深い珈琲の香りが満たされ、重ためのジャズが流れる店内。時折音が飛ぶのはご愛敬。それも古いレコードの味わいだから。
シュートシティのメイン通りから少し外れたそのカフェーーというより喫茶店の店内奥にある二人がけのテーブル席には、古いチェスセットを広げられている。ここが私のもう一つの仕事場。
ここはガラルでも数少ない「ポケモン勝負が禁止されている」喫茶店だ。その代わりにここで行なわれる勝負はチェス=Bマスターに勝てれば、ガラルでも大評判な美味しい珈琲とカントー直伝のナポリタンを無料で味わえる。
喫茶店には常連さんも多く、常にほどよい賑わいを保っている。そこにはチェス勝負目的ではないお客様も多い。つまりマスターは普通のオーダーも対応しないといけないわけだ。チェス勝負をしつつ、通常オーダーをこなすのは難しい。しかも最近は噂が噂を呼び、チェス勝負目的に訪れるお客様もじわじわと増えてきた。ガラルっ子はポケモン勝負も大好きだけれど、同じくらいにチェス勝負も大好きなのだ。もちろん私も。正直、戦う≠フならチェスのほうが好き。
そんな私の祖父はマスターと古くからの親友。だから私自身も子供のころからずっと祖父と共にこの喫茶店に通っていた。そして二人からチェスを叩き込まれ、鍛えられた。なんなら初めてのポケモンを手にする前から。
そのおかげか、今ではマスター以外にはほとんど負けない腕を手に入れた。なので私が働き始めてから、いつの間にか新しいルールが追加されている。「マスターへの挑戦権はチクマに勝ってから」。ここに通うお客様たちはみんなチェスが好きだから、私にも勝ててこそ、と思っているのかもしれない。
私としてもウェイターとして働きながら、チェスの相手ができるのは嬉しい。それにマスターにはオーダーを用意する時間が生まれる。まさに一石二鳥とはこのことだ。
「チェック」
今日も今日とて、私は挑戦者にトドメを刺す。
相手のキングに逃げ道はない。それを理解したのだろう。対戦相手は絞り出すように敗北を口にした。
肩を落とすその人を「また戦いましょうね」と笑って見送り、そのままチェス盤を片付ける。対戦相手はそのままカウンターで項垂れ、他のお客様とマスターに慰められているようだ。「チクマに勝てたヤツなんていないから落ち込むなって」なんて慰めの声が聞こえてくる。……なんだか私が悪いことをしているような気がしてくるから、やめてほしい。
「チクマももう少し手加減してくれよ」
「手加減して勝ったところで嬉しくないでしょ。それに私に勝てなかったら、そもそもマスターにだって勝てないよ」
「そりゃそうだけどさぁ」
常連客からの文句をあしらう。だって事実だ。手加減の私に勝てたとしても、その先のマスターには絶対に勝てない。それにタダ飯目的の挑戦者は最初から願い下げだ。マスターと戦うのなら、それ相応の実力を持ち、勝負を楽しんでくれる人でないと許さない。
さて、次の対戦希望者はいるだろうか。なければウェイター業に戻らせてもらうのだけれど。目元にかかった前髪を整えていると、目の前に珈琲の入ったカップが置かれた。そして椅子が引かれる音が響く。
……男性だ。黒いジャケットを着た紅い髪の人。鋭い目元を持つ彼はその視線に反して穏やな声で「一戦、お願いしていいかな?」と尋ねてきた。初めて見るその人はおそらく。
「ポケモントレーナー?」
「なぜそうと?」
「椅子の座り方というか、体重移動の仕方にそう感じたからですかね。あと、あなた初来店でしょう? 来週にシュートスタジアムでポケモンバトルのイベントがあるせいか、最近はポケモントレーナーのお客様が増えているんですよね」
たしか他地方のリーグトレーナーたちを招いて、一般トレーナーも交えた交流会も兼ねたバトルイベントだったような。参加には出場チケットが必要なはずだけど、自由観覧は誰でもできる。そのおかげか、最近のシュートシティは観光客で賑わっている。その余波がまさかこのお店にもくるなんて。ちょっと驚きだ。隠れているわけではないけれど、多くの人が通る道にこのお店はあるわけじゃないから。
私の考えを聞いた彼はなるほど、と頷いた。
「噂通りの慧眼さだ。先程から散々、きみが負け無しと聞いただけある。もしくはーー」
「?」
「本業は探偵だったり?」
「冗談よしてください。私はしがないウェイターでチェスマニアなだけですよ」
そして窓の外へと視線を移す。
「ポケモントレーナーならうちの店じゃなくて表の通りのバトルカフェのほうがいいんじゃないですか? あっちはポケモン勝負専門ですよ」
「本番前にポケモンたちを疲れさせたくなくてね」
「へぇ……」
そんなことに気を使うぐらいだから、この人はただの観戦者というより本格的にバトルをする人なのだろう。きっと出場チケットも買っているに違いない。
……まあ、どちらでもいいか。私としてはどんな相手だとしてもチェスをするだけだ。
整えた盤を前にして、改めて彼に向き直る。
「ええと、お名前は?」
「ああ。すまない。おれはワタル。よろしく頼むよ」
「私はチクマです。こちらこそよろしくお願いします。ワタルさんは白でいいですよね?」
「いや、黒をもらおうかな」
「……本当に?」
思わず聞き返してしまう。だってわざわざこのゲームで後手を選ぶなんて。
チェスは圧倒的に白である先手が有利。だからいつも私がそちらを譲る。この店の暗黙のマナー。なのにワタルさんは敢えて不利になる黒を選ぶというのだ。
もしかして、と予感が背中を走る。この人結構強い? 私の訝しげな視線に気づいたのだろう。ワタルさんは肩を竦め、言った。
「将棋はよく指すが、チェスはそこまででね」
「将棋……カントーのチェスですっけ」
「言い得て妙だな。そういうものだと思って構わないよ。ジョウトの実家でよく付き合わされていてね。そちらは自信がある」
「ふぅん……」
なら後手を選ぶ理由もわかる。「そこまで」と言いつつも、チェスにだって相応の自信があるのだろうな。どちらにしろ挑戦者の意思を優先するだけだ。彼が黒を選ぶのなら、それに従うまで。くるりと盤面を回転させる。白が並んだ駒がこちらにくる光景は久しぶりで、ちょっと違和感さえ覚える。
まずは小手調べ。ポーンを二マス進める。さあ、どうぞと促すようにワタルさんを見れば、彼も迷わずポーンを進めた。セオリー通りの動きだ。けれども淀みない。
なんとなく長い試合になりそう。そんな予感と共に私は次の駒に指をかけた。
カツンと音を立ててキングの前にナイトが置かれる。その色は黒。
「チェック」
「…………」
ぐるりと目が回る。思考を巡らせるが逃げ道が無いことなんて私が一番よくわかっている。
いつの間にか囲われていたギャラリーからの視線が刺さる。この喫茶店に通う客なら、今の私がどういう状況か説明されなくてもわかるからだ。みんな、あの一言を待っている。私の口から発せられるのを。
「ーー参りました」
瞬間、どよめく店内。ギャラリーから「まさかチクマが負けるなんてなぁ!」とデリカシーのない言葉が聞こえてくる。同時にワタルさんを讃頌する声も。
シンプルに悔しい。この店での初めての敗北。子供の頃ならまだしも、働いてからは祖父とマスターにしか負けてこなかったのに。しかも初めての負けがガラルじゃなくてジョウトの人間だなんて。
とはいえ、負けは負け。悔しい気持ちもあるけれど、私はこの店のウェイター。いろんな想いを大きく飲み込んで「おめでとうございます」と笑顔を作る。
「私に勝ったのでマスターに挑戦できます。このまま挑戦しますか?」
ただちょっとマスターは料理中のようなので待ってもらうことになりそうだけれど。漂う香りは自慢のナポリタンだ。ケチャップの甘い香りが香ばしい。
彼はキッチンへ視線を移し、次に腕時計へ。「もうこんな時間か」と呟いた。
「このまま帰ったとしても、次に来店するときはマスターと勝負ができるのかい?」
「ええ。そうですね」
最初からそういうルールだ。私に勝てば次はマスターと。それはこれ以降も引き継がれる。マスターに負けた場合はもう一度私からになるけれど。それを伝えれば、彼は「なら今日はお暇させてもらおうかな」と立ち上がった。
「予定が?」
「ああ。すまない。このあと人と会う約束があってね」
ワタルさんは申し訳なさそうに眉を下げ、マスターに「珈琲、美味しかったです」と声をかけて店を出た。残されたベルの音がなんだかやけに耳に響く。
「チクマ、ついに負けたな!」
「あのお兄さん強かったわねぇ」
「それにしてもいい勝負だった! 時間がかなりかかったのも仕方ねぇや」
言われてみれば二時間近く指していたらしい。そりゃあ後の予定も迫るというもの。イベントを控えたトレーナーなら、なおさら。勝負に合わせてポケモンたちの調整もあるだろうし。バトルトレーナーって大変なんだなぁ。こんな早くから現地入りする必要があるなんて。
でもそれだけポケモン勝負に本気なのだろうな、とも思う。ワタルさんはすごく強かった。あれは元々の勝負強さもさることながら頭の回転が速いのだろう。刻一刻と状況が変わるポケモン勝負には思考力も試されると聞いたことがある。それを遺憾なく発揮されたというわけだ。
あとは、そう。攻め方もすごかった。隙を見せず、こちらのミスを誘うような動きをしつつも堂々とした指し方をしていた。振り返れば振り返るほど、私が負ける要素しかないように思う。
じわりと苦い味が口内に広がる。悔しい。けれどもここまで歯が立たないのも清々しい。彼は本当に強い人だ。
気づけばカウンターにいるマスターが手招きをしていた。チェス盤を片付け、誘われるようにそちらへ向かう。ちょっとだけ足がもつれてしまった。想像以上に疲れているらしい。頭だけではなく身体中に疲労がたまっているのがよくわかる。
「おつかれさま」
カウンターの空いた席に座る。するとすぐさま背の高いグラスが現れた。
目の前に置かれたそれは季節のフルーツとアイスクリーム、甘さ控えめだけど濃厚な生クリーム、さっくりとしたメレンゲが敷き詰められたパフェ。アイスに刺さったスティックパイを飾るブラウンシュガーが店に住み着いたランプラーに照らされキラキラと光る。
私の大好きなマスターのパフェ。ちょっと気持ちが上向きになる。
「久しぶりに負けてしまったね」
「……強かった」
ヘタしたらマスターよりも、なんて言葉はアイスと共に飲み込んだ。
けれどもマスターは私の心の中まで全部わかってしまっているのだろう。目元の皺を深め、珈琲をゆっくりと淹れはじめた。店内に温かな香りが満ちていく。大好きな一時のはずなのに、なんだか私の心はやけにざわついたままだった。
次にワタルさんが来たのは一日空けたあとだった。
ドアベルを鳴らした彼にオンバットがすぐさま構ってほしそうに近づいていく。羽音を響かせるオンバットにワタルさんはどこか嬉しそうに腕にその子を止まらせた。
微笑ましい光景だけれど入り口でお客様を邪魔してはいけない。ちょっと強い声を出す。
「こら、オンバット」
「怒らないでやってくれ。相手をしたおれが悪い」
オンバットと共にやってきたワタルさんは「きみのオンバットかい?」と渡してきた。あいにくだがこの子は違う。天井で揺れているランプラーと同じく、いつの間にかこの喫茶店に住み着いたポケモンだ。
「古い店ですのでね。ポケモンたちも入れ代わり立ち代わり。この喫茶店を見守ってくれているのですよ」
「なるほど。それは素敵ですね」
同意するようにマスターの周囲を回るポットデスがカチャリと音を鳴らす。この子ももちろん、マスターの手持ちでも私の手持ちでもない。ガラルでは珍しい珈琲の喫茶店なのに、ずっとこの店にいてくれる。
ワタルさんはポットデスを目で追い、前回と同じくホットの珈琲をオーダーした。
マスターがその準備をしている間に私は彼に確認をする。「マスターと対戦しますか?」と。
「いえ、今回もチクマさんが相手をお願いします」
彼の答えを聞く前に、マスターが言った。その一言を私は思わず聞き返してしまう。だって私が相手をする理由がないからだ。
今の店内は空いているし、もしマスターが対戦を始めればいったんオーダーが止まるのがこの店のルール。それに文句をつけるお客様は最初からここにはいない。
なによりも。マスターがこうやってお客様の返事を待たずに遮るのは珍しことだった。現にポケモンたちもきょとんとしている。
私たちの狼狽えぶりを余所に、マスターは微笑を浮かべながらワタルさんに問いかけた。
「いかがでしょう?」
「そうですね。チクマさんさえよろしければ、ぜひ」
あれよあれよという間にいつもの定位置で私はワタルさんとチェスを指していた。
前回と同じく彼が黒で私が白。今のところ、勝負が五分五分といったところだ。
「きみはポケモン勝負はしないのかい?」
「……あまり」
黒のビショップを動かしながらワタルさんが尋ねてくる。緩みのない攻撃からこちらの駒を逃すことに集中していたので、少し返事が遅れた。その空白の時間にいらぬ誤解を与えないように「嫌いってわけじゃないですよ」と付け加える。
「それよりもチェスが好きなだけです」
「なるほど。確かにきみの手は鋭いものばかりだ。熟練者のそれだな」
どの口が……、と言いかけてごくんと飲み込む。こちらの攻撃にも一切の動揺を見せない彼に言われても説得力なんて皆無。多少はミスを見せるような指し方をしてほしいものだ。
「だからきみはポケモン勝負でも強くなる」
「そういうものですか?」
「ああ。おれが保証するよ。本格的にやってみるといい。そうだ、きみのポケモンは? いないのかい?」
「今日は連れてきていないですけどドラパルトがいます。まだ私が子供の頃、この喫茶店でドラメシヤのときに出会って、そのまま懐いちゃったんです。お互いにいい遊び相手だったもので」
時間はかかったけれどドラパルトに進化したときの感動は忘れられない。それこそ私はあまりバトルをするたちではなかったし。まあ、私もドラパルトもそこまで「進化」にこだわっていなかったから、ゆっくりペースがちょうどよかったのかも。
ちなみに今日はポケモンセンターで健康診断中。朝、ボールと共に預けてきたばかりだ。今頃、注射の一つや二つ、されていたりして。
「ほう。ドラゴンタイプか。なら余計に戦ってみたくなったな」
「好きなんですか? ドラゴンタイプのポケモン」
「格別にね」
この身を捧げているといっても過言ではないな。
最後に落とされた言葉から並々ならぬ気迫を感じ、思わず息をのむ。
もしかして。この人、ただのトレーナーじゃないのかもしれない。ガラルリーグのキバナのように、どこかのジムを任されているのだろうか。まさかチャンピオンなんてことは……。
過ぎりかけた考えを目の前に彼に当てはめる。まるで誂えたようにその肩書きはワタルさんに似合っていて。でもそんなはずがない、と頭を振って考えを追い出す。
だってどこかの地方のチャンピオンと私がチェスをしているだなんて思えない。そりゃ勝負強いし、今もなおこの人に勝てるビジョンはまったく見えないけれど。
でもやっぱり「チャンピオン」はしっくりきてしまって。ただのトレーナーよりも、そうだと言われた方が腑に落ちる。
好奇心はニャースも殺す。
そんな言葉が浮かばなかったといえば嘘になる。でもいつだか観た、ピカチュウが謎を解き明かす探偵映画のように私は考えを口にしまっていた。
「ワタルさんって、もしかしてリーグチャンピオンだったりします?」
シュートシティに来たのもイベントに参加≠キるのではなく招待≠ウれたからだとしたら。
初来店の際、時間に追われていたのもイベントの打ち合わせがあったからだとしたら。
心臓がうるさい。緊張感と高揚感に襲われる。あのピカチュウもこんな気持ちで謎解きをしていたのだろうか。
ワタルさんは数度瞬きをし、それから愉しそうに微笑を浮かべ言った。
「チクマさん自身の目で、確かめてみるといい。想像通り、来週のバトルイベントにおれも出る予定だからね」
そのままの表情で、彼は続けて告げる。
「それとも戦ってみるかい? おれと」
いつの間にか黒のナイトが白のキングにいた。
チェックメイト。私の負けだ。
背の高い/そのままの/チェスセット #鳥啼ワードパレット様「下手な隠しごと」より