きっかけはなんてことのない昼下がり。
午前の納品を終わらせ、その足で今日のランチをどうしようかと悩んでいたときのこと。

テーブルシティはいつだって人が行き交い、にぎやかだ。その日も広場から陽気な音楽が聞こえてきた。なんとなく誘われるようにそちらに向かえば、アコーディオンを奏でる演奏者の横でオドリドリたちが華麗なダンスを披露しているようだった。ぱちぱちスタイル、めらめらスタイル、まいまいスタイルのオドリドリたちはそれぞれ個性的な、けれども統一感のあるダンスを演奏に乗せて踊っている。
時には技を繰り出して観客を驚かせ楽しませる姿に私もつい見入ってしまう。きれいだなぁ、すごいなぁなんて月並みな言葉しか出てこない。

けれども気づけば、ダンスよりも気になるものが現れてしまった。ちらりと横目でその人を盗み見ると、案の定というべきか大粒の涙を流しているようで。いつも大声で泣いている姿のほうが見慣れているけれど、今は音楽の邪魔をしないためなのだろうか。くちびるを引き締め、必死に嗚咽をこらえているようだった。

「あの、ハッサク先生」
「っ、ずみ゛ま゛ぜん゛……! うるざぐじでじまっで!」

話しかけたことで決壊してしまったのか「うぼぉおおい! おいおい!!」と大声で泣き始めるハッサク先生。慌てて、大丈夫なこと、気にしていないことを伝えるが、先生の涙は止まる様子は見えない。
それどころか、ちらちらとこちらに向けられる視線が多くなったので、私は慌てて観客の輪から先生を連れ出す。私を巻き込こんでしまったことに詫びながらも、やはりまだハッサク先生は泣いていた。

ハッサク先生が感激屋なのはアカデミーに出入りする人なら誰でも知っている。私のような購買に商品を卸すような立場ぐらいの関わりだとしても。でも今日のこの調子だったらアカデミーはおろか、テーブルシティに住む人みんなが知っているかもなんて、ついそう思ってしまう。だって向けられた視線は迷惑そうなものというより「ああ、またか」なんて、微笑ましい温度のあるものばかりだったから。

「ハッサク先生、よろしかったら」

大粒の涙を滝のように流す先生は私が差し出したハンカチを見て、目を丸くする。少しくたびれた、それゆえよく水を吸うタオルハンカチ。隅の方に刺繍されている一対のワッカネズミと先生の目が合った。
先生は目元を赤くしながら「お言葉に甘えますですよ」とハンカチに手をのばす。

「小生のハンカチは先ほど野生のホシガリスに差し上げたばかりでして。その矢先に、あの素晴らしい演奏とダンスが目に入り……ひぐっ」
「お、お役に立ててよかったです! どうぞ使ってください」
「ありがどう、ございまずっ!」

また盛大に泣きはじめるハッサク先生。なんとも、こちらが気持ちよくなるほど泣きっぷり。
良くも悪くも、大人になるにつれ感情の琴線は変わっていく。子供のころは感動したものでも、大人になればピンとこなくなったり。逆もしかりだ。

けれどハッサク先生は些細なことでもこうして涙を流している。感情豊かな人、と言えばそれまでだけど、私にはちょっとうらやましい。先生の見える世界と私の見える世界はきっと違うから。軽やかな音楽も、オドリドリたちの羽のひらめきも。全部、違う。きっと先生にとってはどれも比べようのない、きらきら輝くものなのだろう。
そんな先生の見ている世界を私も垣間見ることができたら……なんて。先生の涙を見るたびに、ついそう考えてしまうのだ。

「先生、私、そろそろ行きますね」

ふいに目に入った腕時計を見れば、残されたお昼休憩が半分ほどになっていた。いい加減ランチを買ってお店に戻らないと。午後も忙しいはず。空腹でいることはなるべく避けたい。

「そのハンカチ、処分しちゃっていいですから。お手間をおかけしますけど」

答えを待たず、彼に背を向け、その場を離れる。
遠くからハッサク先生の声が聞こえたような気がしたが、音楽が邪魔をしてよく聞き取れなかった。
先生のことだ。きっとハンカチを洗って返すつもりだったのだろう。でもだいぶくたびれたハンカチに、そこまで気をつかってもらうことはない。それに私の行動はちょっと恩着せがましい気もしていたから、これでちょうどいいのだと思う。あのワッカネズミも仕方ないって同意してくれるはず。

私は先生のことを知っているけれど、先生は私のことを知らない。だからこれで終わり。
――なんて思っていたのだけれど。

「いま、よろしいですかな?」

アカデミーの購買室、納品伝票のチェックが終わったその瞬間。見計ったかのように私に届いた声。
振り向いて見上げれば。いたのはハッサク先生だった。

「仕事が一区切りしたところだとお見受けしましたですよ。お話をしても?」
「だ、大丈夫です」
「それはよかった!」

ハッサク先生は自然な動作で「生徒たちの邪魔になりますからね」と購買室の隅へと誘導する。そして淡いオレンジ色の包みを差しだした。

「以前お借りしたハンカチです。もちろん洗ってありますですよ」
「え、そんな、わざわざ!」
「お借りしたものをお返しするのは当然です。それとこちらも」

続いて差し出されたのは正方形の私の手のひらより少し大きな箱。艶やかな黒色のその中央、金色の文字で書かれたのは私でも知っているブランドの名前だった。驚く私を落ち着かせるかのように、先生は微笑んだ。

「いくら洗ったといえど、若い女性のハンカチで小生のような男が涙をぬぐった事実は変わりません。それをまた、あなたが使うのはあまり気分のいいものではないでしょう。よろしければ代わりにこちらをお使いください」

つまりこの箱の中身はハンカチになるのだろうか。ハンカチといえど有名ブラントのもの。くたびれたワッカネズミのハンカチとでは釣り合いがとれない。

「受け取れません!」
「なら捨てていただいても結構ですよ。小生が勝手に用意したものですからね」
 
そっと、けれど有無を言わさずに、彼は私にその箱を押しつけた。

「小生を立てると思って。お願いしますですよ」
「……逆に気をつかわせてしまって申し訳ないです」
「そんなことは全く。誰かに贈り物を用意するという胸躍るひと時を味合わせてくれたことに、逆にお礼を言いたいほどです」

そういえば、とハッサク先生は言葉を切った。そして少し照れたように眉を下げ、頬を掻く。

「あなたのお名前をお聞きしても? アカデミーの関係者ではないかと目星をつけていましたが、お名前まではわからず。実は今日もたまたまお見掛けして、急いで職員室まで取りに戻ったのですよ」
「探してまでいただいていたなんて……。改めまして、チクマです。購買室に商品や備品の納品をしています。先生のことはよくお見掛けしていました」
「なるほど、それで小生のことをご存知だったのですね」
「はい。でもなぜアカデミー関係者だと? あの日、私はそんなことは一切……」

言わなかった。こうやってわざわざハンカチを返してもらわなくてもよいと思っていたから。
先生は「その質問を待っていました」と言わんばかりにニヤリと笑う。

「わざわざ小生に『先生』とつけて呼ぶのはアカデミー関係者以外におりませんですよ」
「……テーブルシティに住む住人なら、どちらかというと『先生』って言うと思いますけど」
「そ、そんなことは……あるのですか?」
「正直なところ『四天王のハッサクさん』イメージより『アカデミーのハッサク先生』イメージのほうが強いですから」
「……ま、まあ、こうしてお会いできたのでオッケーなのですよ! 終わり良ければ総て良しというではないですか! ええ、そうですとも!」

せっかくの推理に穴があったことを必死に隠す名探偵なハッサク先生に、思わず笑みがもれる。くすくす笑う私に気づいた彼はバツが悪そうな表情を浮かべながらも、私と同じように目元を緩めた。



この一件以降、私とハッサク先生は仲良くなったように思う。納品は毎日あるわけじゃないから、アカデミーではなかなか顔を合わせることはなかったけれど、それでも話をする機会は以前よりぐっと増えた。それがシンプルに楽しくて。ついつい彼の姿を探してしまうこともしばしば。
ただ今日は、おしゃべりとは違った意味でハッサク先生を探していた。

「ハッサク先生! ああ、よかった会えました!」
「おや、チクマさん。そんなに息を弾ませて、どうしたんですか?」

廊下の角を曲がった先。のしのしと歩く彼の後ろ姿を見つけた。どうやら授業終わりだったらしく、立ち話しても問題ないとのこと。

「先生を探していたんです。先日のお礼をしたくて」
「お礼……ああ、そんな。逆に気をつかわせてしまいましたね」

それはついこの前のこと。
あの日は急に大雨が降ってきて。納品に来ていた私はそれに当たってしまったのだ。商品はなんとかぬれずにすんだけれど、逆に守ることにいっぱいで私自身は雨粒にうたれてしまっていた。会社のジャンパーを着ているから服は濡れていないのが、不幸中の幸いだろうか。とはいえ頭はシャワーを浴びたぐらいにびしょぬれなのだけれど。これじゃあまるでハイドロポンプをくらったポケモンだ。

こんなに濡れていたらアカデミーに入れない。どうしようかと玄関先の屋根の下で悩んでいたときのことだった。閉じていた扉がガチャリと開き、そこから顔がのぞいたかと思えば「ああ、やはり!」と声があがる。ハッサク先生だ。

「窓の外からチクマさんが見えましたですよ。この雨の中、傘もささずに。大丈夫ですか?」
「あはは、急に降られてしまいまして」
「確かに先ほどまではいい天気なのが一変しましたですからね。おっと、そんな雑談をしている場合ではないのですよ」

これを、と目の前に出されたのはハンカチ。確認するまでもなく、ハッサク先生のものだろう。
綺麗にたたまれたそれは深い藍色をしている。

「本当はタオルなどがあればいいのですが、いかんせん持ち合わせがなく。いや、ありはするのですが絵の具で汚れているものをお貸しするには……」
「で、でもこれも濡れてしまいます!」
「なにをおっしゃるのやら。チクマさんが風邪を引くこととハンカチが濡れることなど、天秤にかけることもないのですよ。そもそも本来の用途の一つではないですか」

躊躇う私に有無を言わさず、先生はハンカチを押し付け、代わりに抱えていた段ボールを取り上げてしまった。あっという間の犯行に為す術もない。

「これをお返ししてほしければ……わかりますね?」
「……先生、ちょっと無理矢理すぎませんか?」
「駆け引き上手と言っていただきたい。小生、これでも四天王でもありますからね。どうもあなたの中でのイメージは薄いようですが」

以前言ったことを気にしているのだろうか。ちょっと彼の拗ねた口ぶりに思わず笑いがこぼれる。

「なら遠慮なく、お言葉に甘えちゃいます」
「もちろんですよ」

ハッサク先生のハンカチはとてもいい品なのだろう。見た目に違わず、あっという間に水を吸ってくれた。髪先から落ちる雫はほぼない。最後にジャンパーを軽く拭って、なんとかアカデミーを濡らさないまでには処置できた。

「ありがとうございました。実は拭くものが無くて困っていたんです」
「なら余計にお役に立ててなによりですよ」
「このハンカチは洗ってお返ししますから」

ぱちくりとハッサク先生が瞳を瞬かせる。

「そんな。たかが雨粒を拭いたぐらいで」
「たかが、じゃないです。ちゃんとお礼をさせてください」
「しかし」
「しかしでもありません。ほら、ここは私を立ててくださいな」

いつだかの彼と同じようなことを言えば、ハッサク先生はやれやれと首を振って「今度は小生の負けですね」とようやく段ボールを返してくれた。

家に帰って、おしゃれ着洗剤で手洗いし、アイロンだってばっちりかけた。
お返しする準備は万端だけれど、先生はあの日、新しいハンカチまで用意してくれたから、私だって何か添えたい。なにかいいものはないだろうか。

彼との会話を思い返して頭を悩ませる。けれども心はわくわくしていて。
ああ、そっか。同じように先生もワクワクしていたのかも。喜んでくれるといいな、なんて思いながら。
結局、私はほうじ茶の茶葉を贈ることにした。以前、私がジョウト出身なことを伝えとき、緑茶を飲んだことがあると話題にしていたから。緑茶とほうじ茶は味わいが違うから、ぜひ飲んでほしいと思ったのだ。

「緑茶より苦みが少ないですけど、風味が全く違うので口に合わないかもしれません。ご無理はしないでくださいね」
「大切に飲みますですよ。チクマさんが選んでくださったものですから」
「そんなこと保証にはならないのに」
「小生はそうは思いませんですよ。なにしろ小生とチクマさんは趣味が合いますしね」
「映画の、ですけど」
「大事なことではないですか」

私の唯一の趣味である映画鑑賞。今はやりのポケウッド最新作もさることながら、往年の名作からミニシアターの作品も私はよく見る。そして先生もだった。友人には「なにそれ」と言われてしまうような作品も知っているだけでなく、作品ごとの映画美術の見どころを教えてくれた。そのポイントを押さえながらまた見ると、違った面白さにあふれていて。大好きな作品がまた好きになるきっかけを、彼はもたらしてくれた。

ハッサク先生の見えている世界が私にも少しわかりかけてきた、なんて。おこがましいことを抱いていたり。

「おっと、すみません。そろそろ行かないといけませんですよ」

その一言でハッと現実に戻される。
そうだった。先生には授業があるんだった。

「ごめんなさい、長く引き留めてしまって」
「いえ、小生もチクマさんとのおしゃべりは楽しくて、ついつい時間を忘れてしまうのですよ。――次に学園を訪れるのはいつごろですか?」

少し、驚いた。先生がこうして次の予定を訊いてくるなんて初めてだったから。
なぜだかそれが無性に嬉しくて、私の声は上ずって飛び出てくる。

「来週の木曜あたりになるかと」
「ならばまたその日に。お茶の感想もお伝えできればと思いますですよ」
「はい、楽しみにしています」

では、とハッサク先生はまたのしのしと歩いて次の教室へ。
来週の木曜日。その約束を口の中でころがす。満たされた気持ちが広がって、胸があたたかくなるようだった。


***


私とハッサク先生の交流がそろそろ半年に差し掛かる。けれどそれはなんともあっけなく終わってしまうみたいだ。理由はシンプル。私に異動の話があがったのだ。テーブルシティからチャンプルタウンに私の生活は変わる。チャンプルタウンにある店舗の新人教育を私に任せたいのこと。

お給料はあがるし、キャリアアップにもつながる。遠いのがネックだけれど、そこは引っ越せばいい。ちょうど物件更新のタイミングだし。そもそも会社からの辞令なので断るのも難しい。
ただ一つ、心残りがあるとすればハッサク先生とのやりとりだけ。

テーブルシティとチャンプルタウン。タクシーですぐだけれど、決して近いとは言えない距離。今だってアカデミーという共通の場所があるから交流が生まれていたのだ。それがなくなれば、私たちの間にはぽっかりと穴が空いてしまうに違いない。パルデアの大穴と同じくらいの穴が。
だってタクシーを乗ってまで会う理由なんて、すくなくとも先生のほうにはないのだから。

「そうですか……。なんとも急なことですね」
「私もそう思います。だから今は引っ越し準備でてんやわんやで」

あはは、とわざとらしく笑う私とは正反対にハッサク先生の表情は晴れない。それどころか彼らしくない小さな声で「寂しくなります」と呟いた。その声音にじんわりとした悲しさがにじんでいて「私もです」と答えずにはいられなかった。

「チャンプルタウンで困ったら、アオキというジムリーダーを頼るといいですよ。少々ぼんやりとした面持ちをしていますが、実に頼りになる男ですので」
「アオキさんですね、わかりました」
「ええ。存分に頼ってやってください。そのほうがアオキの成長にもなるで、しょう、から……っ」

太陽の光を煮詰めたような金色の瞳が揺れている。うっすらと潤んだそれに、どうしようもなく心がしめつけられた。
先生の泣いている姿なんて何回だって見ている。知っている。でもいま、泣いている理由は私のためなのだ。私がいなくなるから、泣いている。寂しいと、眦からたまる雫が物語っている。その事実が胸に迫り、私まで瞳の奥が熱くなった。

せんせい、と震えるくちびるで名を呼べば、彼はこぼしそうになる涙をこらえるようにぐっと眉根を寄せ、強張る表情のまま私に一歩近づいた。

「チクマさん、ハンカチをお借りしても?」
「え?」
「お恥ずかしながら……いえ、見てのとおりです。チクマさんとこうして気軽にお話ができなくなることが、寂しくて悲しくてたまりません。小生、いまにも泣いてしまいそうなのですよ。しかしこの後に授業を控えており、泣いたまま生徒たちの前に出るわけにもまた、いかないのです」

目元は赤く、鼻こそすすっていないものの、いつものように大声で泣きだす直前。たしかにそう見えた。

「だからチクマさん。ハンカチをお借りしても?」

私はすぐに頷けなかった。だって先生はちゃんとハンカチを持っているに違いないから。私のものをわざわざ借りなくなって、アイロンがかかった綺麗に折りたたまれたハンカチをいつものようにこの人は持っているはず。
躊躇う私の名前を先生はもう一度呼んだ。優しく、丁寧に。

「チクマさん。お願いできますか?」
「……どうぞ」

いつかのようにワッカネズミのアップリケが目立つ、ちょっとくたびれた、けれどもよく水を吸うタオルハンカチ。それをお礼と共にハッサク先生は受け取り、静かに目元にあてる。

「ああ、本当に助かりました。――こちら、必ずお返しにあがりますですよ」
「……!」

言葉に隠された本当の意味に気づいた。この人は終わってほしくないと、惜しいと思ってくれている。私と同じで、ずっとこうして続いていけたらいいと。
その想いにどんな言葉を名付けていいかわからないけれど。

「は、はい! お待ちしています!」

でもいまは。それで充分な気がするのだ。そんなものこれから見つけていけばいいと思う。次≠ヘ確実に用意されていて、これからも次≠ェ続いていく。そんな予感を感じさせるから。
いつか、たくさん次≠ェ重なっていたら。一緒に映画だって行けるかもしれない。

少なくともハッサク先生は私にハンカチを返しに来てくれる。私はその次≠ェ今からとても待ち遠しくてたまらない。



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