賑やかなバルの一角で、ここに似合わないズンと重い空気を纏っているのが私たちだ。
頼んだサングリアに入ったベリーも赤いワインの底にすっかり沈んでしまっている。昼間からバルでお酒を飲む。端からみればなんて贅沢な時間だろう。なのに何度目かわからないため息が口からもれ、それは向かいの男からも聞こえてきた。本当に、まったくもって、この場所に私たちは似つかわしくない。
「クラベルさんこわすぎ……」
「すっごく怒られましたねえ……」
思い出す度に身体が震えてしまう。あんなに怒った人の顔を私は見たことがない。
「でも、真面目にどうする? 発表会まで時間無いのに、やりたいことだらけじゃん」
「やっぱりクラベルさんに交渉を……」
「ジニアがやってね? 私はいやだよ。また怒られるの」
「ぼくだっていやですよお!」
うわん! と泣き出すジニアを横目に私はサングリアを舐めた。すっかりぬるくなってしまっているけれど充分に美味しい。
私とジニアは同じ研究所に所属して、日々ポケモンの生態についての研究を行なっている。そして二人で今度、コレクレーについての研究発表を行なうことになっており、内容を煮詰めている真っ最中。その矢先に私たちはクラベルさんに呼び出されてしまった。「いい加減にしなさい」と。
私たちはその言葉の意味に自覚があって、加えてクラベルさんも察しているようだった。「ここは宿泊施設ではないのですよ」「急な病気や怪我ならともかく、あなたたちはそれ以前の体調管理ができていません」と懇々とお説教をされ、挙げ句の果てに「今日はちゃんと♂ニに帰ること」と研究所を追い出されてしまった。
つまりなんというか。私たちはちょーっと残業をしすぎたらしい。うん。ほんのちょっとだけ。……研究所で連続寝泊まりをしたのは、さすがにやりすぎだったかもしれないけれど。
「ともかく今日はもう研究所に帰れないし、明日からも居残り禁止だよ」
「ええ!? そんなあ!」
悲鳴をあげるジニアに同意する。
「せっかくヨワシのフォルム化についてのおもしろい考察を見つけたところだったのにね」
「確かにあれはおもしろかったですねえ。チクマさんとしてはコレクレーとの共通点との認識が強いですか?」
「ううん、どうだろう。箱のコレクレーの傍に単独のコレクレーが必ずいるというわけじゃないし。そもそも群れでいるところを見かけた事例も――」
急に黙った私に目をぱちくりと瞬かせるジニア。彼に「このまま話してたら閉店までいることになっちゃう」と言えば、その意味を理解してくれたらしい。あはは……と困ったような笑いが聞こえてきた。
でも本当にどうしようか。発表会はまだ先とはいえ、私もジニアも凝り性だから、時間はあればあるだけいい。なにより内容に妥協もしたくない。それに一度クラベルさんに目を通してももらいたいし……。
「自分たちがいけないとはいえ、このタイミングでの残業禁止はキツい……」
せめて寝泊まりを週二日ぐらいに減らしておけばよかったのかもしれない。『後悔先に立たず』とはまさにこのことだ。
少し固くなったポテトを口の中に放り込み、サングリアで塩気を流す。どうせこのあと家に帰っても寝るだけだ。こうなったらとことんやけ酒をしよう。とはいえ、頭の端っこは今後のスケジュールの組み立て直しをするべくフル回転させながら、またポテトを囓る。そういえばジニアは食べていないな。珍しくお酒は飲んでいるけれど。
ジニアも食べなよ、とポテトが入った皿を近づけるが、彼はその皿には目もくれずに言った。
「あのお、チクマさん」
「なに?」
「よかったらぼくの部屋に来ませんか?」
「……ジニアの部屋?」
「あ! 変な意味じゃなくて!」
ぽぽぽとジニアの頬が染まっていく。アルコールのせいではないことはよくわかっていた。
ゴムが緩んだシャツの襟をパタパタと仰ぎながら、彼は続ける。
「研究所にずっといるから怒られるわけでえ」
「まあね」
「なら自宅でやれば怒られないと思いませんかあ?」
「それはそうだけど……」
ジニア曰わく、研究所にいる間は資料をとことん読み込んでまとめを作り、定時で帰宅。その後ジニアの自宅もといマンションの部屋に集まって考察や討論やさらなる資料探しを行なう――とのこと。
だいぶ黒よりのグレーな気がしなくもないけれど……。
「研究所の資料は持ち出し禁止ですけど、ぼくが集めた本もだいぶいっぱいあります。それにチクマさんのものも含めれば、なんとかカバーできるはずですよお!」
「……確かにただ帰るだけよりはいいかも」
元々家に帰ってからも休むつもりは無かったし、おそらく何かしたくて動いていただろう。ジニアもきっとそう。となれば一人より二人でやったほうがずっと効率がいい。
ただ強いていうのなら。ジニアは一人暮らしだったはず。いくらお互いにそういう気持ち≠ェ無かったとしても、一応私たちは妙齢の男女。躊躇いが生まれるのも事実。
ジニアもそのことはわかっているようで、へにゃりと眉を下げた。
「どこかワーキングスペースを借りるのもいいですけど、ぼくたち決してお金持ちってワケじゃないですし……」
「しがない研究員そのいちとそのにだもんね……」
そして研究所に近いのはジニアの自宅のほう。となれば私たちが取る行動は決まったも当然だ。スマホロトムを呼び出して、彼のマンションから出る交通機関の最終便をチェックする。さすがに毎回タクシーを使うのでは本末転倒だ。
日付を少し過ぎた辺りがデッドライン。これなら充分。
「よし、その話のった」
「じゃあ今日からさっそく!」
「それはダメ」
「ええ!? どうしてですかあ?」
「だってどうせ片付けてしていないでしょ」
ぎくりと肩が揺れたのは見逃さない。彼はわかりやすく言葉を詰まらせ、視線を彷徨わせている。
「どうしてもって言うなら手伝うけど」
「ぼく一人で頑張りまあす……」
しょぼくれるジニアに思わず笑みがこぼれる。仕方ない。お礼と激励も兼ねて、ここは私が奢ることにしましょうか。
***
ゆらりと目の前の文字がぶれる。少し目を閉じれば、途端に頭の奥から重さに似た鈍痛が襲ってきた。
「集中しすぎたかな……」
持っていた本にしおりを挟み、ソファに身を沈める。ジニアはまだ帰って来ていないから、姿勢を楽にすることを優先すべく、足を投げ出した。
白い天井とシーリングライト。自室のものとは違うそれを目にするのもすっかり慣れてしまった。勝手知ったる他人の家、とはこういうことを言うのだろう。
最近はずっと、退勤後にジニアの部屋を訪れている。通いすぎて彼に合鍵まで渡される始末。今日も「クラベルさんに呼び出されていて。すみませんが、先に帰っていてくださあい」とこっそり囁かれた。
そんなクラベルさんには未だに私たちのグレー行為はバレていないようで、どちらかというと「ちゃんと言いつけを守って感心ですね」なんて言われてしまった。子供扱いされているとしか思えないのはちょっと複雑。そして良心もちくりと痛む。
なかなかおさまらない頭痛に痺れを切らした私はポーチから頭痛薬を取り出し、キッチンに向かう。心の中でジニアに断りを入れ、冷蔵庫を開けた。彼からは招かれた初日に「ぼくがいないときでも好きに使っていいですよお」と言われていたけれど、さすがに家主がいないときにプライベートな場所にふれるのは憚られる。でも今回はちょっと許して欲しい。持ち歩いている飲み物も切らしてしまっているから。
「あー、もうジニアったら……」
思わず呻き声をあげてしまう。失望のそれではなく、むしろ逆。嬉しくて、口元が緩んでしまう。
冷えている水のボトルは以前どこかで私がよく飲んでいると話したメーカーが揃っている。他にも私が美味しいと伝えたヨーグルトやドライフルーツがおいてあった。
夜まで二人で討論したり、資料をまとめていると、当たり前だけどお腹が空いて。テイクアウトやデリバリーをすることもあるけれど、ちょっとしたおやつを食べることのほうが断然多かった。
その時決まって彼は私の好みものを用意してくれていた。わざわざ買ったの? と尋ねてもはぐらかされてしまっていたけれど、本当に私のために買っていてくれたのかもしれない。このヨーグルトも最近買ったみたいだし。私が「お腹空いた」と言ったときのために。
きゅんと胸が弾むのを自覚する。なんというか。ジニアは私が思っているよりずっと素敵で魅力的な男性なのだと、ここ最近で私は気づいてしまっていた。こういった些細な気遣いもさることながら、夢中になれることも同じで、打てば響く会話は楽しい。マイペースなところも、いい感じにこちらの力も抜けるから悪くない。
なによりジニアはとても――想像よりずっと紳士なのだ。重いものを買えばさりげなく持ってくれるし、たまに食事を作ればすぐに手伝ってくれる。夜、私が夢中になっていれば「そろそろ時間じゃないですかあ?」と帰宅を促してくれるし、バス停まで送って、乗りこむまでずっと一緒にいてくれる。
「泊まったらいいですよ」なんて一言、絶対に言わないのだ。
そうやってちゃんと一線を引いてくれるところがすごく……かっこいいと思ってしまう。
彼の誠実さにドキリとすることが日々増えていく。というか私がそういうところに弱いなんて、ジニアとこうして過ごすまで知らなかった。
「あぁ、もう。ジニアのくせにぃい」
薬を飲むのに残った水をぐっと喉に落とし、またソファに戻る。スマホロトムにジニアからのメッセージは無い。まだクラベルさんからの呼び出しに時間がかかっているのだろうか。なら少しだけ目を瞑って痛みが落ち着くのを待とう。ベッドにもなるソファはジニアの身長を考慮したものだから、私ぐらい余裕で寝転がれる。
目を瞑ればすぐに睡魔が襲ってきた。寝てはいけない、と思いつつも、帰ってくるのはどうせジニアだけという気持ちも確かにあって。
――でも彼の前でなら寝てしまってもいいや。きっと優しく起こしてくれるだろうから。
そんな甘い誘惑に私は簡単に負けてしまった。
「チクマさあん。チクマさあん。……あらら、起きませんねえ」
まあ、いっかあ、とジニアはチクマの傍らにしゃがみこむ。テーブルとソファの間に挟まれるのは少し窮屈だけれど、チクマの寝顔をゆっくりと堪能できるのなら悪くない。
耳を澄ませれば小さな寝息がチクマから聞こえてくる。ジニアはとろけたような笑みを浮かべた。
「ぼくの部屋で寝ちゃうぐらいには気を許してくれているんですねえ。嬉しいなあ」
聡明で、芯が強くて、夢中になっていることには一直線。そんなチクマにジニアはずっと恋をしていた。だから二人で研究発表を行なうと決まったときはすごく嬉しかった。チクマには研究者としての信頼もあるから余計に。自分と組んでよかった、とチクマにそう思ってもらいたい。
そしてあわよくば。異性として意識し、惹かれてくれるのなら申し分ない。
警戒心の強いチョロネコのようなチクマを懐かせるため、彼女に隠れてジニアは努力していた。そんな毎日はとても楽しかった。チクマの瞳がときめきで揺れる度にジニアの恋心は満たされていったから。本当は夜、帰宅を促したくはなかった。あわよくば泊まっていって欲しいと何度思ったことだろう。そのたびに自分を叱責し「まだ早い」と言い聞かせ、なんてない顔をして彼女に声をかけていた。
そのかいあって、チクマはこうして寝顔を見せてくれるほどになった。嬉しくて嬉しくて、ジニアはまた甘い笑みを深めていく。
「ねえ、チクマさん。チョロネコもかわいいけど、ぼくはやっぱりニャオハ派なんですよお」
早く、早く。たくさんぼくに甘えて、そしてたくさんヤキモチを妬いてくれるぐらいの仲になりたいなあ。
「……かわいいなあ」
この愛らしい寝顔が見られなくなるのはとても名残惜しいけれど。そろそろ起こさないといけない。自然に目が覚めるまで待っていてもいいけれど、多分それを彼女は良しとしない。なにせここに来ているのは研究の延長線みたいなものだから。ちゃんと起こして、必要であれば帰宅を促した方が彼女はときめいてくれるだろう。ちゃんとジニアはわかっていた。
「それにこれからいーっぱい見せてくれますもんね。――たとえば、ベッドの中でとか」
そしてジニアはチクマの肩を優しく揺らす。今帰ってきました、なんて表情を作りながら。