからですか!? 今日の午前に申請しています!」
「あ、そうでしたあ。先日の野外授業の経費を申請した覚えがありまあす」
「その件です。ともかく不備がありましたから、申請画面開いてください」
はあい、と気の抜けた返事を聞きながら、私は空いた椅子を引っ張った。隣に座り、ジニア先生が立ち上げた経費申請の画面を共に覗き込む。右上にあるベルマークに目立つ赤い印がついていることに彼も気づいたらしい。
「あ、本当だ。戻されてますねえ。あ、もしかして! これ、戻したのチクマさんですかあ?」
「そうです。不備があったので。早速ですがこの経費項目が……」
私の指示の元、ジニア先生はキーボードを叩き、修正を行っていく。
こうして彼に修正依頼をお願いするのは初めてのことではない。むしろ、もう両手で数えきれないほどだ。
アカデミーの経理部門職員として働く私にクラベル校長から直々にお達しがあったのは随分と前の話。内容はジニア先生のことだった。ざっくりと話をまとめると、どうにもゆるい彼はちゃんと経費の申請をしないらしい。申請はするのだがほぼ確実に不備があり、戻され、そして忘れてしまう。気づいたころにはだいぶ日が経ってしまうため、ジニア先生の性格も相まって「まあ、いいか」とそのままほったからし。
「再三注意をしているのですが」と渋い表情のクラベル校長からは疲労の色が垣間見える。その注意が意味をなしていないことに、否応が無しにもわかってしまった。自己責任と言えばそれまでだが、少額でも積もれば山となる。あと単純にジニア先生に対して校長先生は他の先生たちより厳しい。二人は昔からの知りあいとは聞いているけれど……ゆるいジニア先生にはこれぐらい細かくないとだめなのかもしれない。
「彼は私の注意に慣れてしまっています」
「そこで私ですか?」
「ええ。チクマさんは優秀なスタッフだと聞いていますから。顔なじみの私ではなく、実際に業務にあたるチクマさんから注意されたほうが効果はあると考えました」
頼まれてくれませんか、と頭を下げるクラベル校長に私は二つ返事で了承した。ジニア先生のゆるさは経理部でも問題になっていたし、ここでちゃんと訂正する癖をつけてもらえれば私たちの業務はぐっと楽になる。それに彼は優秀な先生なのだ。何度も直接注意されるのは気まずいはず。きっと何回か繰り返せばすぐに理解してくれるはずだ――なんて、思っていたのが甘かった。
「先生、前もお伝えしましたが、交通費は交通費で別に請求ですから含めないでください」
「えっと……?」
「二段目に入っていますよ。それを抜いて、こちらの入館料に代えてください」
「はあい」
なんというかジニア先生はなかなかの強敵だ。この指摘も何度目かわからない。しかも再提出だって忘れちゃうから、こうして直接言いに来なければいけない。
けれどジニア先生が優先するべきなのは授業だ。なので必然的に、彼の元に向かうのは授業が終わったあとになってしまう。でも放課後だってジニア先生は暇じゃない。生徒に囲まれている毎日だ。そんなところに指摘をしには、さすがの私も行かれない。だから結局、私は通常業務が終わっているというのに、ジニア先生のために残って待つことになるのが常だった。ちゃんと残業代は出るから、まだいいけれど。
つまり、彼への指摘は私自身も大変なわけで――
「やったあ、おわりました!」
「はい。おつかれさまです」
「チクマさんも遅くまでありがとうございましたあ」
でもなぜか。このふんにゃりとした笑顔を見せられると、ついつい許してしまう。不思議なパワーがジニア先生にはあるのかもしれない。こうして笑顔と共にお礼を言われると「まあ、いいか」なんて思ってしまうのだ。いやでも、残業になるのはいただけないし……現に今日もだいぶ遅くなってしまった。
ジニア先生はアカデミーの職員寮があるけれど、私は違う。せめてタクシー乗り場まで送ります、の彼の申し出を受け入れ、共に乗り場まで向かう道すがら先生は思いだしたかのように言った。
「あのお、お礼をさせてください」
「お礼?」
「はい。チクマさんにはいつもとってもお世話になっていますから。今度の週末にでも、ぜひ」
「そんなお礼だなんて。仕事の一環です」
「でも、こうして遅くまでチクマさんにお仕事をさせてしまっていることには変わりません。それに、ちょうど北3番エリアで野生のラランテスに会えそうなんですよお。ほら、チクマさん、ラランテスがお好きですよね?」
え、と声が出た。たしかに私はラランテスが好きだ。鮮やかなピンク色の姿も、色違いの淡い黄緑の姿も大好き。好きだからこそ逆に手持ちにできないジレンマを抱えるほど。でも、どうしてそれを? 私、ラランテスが好きだなんてジニア先生に言ったことないのに。
私の疑問を読み取ったのか、ジニア先生は照れくさそうに頬を掻きながら、答えた。
「前の学園大会でチクマさんがぼくのラランテスを見ているなあ、って気づいて」
「あ、あの時ですか!?」
「はい! チクマさんがいたから、ぼくもラランテスもはりきっちゃいましたあ」
確かにジニア先生が繰り出したラランテスにテンションがあがったのは事実だ。気まぐれで観戦に行った学園大会で好きなポケモンが出てきて、それが比較的よく話すジニア先生の手持ちならなおさら。でもそれだけで私がラランテス好きだってわからないと思うけれど……。
「あとチクマさんがいつも使っているボールペン。ラランテス柄なのも、ぼく、ばっちり知っていますから」
ふふん、と自慢げに胸を張る彼の言うとおり、私はラランテス柄のボールペンを使っている。ポケモン柄だけどこれぐらいならいいかな、なんて選んだやつだ。それを見られていたなんて。途端に恥ずかしくなってしまう。ここは「さすがジニア先生」と彼の慧眼ぶりを褒めるところだろうか。
「だからね、チクマさん。ラランテスを見に行きませんか? お礼なら本当はどこかで食事がいいんだろうなあ、って思ったんですどお、ぼく、そういうのはちょっと苦手でえ。それに気象条件がとてもいいから、きっと綺麗なラランテスが見られると思うんです。あそこにはドレディアもいますから、ピクニックしたら楽しいですよお!」
紡がれる言葉は魅力的で、ぐらぐらと心が揺れる。生物学を教え、ポケモンずかんを作ったジニア先生がそこまで言うのだ。とても綺麗なラランテスが見られるはず。でも、とまだ私はためらっていた。だってジニア先生のことだ。なにも考えずに私を誘っているに違いない。だからきっと、そのピクニックは二人きり。
テーブルシティを出れば生徒に会う機会はぐっと減るが、確かあそこにはスター団と呼ばれるアカデミーの生徒たちが作ったグループの基地があったはず。そんなところで二人でピクニックなんて……生徒たちに目撃されたら、変な誤解を生んでしまうのでは?
「大丈夫ですよお。スター団のみなさんは、その日タイム先生の補修ですから」
私の心を見透かしたような言葉。ジニア先生は眼鏡の奥で瞳を細め、こちらを見つめている。優しい声で誘われた。「どうですかあ?」とふにゃりとした口調は変わらずに。いつものジニア先生と何も違わないはずなのに、なぜかドキリと胸が跳ねた。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」
「えへへ、うれしいです。お礼ですからねえ、ピクニックの用意はぼくがします! 迎えにも行っちゃいますよお!」
「そ、そこまでしていただかなくても」
「……だめですよお。お礼、ですから。チクマさんへのお礼。ぼくにおもてなしさせてください」
なんだかその笑みは有無を言わさないような強さを持っていて。いつの間にか、あれよあれよとジニア先生に住所を教えてしまっていた。
もちろん約束の日にはジニア先生がお迎えに来てくれたのは言うまでも無い。
「ジニア先生!」
廊下をふらふらと歩いているその人の姿を見つけ、逃がすものかと腕を掴む。急なことだったのでさすがに先生も驚いたのかもしれない。彼は少しだけ目を丸くしたけれど、すぐに「あ、チクマさあん」といつものやわらかな声を出した。
けれど答えている暇は無い。周囲を気にしながら、なるべく人目のつかないところへ彼を引っ張っていく。その間もジニア先生は抵抗する様子を見せない。「どうしたんですかあ?」と着いてくるだけだ。
「どうしたんですか、じゃないです! 生徒に聞きました!」
「生徒……? あ、もしかして……」
「そうです、この前のピクニックですよ!」
そう、週末のピクニックのこと。
ジニア先生の言うとおり、北3番エリアにいたラランテスは本当に綺麗だった。野生なのにチュリネやドレディアは人なつこく、フラージェスの甘い香りに癒やされたり、ビビヨンと写真を撮りもした。
ジニア先生が用意した具材を使って二人でサンドウィッチを作って、私が持ってきたカロス名物のポフレをポケモンたちにふるまった――その間、ずっと笑ってばかりだった記憶しか無い。
特にアカデミーきっての生物学教師であるジニア先生の解説はわかりやすく、私の質問にも丁寧に答えてくれた。いつもの頼りない印象が一変したほど。生徒に人気な先生なのも頷ける。どうにも私にはクラベル校長に怒られている姿のほうが強かったから、余計に。
だからすごく満足した一日だったのだ。家まで送ってくれたタクシーの中でも、彼はいろいろな話をしてくれた。窓の外から見えるポケモンたちのことを教えてくれたり、私に話題を振ってくれたり。お別れしたあと「もっとお話したかったな」なんて思ってしまうほどには、充実した時間だった。
週明け、ちゃんとお礼を言わないと、なんて思って登校した矢先に事件は起きた。購買でお昼ご飯を買っているところに一人の女子生徒が私の元へやってきたのだ。そわそわと周りを気にする様子に首を傾げたのも束の間、その子がこっそりと私に耳打ちする。「ジニア先生と付き合っているの?」と。
叫びそうになるのを直前で飲み込む。ど、どうしてそんなことを? と震える声で確認すれば、彼女は少し頬を赤らめ、好奇心に煌めかせた瞳を覗かせながら、教えてくれた。
――案の定、というべきか。私たち二人のピクニックが一部の生徒に見られていたらしい。思春期な年頃の生徒たちにかかれば『校外で、しかも二人きりで会っていた』の事実だけで、私たちの関係性に簡単に噂が立つ。彼女もその一人のようで、私の答えを待っているようだった。
「そういうのじゃないの。ジニア先生にはポケモンのことを教えてもらっていただけだから。あなたたちと同じで授業を受けていたようなものだよ。つまり誤解です」
「そうなんですか?」
「そうです!」
でも……と食い下がる彼女はつまらなさそうにくちびるを尖らせ、呟いた。「ジニア先生に聞いたときは、そんなことは言っていなかったのに……」と。
「――なんで否定しないんですか!?」
「ああ、あのことですかあ」
合点がいったのだろう、ぽんと手を打つジニア先生に対し、私は焦っていた。
この際、生徒に見られたのは仕方ない。けれど誤解されるのだけは避けたかった。やましいことはないけれど、いらぬ噂が流れるのはジニア先生にとっても私にとっても、いいことは何もないのだから。
けれど、良くも悪くももう噂は広がっているだろう。だから根気よく否定していかなければならないというのに、彼はいつもの調子をまったく崩していない。そればかりか、ジニア先生はやさしい声で私に言った。
「チクマさん、こういうものは変に否定しないほうがいいんですよ」
「え?」
「生徒のみなさんの話題は移り変わりが激しいですから。ムキになるほうが、逆効果です」
ジニア先生は笑みを深める。
「チクマさんも心当たりがあるんじゃないですか? 躍起になって否定されたときのほうが、逆に疑ってしまったことが」
……たしかに。思い至ることが無いわけじゃなかった。必要以上に理由を重ねることは逆効果なことも経験したことがある。ジニア先生はその理由で、あえて否定しなかった……?
「そっとしておきましょう。生徒に尋ねられても、無理に否定するのではなく、やんわりと答える程度にしてください。ぼくもそうします」
「でも……」
とはいえ誤解されていることに変わりは無いのでは……? いつか噂が落ち着いて、誰の話題にのぼらなくなったとしても、この誤解が完全に解けるわけではない。やはりちゃんと否定したほうがいいんじゃないだろうか。迷う私にジニア先生は「大丈夫ですよお!」と胸を叩く。
「なにかあったらぼくがチクマさんを守りますから!」
「守るって……」
「困ったらいくらでも相談しに来てください。もとはといえば、ぼくのせいです。チクマさんの『なやみのタネ』が消えるまで、ぼく、がんばりますから! あ、でもまた誰かに見られたら意味ないですねえ」
ジニア先生は手帳を詰め込んだ白衣のポケットから、押し込めていたであろうスマホロトムを取り出した。ロトムは寝ていたのか、ぼんやり眼のまま浮きあがり、私に画面を見せてくる。
「連絡先、交換しておきましょう。さ、チクマさんもスマホロトムを」
「あ、はい……」
私のスマホロトムとジニア先生のスマホロトムの間で通信が行われる。ぴょこんと彼の連絡先が登録されたことが通知された。私の連絡先も同じように向こうの画面に通知されているに違いない。ジニア先生はスマホロトムを操作し、小さくくちびるを動かした。
「ふふ、うれしいなあ」
「……? なにか言いましたか?」
「いえ、なんでもないですよお。それじゃあ、チクマさん。否定はほどほどに。なにかあったらすぐに連絡してくださいねえ。ぼくは次の授業にいってきまあす」
ジニア先生は大きく手を振って、廊下を歩いていった。その背中がなんだか楽しげに見えたのはなぜだろうか。
「……なんだか、うまくはぐらかされた?」
思わずつぶやいた一言を聞いたスマホロトムは返事の代わりに、ピコンと通知を鳴らす。
そこには先ほど別れたばかりのジニア先生からメッセージが来ていた。しかもかわいいラランテスのイラストスタンプ。
「え、うそ! このスタンプしらない!」
どこで買ったんですか? と返信。先ほどの違和感はすっかり頭から飛んでしまっていた。すぐさまついた既読と贈られてきたスタンプギフト。添えられていた「ご迷惑をおかけしたお詫びに」の一言。そしてまた私が返信。やりとりは続いていく。次の日も、そのまた次の日も。
――いま、振り返れば、この時からすでに私はジニア先生のてのひらの上だったのかもしれない。
彼が想像以上の策士であることに私が気づいたは、私たちの関係が学園中に広まっていて、私の心も彼のものになっていた後のこと。
ラランテスは甘い香りで相手を油断させ、仕留めることを得意とする。私はすっかり、それを忘れていた。