だめだ、しんどい。ちょっと休まないと、これは無理。

連日の深夜残業に疲れた身体を引きずって、なんとかホームまで辿り着く。ガンガンと痛む頭は疲労のせいか、ひっきりなしで運転をするサブウェイの騒音のせいか、もうわからなくなってしまった。

終電が近いこともありホームには人がまばらにしかいない。おかげで空いているベンチはすぐに見つかった。お行儀が悪くてごめんなさい、と心の中で詫びつつ、倒れるように座り込む。途端に足からじわじわと疲労が全身に回り始めた。……ヒール、疲れたな。さすがに公共の場所でパンプスを放り投げるわけにはいかないから、靴の中から少しだけ足を浮かせる。わずかばかりの解放感を味わいながら、ペットボトルの蓋を開け、一息に喉へ流しこんだ。昼に買ったおいしいみずはとっくに常温に戻ってしまっていたけれど、水分があると無いとでは大違い。ちょっとだけ頭痛が楽になった気がする。本当にちょっとだけど。

大きなプロジェクトを任された。ライモンジム、カミツレさんとコラボしたコスメの広報宣伝をうちの会社が担当することになったのだ。チームリーダーとして、これほどの大きな仕事であればやりがいもある。チームみんなの雰囲気もいい。忙しいけれど、充実感もある。
そんな仕事もいよいよ大詰め。となれば、さらに忙しさが増していくわけで。そしてチームリーダーはある意味、中間管理職でもある。取引先と自社の上司、そして部下たちの意見や要望に揉まれるのもピークに達し始めていた。

「疲れた……」

言葉にすればさらに疲労が全身にのしかかる。明日は休みだから早く帰って寝たい気持ちもあるが、身体が休息を求めていて追いつかない。つまり眠い。電車の発着を知らせる電光掲示板を確認すれば、自宅マンションの最寄りへ走る終電はまだあと数本だけ猶予がありそうだった。なら、もう少しだけ休んでいこう。究極的なことを言えば、最後の最後に飛び乗れば家に帰れるのだ。日付が変わったとしても大目に見よう。なにせ明日は休み。昼まで寝ていたって誰も怒らないのだから――

「うわっ!」

ぞくりと全身に走った悪寒で飛び起きた。心臓がバクバクとうるさい。思わず握っていたペットボトルを潰してしまう。眠気も疲労も今はまったく感じない。それよりも恐怖感が勝っていた。まさしく命の危機というような。

「しゃ、シャンデラ?」

何事かと顔をあげれば、私の前にはふよふよと浮かぶシャンデラがいる。あの悪寒はきっとこのゴーストタイプポケモンのせいに違いない。……そんなに死にかけの顔していたんだろうか、私って。
それにしてもシャンデラを見るなんていつぶりだろう。ヒトモシやランプラーは見かけるけれど、シャンデラは進化に「やみのいし」を使うから、街中でも早々見かけることは無い。野生なんてもってのほか。だからこの子もきっと誰かの手持ちだろう。

近くにトレーナーらしき人がいないか周囲を見渡し――そこで私はようやく気づいた。ホームに人がいない。終電間際だとしてもいなさすぎるし、静かすぎる。
先程とは違った意味で心臓がうるさくなる。バッグを抱え、ホームを歩く。本当に誰もいない。というか、電車が無い。ほんの数秒前までは人も電車も行き交っていたのに。
慌てて電光掲示板を確認すればそこは消灯され、先ほどまで灯っていた私の最寄り駅の文字は見る影もなくなっていた。……嘘でしょ、もしかして。

「まさか終電逃した!?」
「そのまさかでございます。十分前に本日最後の電車は出発いたしました」
「うわっ!?」

背後から聞こえてきた知らない声に驚いて、身体が跳ねた。数センチは浮いたような気がする。仕事でミスをしたとき以上に噴き出した冷汗とバクバクうるさい心臓を落ち着けて振り返れば、黒いロングコートの男性がシャンデラを携えてそこにいた。

「あ、あなたのシャンデラでしたか……」
「ええ。共に終電後のホームを共に見回りをしていたところです」

同意するようにシャンデラの青白い焔がちろちろと燃える。
ようやく状況がわかってきた。おそらく、いや確実に私は寝落ちしたのだ。あのベンチで数秒目を瞑った瞬間に寝てしまった。その間に終電はおろか、駅のホームを閉める時間になり、それでもなお寝たままの私をシャンデラが見つけてくれたのだろう。

「お客様」
「は、はい」
「誠に申し訳ありませんが当駅はそろそろ終了時刻となり、夜間清掃を行わなければなりません。その間、お客様には一律にギアステーションから退出のご協力をいただいております」
「す、すみません。いま、出ます!」

迷惑をかけてしまった申し訳なさと、いくら疲れていたからといってベンチで寝てしまった自己嫌悪で頭は混乱しっぱなしだ。とにかくここから出て行かないと。慌てて頭を下げ、とりあえずこの場から離れることにする。「お気をつけて」の声に会釈するのもそこそこに、私は足を動かす。これからどうしよう。タクシーは深夜料金を考えればちょっと現実的じゃない。ポケモンセンターはトレーナー登録していないから除外するとしてもライモンならビジネスホテルや一夜を明かせそうな施設はたくさんあるし——

「あっ、やば」

思わず足が止まる。引いたはずの冷汗がまた噴き出してきた。
急に立ち止まった私へ「お客様?」と怪訝な声が追いかけてくる。同時に革靴が近づく音も。

「どうかなされましたか? 忘れ物か落とし物でも?」
「さいふ……」

家に、財布、忘れてました。
か細い私の声を聴いた駅員さんは「それは……困りましたね……」と、コートとおそろいの黒い帽子のツバを下げた。



今朝、家を出たときに気づいたのだ。「あ、財布忘れたなぁ」と。正直に言えば取りに戻る時間はあった。でも「まあ一日ぐらいなくてもいいか。どうせランチを食べる時間なんて無いだろうし」なんて見てみぬふりをしたのだ。まさかそれが今まさに響いてくるなんて。

お金がなければホテルも無理。ポケモンセンターもトレーナー登録をしていないから有料になってしまう。つまりライモンシティで一泊するのは不可能だ。電子マネーも残高がちょっと微妙。以前不正利用されて以来、クレジットカードに紐づけしない派になったから。

「ライモンにお知り合いなどは」
「いませんね……」
「そらをとぶ≠覚えているポケモンは」
「いません……」
「そうでしたか……」

一緒に悩んでくれた駅員さんもさすがに万策尽きたのか、黙り込んでしまう。どんどんと申し訳なさが募り、ため息がこぼれないようにするのが精一杯。
――仕方ない。ここは腹をくくろう。解決策が一つだけある。タクシーに乗って帰り、大急ぎで家から財布を取ってくればいい。財布を持ってくるから待っていて欲しいと言えば、タクシーの運転手さんも少しぐらいは受け入れてもらえるだろう。
ここから家までタクシーを使えばかなり痛い出費になるけれど、身から出た錆。甘んじて受け入れるしかない。

もう大丈夫です。お騒がせして申し訳ないです。
しかし私が謝罪を口にする前に、声を発したのは駅員さんのほうだった。

「お客様。もしよろしければ駅員室で始発までお待ちになってくださいまし」
「えっ、それは……」

今の状況では願ってもない申し出だけれど、本来であればしない――いや、するはずのない対応でもあるはずだ。だって私が終電を逃してしまったのは「ベンチで寝ていた」なんて個人的な理由。ギアステーション側がフォローする理由はない。
どう答えたものか悩んでいると駅員さんは「さすがに無一文な女性をこのまま見過ごすわけにはいきません」と優しい声音で言った。無一文≠フ単語にぐさりと来たが、これも自業自得なので甘んじて差されよう。

「それにシャンデラがあなたさまをどうにも気にしておりまして。よろしければ、わたくしの言葉に甘えていただけないでしょうか」

思わず彼の傍らで浮くシャンデラへ目をやる。ぱちりと目が合うと、同意するように青白い焔を揺らめかせくるりくるりと舞った。おそらく駅員さんもシャンデラも私が気を使わないように言ってくれているのだろうな。

「じゃあ、お願いします」

ここまできて断るほうが失礼だ。深々と頭を下げる。シャンデラがあげた嬉しそうな声のおかげか、駅員さんの空気が緩んだ気がした。



案内された駅員室は私の想像よりずっと広かった。もっとこじんまりとしていたイメージだったから、ずらりとデスクが並び、給湯室まで備え付けられているそこは会社のフロアとなんらかわりない。
その隅にはパーテーションで区切られた一画があり、二人がけのソファがテーブル挟んで、向かい合うようにそれぞれ置かれている。もしかしたらここは応接室的な役割も兼ねているのかもしれない。
勧められるがままにそこへ座る。ふかふかなそこに落ち着けば忘れていた睡魔と疲労がじわじわと蘇ってきた。

「なにかあたたかいものでもお持ちします」
「そ、そんな! お気遣いなく!」
「わたくしが飲みたいです。よろしければチクマさまもおつきあいくださいまし」

そう言って駅員さん――もといノボリさんはそう言って奥の方に行ってしまう。
残された私はシャンデラと共に待つぐらいしかできない。申し訳ないなあ、今日も一晩中夜勤とのことらしいし。ギアステーションはバトルサブウェイも含めて終電後は閉めるらしいが、なにかあったときのために駅員さんが持ち回りで夜勤当番をするそうだ。今日の当番はノボリさん。そのおかげで私は彼に拾ってもらったというわけだ。

それにしてもノボリさんがサブウェイマスターだったなんて。バトルのほうはからきしだから全然知らなかった。きっとこのシャンデラもすごく強いんだろうな。私のマラカッチなんてあっという間に負けてしまいそうだ。

「こちらを。とても熱いのでお気をつけてくださいまし」
「ありがとうございます。わ、ココア!」
「カフェインはよろしくないかと思いまして」

優しい香りに思わず頬が緩む。いただきます、と共に飲めば、あたたかな甘さが広がっていく。「おいしい……」と漏れ出た本音にノボリさんは「安心いたしました」と眉を下げた。

「初めてココアを淹れたもので。濃さがわからず」
「すごく美味しいです」
「それはようございました」

そう言うノボリさんのマグカップの中身はコーヒーだろう。こちらにも香りが漂ってくる。彼はこれから引き続きお仕事なのだから、当たり前か。
私が休んでいる間にもこうしてお仕事をしている人やポケモンがいるから世界は成り立っている。改めてその事実を目の当たりにするような気分になる。

でもきっと……。
それは私の仕事にも同じことが言えるはず。だってこれだけ頑張っているんだもの。私の仕事だって誰かにちゃんと届いて、報われるかもしれない。――まあ、報われないこともあるのが仕事≠ネんだけれど。でも今だけはこのココアとノボリさんのおかげで前向きな気持ちでいられる。

「ノボリさんのおかげで元気出てきました」
「それはなによりでございます。しかしご無理はしない程度に」

また終電を逃しては元も子もないですから。
冗談めかしに伝えられた一言に私は思わず肩を落とすことしかできなかった。
それはもう、存分に。肝に銘じさせていただきます。

***

「ノボリさん!」
「おや、チクマさま」

その後、お礼の菓子折を渡して以降(ノボリさんは何度も断りつつ最終的には受け取ってくれた)、私たちは顔を合わせればおしゃべりをするぐらいには仲良くなった。もちろん彼はお仕事中なのも多いから、そういうときは会釈ぐらいにすませるけれど。でもおしゃべりの機会は想定よりもずっと多い。
今日もノボリさんは黒い帽子を少しあげ、軽く頭を下げた。

「遅い時間までお疲れさまでございます」
「ノボリさんこそ。今週はずっと遅番ですか?」
「いえ、そうではなく。本日はバトルサブウェイが盛況でして」

なるほど。確かにノボリさんがどことなく嬉しそうなのは、そのせいか。
彼の表情もだいぶ読み取れるようになったみたいで嬉しい。それだけノボリさんと仲良くなれたってことなのかも。

「おや。チクマさまも、どうやら嬉しいことがあったご様子」
「えっ」
「仕事でなにかよいことでもありましたか?」

顔に出ていたんだ。ちょっと恥ずかしい。まさか大人になって「仲良くなれた嬉しさが顔に出ていた」なんて素直に言えない。きょとんとした顔で未だに首を傾げる彼には「内緒です」と誤魔化した。

「それではプライベートでしょうか」
「それも内緒です!」

するとみるみるうちに普段の気難しい口元がさらに深くなっていくものだから、私はさらに笑ってしまう。

「チクマさまは相当な秘密主義のようで」
「秘密主義というか……かっこつけたがりなだけですよ」

私としては素直に答えたつもりだったのだけれど、ノボリさん的にはお気に召さなかったらしい。やはり難しい顔のまま、訝しげな視線を向けるだけ。
うん、やっぱり。私とノボリさん。だいぶ仲良くなれたみたいだ。だってこんな軽口を言い合える仲になれたんだから。

――なんて思っていた矢先だったのに。
最近、ノボリさんが私を妙に避けるような。そんな気がするのだ。遠目の会釈さえ、させてくれない。私が気づくより先にノボリさんのほうが私に気づくのか、最近は彼の背中姿しか見ていない。

「なにかしたかな……」

カタンとペンがデスクに落ちる。どうやら無意識のうちにペン回しをしていたらしい。学生の頃から続く私のクセだ。考え事をしているとついついこれをしてしまう。
あれからプロジェクトも落ち着いて、終電近くには帰らなくなった。つまり以前のようにベンチで寝落ちしたなんて失態もしていない。最初こそ健康診断ばりに顔色を確認されていたけれど、最近はそれも無い。心配をかけているなんてことはないはずだ。

私はノボリさんと話したいし、会いたい。なにかしたのなら謝りたいけれど、でもこれは私の自己満足であることもわかっている。子供と違って大人の友情は静かに終わる。私から離れたいとノボリさんが思った故の今の行動ならば、私にはそれを追う資格は無い。

「! ――チクマ!」
「わっ、ごめん! 考えことしちゃってた」
「本当? 体調悪いとかじゃない?」

いつの間にか私の隣で声をかけていた同期は怪訝そうに眉を下げる。「本当に大丈夫」と再度念押しすれば、彼女は表情を戻した。

「なら、今日飲みにいかない? いろいろ落ち着いたしさ。打ち上げは別にあるけど、今日は二人でお疲れさま会ってことで」
「行く!」
「そうこなくっちゃ! 店はこっちで決めていい? 最近できたパルデア料理のお店が気になるんだよね」

よろしく! と笑顔を残し、彼女は自身のデスクへ戻っていく。彼女が選ぶお店はどれも美味しいから楽しみだ。――ついでにちょっと相談しようかな。ノボリさんこと。第三者の意見も聞きたい。よし、と気合いを入れる。是が非でも今日は定時で帰らなければ。



「じゃあね、チクマ。今日は付き合ってくれてありがと! また休み明けに」
「こちらこそありがとう。ご飯、楽しかった!」

手を振ってそれぞれのホームへ向かう。今日は平日最後の夜だから、ちょっと遅くまで飲み過ぎてしまった。少しふわふわする。顔が熱い。

終電が近くなったギアステーションはこの前と同じように人が少ない。でもなんとなく浮かれた空気が漂っているように感じた。私たちのように飲みにいった人が多くて、その名残があるんだろう。まあ私もその要因の一人に入るんだけど。

「――あ」

ホームに降りて最初に目に入ったのはちょうど出て行ってしまった電車でも、次の出発時刻を灯す電光掲示板でもない。黒いロングコートと白い手袋を身につけたノボリさんだった。そわっと心が逸る。今日はバトルサブウェイに乗っていないんだ。今なら話しかけても大丈夫かな。でも彼は話したくないかもしれない。

どうしようかと悩んで凝視しすぎたのかもしれない。ぱちりとノボリさんと目が合った。
そうしたらもう考えるより前に足が動いていて。気づけば彼のロングコートを掴んでいた。ぎゅっと皺になるほど握る私の手を見て、ノボリさんは瞳を揺らしたかと思うと小さな声で「ホームで走るのはおやめください」と注意を落とす。

「だってノボリさんが逃げてしまいそうな気がしたから、つい」
「逃げることなど……」
「自覚がないなんて言わせませんよ」
「…………」

黒い帽子をぎゅっと深めに被る。やっぱり逃げようとしている、と続けて言えば、今度は無言を貫かれる。それは肯定としていいんですね? ノボリさん。

「どうしてって訊いてもいいですか?」
「…………」

今度の無言は拒否≠セ。
やっぱり私はどこかでノボリさんが傷つくことをしてしまったんだ。申し訳なさと自己嫌悪に心の奥が痛む。少しずつ距離を取り自然消滅を待っていたであろう彼の気遣いを無碍にしてしまった。この行為だってノボリさんを傷つけている。もう彼の顔を見られない。

「……ごめんなさい」

謝ってすむことではないのはわかっている。でも私にはこれしか言えない。
握りしめていたコートを離す。タイミングよく最終電車が来た。早く乗ってしまおう。そうして終わりにするのだ。ノボリさんとの関係を。

「お待ちくださいませ」

離したはずの手が彼によって繋ぎ止められる。痛いほどの力に驚いて俯いていた顔をあげれば、ノボリさんは結んでいたくちびるを震えながら解く。

「誤解です。チクマさま」
「ご、かい?」
「チクマさまは一切悪くありません。全てわたくし個人の問題です」

ゆっくりと手が離された。しかしすぐさま繋がれる。今度は泣きたくなるほど優しく。

「距離を置かなければいけない理由がありました」
「どんな……?」
「チクマさまに、ふれたいと、思ってしまったからでございます」

いつの間にかノボリさんが近くにいた。縮まった距離に驚く間もなく、彼の表情がわずかに緩む。瞬間、私たちの間にあったなにか≠ェ変わったのを感じた。

「アルコールのにおいがいたしますね。お酒を召し上がりましたか?」
「は、はい」
「――よい夜でしたか? わたくしがいなくとも」
「あの、ノボリさん……?」

熱っぽい声と表情。そして漂う甘い空気に混乱する。お酒を飲んだ以上に頭がクラクラしてきた。
本当に状況がわからない。ただわかることは私の背後では乗る予定だった最後の電車が出発してしまったことだけだった。



これから夜は深くなる
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