※クチナシさんおよび夢主に喫煙描写があります。
チクマの指からひょいと煙草を奪ったのは他でもないクチナシだった。
あ、と声をあげるチクマをお構いなしに、クチナシは無気力な表情を少し曇らせながら「ここは禁煙だ。何度も言ってんだろ」と一言注意をし、火を点ける前のそれを自身の懐にしまう。
「吸うなら、外。もしくは帰んな」
「諦めるってわかって、そう言うじゃん」
「気づいてんなら上出来だ」
クチナシはニヤリと口元をゆがめ、擦り寄ってきたニャースの顎を撫でる。心地よさそうなその声につられたのか、チクマの傍にいたニャースも彼女に「撫でろ」と近づいてきた。煙草の代わりに、ニャースに指をのばす。
「クチナシさんがいじめるんだけど、どうしたらいいと思う?」
「ニャースはおじさんの味方だってさ」
「えー? そんなことないよね?」
「いくらきままなニャースでも、世話している相手には懐くもんだからなぁ」
クチナシの言葉にチクマは反論を返そうとするが、その前に撫でていたニャースがひょいと動き、クチナシの元へと行ってしまった。加えて甘えた声を出しはじめたものだから、たったいまクチナシが言った状態になってしまう。裏切られ、愕然とする表情のチクマにクチナシは肩を揺らした。
「な?」
「またクチナシさんがいじめた!」
「オイオイ、人聞きの悪いことを言うなっての」
「せっかく仕事の疲れをニャースと煙草に癒してもらおうと思ったのに!」
もうやだ! と勢いよくソファに倒れこんだとしても、周りのニャースたちは目もくれない。その状況にまたチクマは呻き声を洩らす。ジタバタと足を動かしても埃が舞うだけだ。
こういった彼女とのやりとりは日常茶飯事。今更改めて機嫌を取ろうという気もない。つまり放っておく気しか起きないのだ。だからクチナシは自分も撫でろとアピールする、チクマの元から来たニャースを構ってやることにした。ゴロゴロと喉を鳴らすニャースを見て「お前さんは素直でいいね」とクチナシは笑った。
クチナシとチクマの出会いは半年前にさかのぼる。交番に帰る途中で彼女がスカル団に絡まれているところを発見したのがきっかけである。最初こそ、クチナシはチクマのことを、一方的に絡まれ怯えているスカル団の被害者であるように見えていた。しかしその実は異なり、スカル団と同様にチクマもまた「はぁ? うるさいんだけど」とメンチを切り、今にも拳が振るわれる寸前だった。
間に入り、団員たちをうまくごまかしてチクマを交番に連れ帰ったはいいものの、それでもチクマは不機嫌そうな表情を戻すことをしない。無理もないだろう。急に現れた第三者――しかも警察官でありしまキング――に連れてこられたのは交番。確かに自分も売り言葉に買い言葉を繰り返し、事を荒立てる態度を取っていたが、一応は被害者の身である。そんな自分にいったいなんの説教をされるのか、と警戒し、気を立たせていた。まるで懐かないニャースのように。
「ねえちゃん、アローラの人間だろ? 変にスカル団に絡むなって」
「絡んできたのはあっち」
一言だけ放ち、フンとそっぽを向く。舌打ちを響かせたチクマはスーツのポケットから煙草の箱を取り出した。「灰皿ってある?」の問いにクチナシは首を振る。
「禁煙だ。ここは」
「……はぁい」
交番に禁煙である決まりは無い。なにしろクチナシだって昔はここで吸っていた。棚の奥には昔使っていた灰皿も処分していなから、チクマが駄々をこねれば出してやってもよかった。けれど彼女はすんなりと引き下がった。そういうところから、根は悪い人間ではなさそうであると窺える。
クチナシはチクマの座るソファの向かいまでデスクのチェアを引っ張り、腰かける。ついでにバインダーに身元記入用紙を挟むことも忘れない。
「んで、ねえちゃんはどうしたんだ。『スカル団から絡まれた』って言ってたが、そりゃあんな夜更けにこの近くを歩いていたら、そうなることはわかるだろ?」
「……仕事でちょっとイヤになって」
「ん」
ガリガリとボールペンが紙を削る音とチクマの声が響く。
「家に帰る気にもならなくて、ちょっと散歩してただけです」
取引先のレスポンスが遅い。エンドユーザーが待っているのに。気が急いて、心配ごとだけが毎日積み重なっている。何度も確認や催促をしても返事はないし、挙句に「そんなに気にするなんてチクマさんって暇なんですか?」と笑われる始末。同僚や家族に相談しても「なんとかなるよ」なんて具体的なアドバイスはもらえない。
自分だけがぐるぐると考え、深みにはまっていく感覚。
ぽつぽつと落とされる愚痴にクチナシは相槌を打つことなく、ただ耳を傾けた。手元の用紙には意味のない落書きが量産されていく。アセロラに「似てないよぉ」と言われたニャースたち。
一通り吐き出し終えたチクマが大きく息をついたタイミングでようやく言葉を返した。
「おつかれさま」
「……うん。疲れちゃった」
ぐたりとソファに寝ころぶ彼女にニャースたちが近づく。クチナシとアセロラ以外にここではなかなか人間を見ないものだから、チクマの存在がずっと気になっていたのだろう。チクマもニャースたちの耳の裏を指先で掻いた。
「ねえちゃん、メシは食ったのか?」
「まだだけど……」
クチナシはバインダーを適当に片し、サンダルを引きずりながら交番の奥に向かう。それをチクマは黙って見つめていた。ガサゴソと音がしてしばらく。三つほどのカップラーメンを彼は持ってきた。
「好きなの選ばせてやる。特別だぞ?」
「え、でも」
これはあなたの食糧ではないのか。
思わずチクマが目を瞬かせるが、クチナシは気にせずテーブルにそれを置く。そして備え付けの簡易キッチンでお湯を沸かし始めた。
「頑張ってるねえちゃんに、おじさんからのゴホービだよ」
「…………」
「それ食ったら帰んな。送ってやるから」
三つのカップラーメンが並べられている。途端にゆらり、視界が揺れた。ぽたぽたとラーメンのフィルムの上に雫が落ちていく。チクマはぐすりと鼻をすすりなら、その中で一番高そうなものに手を伸ばす。「それを選んだか。ねえちゃんも存外強かだな」とクチナシの楽しそうな声に、チクマはまた鼻をすすった。
それ以来、チクマはポー交番をよく訪れるようになった。「仕事でむかついたから愚痴りにきた」と言いつつも、そうでない日(主に休日だ)にも彼女は来る。少なくとも週に1度は顔を出していた。
クチナシがいてもいなくとも、ニャースと共に戯れ、しばらくして帰っていく。二人が入れ違いになることもしばしばだった。
口では「もう来るんじゃないよ」と言っているクチナシではあったが、正直悪い気はしなかったも事実。野生のニャースに懐かれているような、そんな心地。チクマと過ごす時間も、彼女がいた痕跡に気づくのも、存外楽しかったからだ。
そのたびに、絆されたのはどちらだ、なんて自嘲しながら、今日はチクマが来るだろうかと期待する毎日。年甲斐もなく浮き足立っている。それをクチナシは自覚していた。
けれどもここ数週間、チクマはポー交番を訪れていなかった。いつ来ても大丈夫なように、なんて言い訳をして用意していた、彼女が気に入ったカップラーメンだけが積まれていく。
クチナシもいい大人だ。わかりやすく拗ねたりはしない。だが、なんとなく「つまらないな」という気持ちが胸の奥の底にべったりとこびりついていることも否めなかった。
チクマの家は知っている。夜遅くなったとき、彼女を送っていったことが何度もある。だから会おうと思えば会えなくない。しかし大の大人が——しかも年齢もそこそこいっている——が女性の自宅を訪れる図は、決して歓迎されるものではない。その点はクチナシも気を使っていた。
もうここには来ないのかもしれない。目をそらしていた事実をクチナシがようやく受け入れようとした矢先のこと。ローリングドリーマーで夕食を終えた彼の帰宅を待っているかのように、交番に明かりが点いていた。クチナシが出た時に電気は消した。アセロラはこの時間にやってこない。となれば――
「あ、クチナシさん、おかえり」
いただいてまーす、とカップラーメンを啜るチクマがいた。申し訳程度に添えられた野菜ジュースと共に。
寝転がるニャースたちの間に器用に滑り込み、ソファでくつろいでいる。手に持つカップラーメンは彼女のお気に入りで、山積みになっていたそれだった。
彼女の姿を目にしたクチナシは一瞬息をのんだ。しかしすぐさまに努めて冷静を装って「不良娘が来たな。てっきり更生したのかと思ったぜ」と笑った。
「仕事忙しくてさ。大きなプロジェクト任せてもらったのはいいんだけど、毎日残業残業で」
「それで来なかったのか?」
「あんまり遅くに顔出しても、邪魔でしょ?」
そんなことはない、と出かけた言葉を直前で飲み込んだ。無言のまま、クチナシはデスクチェアを引っ張る。
「もう落ち着いたのか」
「うん。だから久しぶりに来たんだ。そうしたらクチナシさんいないし」
「空けていて悪かったな」
「ナイスタイミングで帰ってきてくれて嬉しい」
「そうかい」
のびる前に食べちまいな、と続きを促せば、チクマはまたラーメンをすすり始めた。
その光景をクチナシはぼんやりと、そしてどこか充実した思いで眺める。濃いスープの香りが交番中に充満しているのも、今は気にならない。
しかし、ふいに。その中に違うにおいが混じっていることに気がついた。苦くて、重い、鼻の奥にざらついて残る、ニコチンとタールのにおい。
チクマは交番で煙草を吸わない。だからこそ吸ってから来ることが多かった。
だから今日も。吸ってから来たのだろう。これもその残り香――のはずだ。
「……チクマ、煙草変えたか?」
「ん? 変えてないけど。あ、もしかして」
スープをぐっと飲みほしたチクマは、くんと自身の上着に鼻を寄せる。
「今日、違う煙草もらったからかも」
「違う煙草?」
「そうそう。今日切らしちゃってさ」
タイムカードを打ってから、交番に来る前の一服。しかし煙草をちょうど切らしてしまっていた。喫煙室に入ってから気づいてしまったから、わざわざ買って戻るのは面倒くさい。
だから、ちょうど喫煙室にいた同僚から一本もらったのだ。今度一本返すから一本ちょうだい、なんてやりとりは喫煙者同士ならよくあることだから。
しかし、いざもらったそれはいつもチクマが吸うよりもずっと重くて、苦くて。咽せそうになる中、貰い物だし、となんとか最後まで吸った。いつもより数倍時間をかけて。
「そのにおいかも」
「……へぇ」
同僚はきっと男だろう。クチナシには確信があった。
今の話で出た銘柄は女性が吸うには少し重い煙草だ。現にチクマも咽ている。好んで嗜む女性もいるだろうが、そんな女性がちょうどよくチクマの隣にいるとは考えにくい。なにより喫煙者は男性が多い。となれば、件の煙草は男からもらった可能性がぐっと高くなる。
細く鋭く。クチナシは息を吐いた。喉の奥がざらついて、まさに今、やめたはずの煙草が吸いたい気分になる。
気に食わない。それが感情の全てを支配する。嫉妬だと指摘されればそれまでだが、でもどう考えたって悪いのはチクマだ。他の男にしっぽ振るのはいただけない。いくらきままさが魅力なニャースでも。懐く相手は選んでもらわないと。
こんな感情をまだ自分が抱けるなんて。自覚したクチナシは哀れみをもった瞳でチクマを見る。
「おじさんを本気にしたら怖いってのになァ」
「ん? なにが本気?」
「いや、こっちの話だ」
クチナシはそう言って席を立つ。
「もらいもんのゼリーがある。食べるだろ?」
「え!? いいの!? 食べます!」
冷蔵庫に向かうと足にニャースが擦り寄ってきた。アローラのニャースはカントーなどのニャースよりずる賢い。ニヒルな笑みを浮かべ、クチナシを唆すように鳴く。
「……わかってらぁ」
ニャースの頭を一撫でしいただきもの≠ニ嘘をついた、チクマのために買ってあったゼリーを取り出した。指先が冷たくなっていくのを感じ、クチナシは喉の奥でクツリと笑う。
ソファではチクマが能天気にゼリーの到着を待っていた。
――ここは禁煙だってのに。火を点けたのはお前さんだぜ、チクマ。