ガチャンと音を立てて皿が割れたのは今朝のこと。
そこに不吉な予感などはなにもない。単純に、洗っていて手を滑らせ、シンクに落としただけだ。当たり所が悪かったのか、逆に良かったのか。破片などが飛び散ることもなく綺麗に二つに割れた皿を見て、ハッサクは本日の予定が今この瞬間に決まったことを確信した。
近場の店を覗いてもなかなかピンとくる皿はなく。しばらくハッサクは考えて、ベイクタウンまで足を延ばすことにした。そらとぶタクシーに乗るころには「なかなかいい休日の過ごし方だ」なんて思うほどに、ハッサクは買い物を楽しんでいた。
ベイクタウンは焼き物の町だけあって、一歩中に入れば店先に色とりどりの皿が所狭しと並んでいた。土産物に適した工芸品のようなものから、普段使いに使えるものまで、選り取り見取り。ハッサクはそこそこ自炊もするほうでもあったので、せっかくだから料理が映えるものがいいと決めた。
「おお、こちらもなかなか捨てがたい」
「ちょっとデザインがうるさいけど、だからこそシンプルなサラダを盛り付けるのが似合うと思わないかい?」
「ええ、まったくそのとおりです!」
こちらの薄い青の無地の皿はどんな料理にも合うだろう。しかし、こちらのオレンジのマーブル模様も捨てがたい。店主のセールストークも相まって、甲乙告げ難くなってしまっていた。この際、二つとも買ってしまおうか。ああ、でもこちらのシンプルな白い皿も気になる。形がとてもいい。気に入った。
悶々と悩むハッサクに店主は「好きなだけ悩んでおくれ」と笑う。彼の持つこだわりクセを見抜いたようだった。
それにハッサクが感謝の言葉を述べようとした、その矢先のこと。
「誰かそいつを捕まえてくれ!」
ざわりと辺りが騒然となった。間を置かず、つんざくような悲鳴があがる。
ハッサクがすぐさま道に飛び出すと、男がバッグを持って逃げている後ろ姿があった。尻もちをついている観光客もいる。状況から見て、観光客を狙ったひったくりだろう。治安のいいパルデアとはいえ、軽犯罪の類はどうしても起きてしまう。
ハッサクは男を追いかけるため走り出した。場合によってはポケモンを出すことも視野にいれながら、男の背を睨む。「待ちなさい!」と鋭い声を飛ばすと、ハッサクが追いかけてくることに気づいた男は舌打ちを響かせ、そのスピードをあげた。
初動が遅れたとはいえ、ドラゴンポケモンたちを育てるハッサクは年齢の割に動ける方だ。それを犯人は知らない。相手の油断も相まって充分に追いつけるはすだ。その証拠に時間もかからず、男との距離がじりじりと近づいてきた。
男のほうも追いつかれると気づいたのだろう。着ているジャンパーのポケットに手をつっこむ仕草を見せた。それを目にしたハッサクにわずかに焦りが浮かぶ。モンスターボールを取り出され、このまま空に逃げられるのは厄介だからだ。その前に確保しなければならない。ハッサクも焦りを感じたそのとき。
――男の往く手を塞ぐように何者かが、空から落ちてきた。
「な、なんだ!? どこから!?」
さすがに男も足が止まる。急に現れた人物。作業着を着ているため、判別に遅れたがシルエットの様子からどうやら女子らしい。しかも登場の仕方が玄人のそれだった。衝撃をいなすように前転をし、かといって隙を見せることなく姿勢を戻し、男の前に立ちはだかる。とにかく急な第三者の存在に犯人は面食らっていた。
これはチャンスだ。ハッサクはスピードを緩めることなく、男に向かって走る。
前方に謎の女性、後方に近付く男。さすがにこれでは捕まってしまう、と男も悟ったのだろう。ハッサクを見て、目の前の女性を見て。男が迷った時間はわずかだった。
上背のある男と飛び降りてきたとはいえ性差に利がある女。どちらに向かっていくかは考えるまでもない。
「どけ、女!」
「っ、危ない! 離れなさい!」
ポケットから出されたのは刃物だった。時にはモンスターボールよりも厄介なもの。あいにくとその時が今≠セ。加えて今の犯人は自暴自棄になっている。なにが起きてもおかしくはない。
女性に対して凶器を向けるなんて。ハッサクは奥歯を強く噛みしめた。庇おうにも距離がある。間に合わない。
男が大きく振りかぶり、刃先が光に反射し――そして、ぐるりと男が宙で回った。
ドスン、と鈍い音が鳴り、地面が揺れる。瞬く間に「アイテテテテ!」と男の悲鳴があがった。
女性は体重をかけつつ男の腕を絞めあげると、持っていたナイフを取り上げた。男の届かない場所にそれを放り投げる。じたばたといまだに暴れる男を黙らせるためか、絞めあげる腕から鈍い音がさらに響いた。「抵抗するなら関節を外しますよ」なんて物騒な一言も聞こえてくる始末。
「すみません。なにか縛るものを持っていませんか?」
「し、縛るものですか」
「警察が来るまでさすがにこのままというわけにも……。過剰防衛で怒られるのも嫌ですし……」
二人に追いついたハッサクに女性は困ったように眉を下げた。
あまりにも冷静な彼女の様子に逆にハッサクが狼狽えてしまう。結局、近くの商店からロープを借り、縛り上げることとなった。その手際も良く(縛るあたりで代ろうとしたのだが、彼女に断られてしまった)、ハッサクがしたことと言えば遠くにいったナイフを回収したことぐらい。
警察も来て、犯人を引き渡したあと、ようやく二人は落ち着いて話すことができた。
「あなたの怪我はありませんですか?」
「ええ、大丈夫です」
「それならよかった。しかし、あのとき、あなたはいったいどこから……」
「屋根です。飛び降りました」
「と、とびおり!?」
脳裏に浮かんだのは風車から飛び降りる友人の姿。
まさか彼女もそういった趣味があるのか、とハッサクは一瞬混乱したが、すぐさま思い直す。落ち着いて考えれば彼女は作業着を着ており、手には軍手もはめている。おそらく屋根の修理などを仕事にしているのだろう。そしてちょうど作業中だった、あたりだろうか。
その予想は当たっていたらしい。彼女はクスリと笑いながら「あそこの屋根に上っていて」と飛び降りであろう屋根を指した。梯子もかけてある。
なかなかの高さがあるあそこから、飛び降りたのか……と思わずハッサクは息をのんだ。
「なんか騒がしいな、と思って下を見たら、なんかすごいことになっていて」
まるでジョウトのドラマのようでした、と彼女は笑う。
「間に合ってよかったです」
「ええ。あなたのお力を借りられて感謝しますですよ。小生だけでは取り逃がしてしまっていたかもしれません」
「そんなこと。逆にお邪魔しちゃったかなと思っていたぐらいで」
「しかし無茶はいけませんですよ。飛び降りたのもそうですが、あなたが怪我をしたら」
「平気ですよ。鍛えていますし。あの男ぐらい、全然倒せちゃいます」
慢心はいけません、と諌めようとしたハッサクを遮るようにチクマは言った。
「あ、でも一つお願いしたいことが」
「なんでしょう?」
「会社には内緒にしておくつもりですが、もしバレてしまったら証言してくれませんか? サボっていたわけじゃないって」
「ええ、もちろんです。表彰状ものの活躍をしたとお話しますですよ。むしろ、警察から表彰の連絡がいって、そこから伝わってしまうかもしれませんが」
「たしかに、先程警察の方に名刺を渡してしまいました……」
あちゃー、と顔を覆う彼女に、ついハッサクは声をこぼした。
すると今度は彼女が口元を緩める。二人は顔を見合わせ、笑い続けた。
おそらくもう会うことのない相手であるとお互いが感じていた。そんな関係だったから心地よかった。だからあえてハッサクは名乗らなかった。それが今の自分たちにふさわしい気がして。同様に彼女の名前を尋ねることもしなかった。おそらくそれは彼女も同じだったのだろう。名乗ることも、そして名を尋ねることもなかった。
仕事に戻る彼女を見送って、ハッサクも改めて皿を買うために先ほどの店に戻った。
もう会うことはないのだろうな、と形容しがたい寂しさを覚えながら。お互いに名乗りもしていないのに「職場に証言をして」なんて約束をよくできたものだな、と気づいたのは、新しい皿と共に家に帰ってからだった。
***
なんて、あの別れが自分の中で想像以上に感傷的に、そして大切になっていたことをハッサクはいま、理解した。もう、だいぶ前の話だ。あの時、結局三つも買った皿にはこまかな傷がつき、だいぶ家になじんできたぐらいには前の出来事。
それでも鮮明に覚えていたのは、ひとえに彼女の凛とした美しさを忘れられなかったからだろう。
「あの時の」
どちらともなく呟いた。一言一句、同じ言葉を。
ハッサクの隣、店の前のベンチに座るキハダが「チクマかぁ?」とむにゃむにゃした聞き取れない声を出すのみ。店内の喧騒が遠くに置き去りになるようだった。
テスト後に行われるアカデミー教師陣の飲み会。いわゆる「おつかれさま会」に近いそれに、久しぶりに全員が集まった。元々自由参加というのもあって、こうして全員が集まるの稀である。そうした珍しさもあって、飲み会の雰囲気もいつもより盛り上がっていたように思う。
最初に潰れたのはキハダだった。
元から酒に弱い彼女は場の空気にのまれ、早々に酔っ払ってしまったようで、眠りこける直前に彼女はは「友人に連絡を取ってほしい」と端末をミモザに渡し、潰れた。
頼まれたミモザはため息をつきながらも、ロックの解除された端末を操作し、連絡を取った。キハダとルームシェアをしているという彼女の友人は、しばらくすればこちらに来てくれるらしい。「迷惑をかけてごめんなさい」と謝罪までもらった、とぼやきながら、ミモザは端末とキハダの荷物を片付ける。
「なら小生が外でキハダ先生と待っていましょう」
「え、いいんですか?」
「もちろんです。ちょうど外に風に当たりたいと思っていましたですよ」
本来であれば同性であるミモザに託したほうがいいのだろう。しかし彼女は途中からキハダの世話を焼いていて、お酒も料理もあまり楽しめていない。
ハッサクが外の風に当たりたいと思っていたのは本心でもあるし、男性陣はハッサクを始め全員が仕方ないとはいえミモザばかりに任せることに気が引けている様子も見せていた。なら年長者として自分が、とハッサクが手を挙げるのはなんらおかしいことではない。
外に運ぶところだけ最後にミモザに手伝ってもらい、ハッサクは店の前におかれたベンチでキハダと彼女の友人を待つ。「はっさくせんせぇ、もうしわないぃ」とむにゃむにゃ謝るところ見る限り、彼女の酔いも徐々にさめつつあるらしい。いまだに顔どころか首まで真っ赤ではあるが。
パルデアには明確な四季はない。けれど日差しが強弱はあり、風には温度も宿る。今日は少し蒸し暑い。行き交う人々を眺めていたハッサクに、近づく女性が一人。
「あの、すみません。キハダを迎えにきたのですが」
「お待ちしていましたですよ。……おや?」
あの時の。ベイクタウンで会った、彼女だ。
二人の視線が交わり、相手を認識する。お互いに相手が誰だかすぐにわかったようだった。
まさか再会するなんて。しかもこんな場所で。
驚きと戸惑い。そしてわずかな嬉しさ。
ハッサクの胸に言い知れぬ感情がわきあがる。なにかを言わなければ、と頭ではわかっていても、どうしたらいいかわからなかった。
声を、かけてもいいのだろうか。
「……チクマか?」
「う、うん、そう! 迎えにきたよ」
ぼんやりとしたキハダの声に飛び跳ねたのは相手だった。
そこで初めてハッサクは彼女の名前を知った。彼女はどうやらチクマというらしい。
こほんとハッサクは咳払いをして、立ち上がり、一歩近づいた。
「チクマさん。小生はハッサク。キハダ先生と同じくアカデミーで教師をしていますですよ」
「初めまして、ハッサクさん。改めましてチクマです。キハダの友人です」
でもまさか、とチクマは笑った。
「こんな風に、またお会いするなんて思わなかった」
「小生もです。先ほどは驚いて言葉を失ってしまいました」
「私もです」
チクマは迎えにきたキハダに声をかけ、彼女を軽々とおぶった。一連の淀みのない動きと、成人女性(しかもほぼ寝かけている)を抱えても顔色一つ変えないその様子が、ハッサクの瞳の奥で以前の姿と重なる。
「では私はこれで」
「送りますですよ」
「そんなお気遣いいただかなくても大丈夫ですよ」
「もう夜です。せめてタクシー乗り場まで」
それは当初からハッサクが決めていたことだった。キハダを迎えに来るのが男女どちらだとしても。タクシー乗り場ままでは付き添おうと。人では多いほうがいい。
それにここは飲み屋が多い場所だ。良くも悪くも人通りが多い。その中で女性二人だけを放り出すことをハッサクはしたくなかった。
しかしチクマはハッサクの申し出の意図にピンときていないらしい。きょとんとした瞳を向けたまま、首を傾げた。
「もしかして、心配してくれているんですか? 大丈夫ですよ。私なら。ハッサクさんもご存知でしょう?」
「ええ。よく知っていますとも」
ひったくり犯を華麗に捕まえたあの大立ち回りを思い出す。
ナイフを持った男に対し怯えることなく対峙し、絞め技まで繰り出していた。その間も顔色は変わらなかった。それは自身が「強い」と自負している証拠である。
「けれども、それは小生があなたを送らない理由には、決してなりえませんですよ」
「……?」
「あなたは強い女性だ。心身ともに。だとしても、一人で全てまかなおうとする必要はないのですよ」
盛りつける料理に合わせて皿を変えるように。適材適所という言葉があるように。
いまハッサクが共にチクマらといることで、弾かれるトラブルは確かに存在する。それはきっとチクマならば簡単にいなしてしまうものだろう。そもそもハッサクの出番はないかもしれない。
「無ければそれはそれで『ああ、よかった』と笑えばいいのです」
「…………」
「小生に送らせてください。ご不安かもしれませんが、こう見えても年の割には力もあるほうですからね」
「……私、力仕事ですし、自分で言うのもなんですけど喧嘩も強いほうで」
チクマはキハダを抱え直し、少し照れくさそうにハッサクに笑いかける。
「嬉しかったです。先ほどの言葉。だから、甘えてもいいですか? タクシー乗り場までご一緒してもらいたいです」
「もちろんですよ。キハダ先生を起こさないようにゆっくり行きましょうか」
「あはは、キハダは酔い潰れたときは全然起きないんで大丈夫ですよ。走ったって平気なぐらいです」
でも、とチクマは言葉を切った。
「ゆっくり行きたいです。ハッサクさんとお話、もう少ししたいですから」
見つめられた瞳の奥にハッサクは言葉を詰まらせた。向けられるまっすぐな好意がまぶしくて、つい目を細めてしまう。
「……ああ、そういえば。あれから職場のほうは大丈夫でしたか?」
「それが案の定、警察から連絡がきてバレちゃいました。怒られなかったんですけどね」
軽やかな笑みの中、歩き出すチクマの背中でキハダがむにゃむにゃと言葉にならない声をあげた。