「サビ組に女の子二人だけで行った!?」

視界の端にピュールくんがしかめっ面をしながら、耳を塞ぐ姿が映る。でも、彼に謝罪する余裕は今の私には無い。申し訳ないとは思うけれど、デウロちゃんから告げられた衝撃的な一言に思考がいっぱいだ。
だってあのサビ組に女の子が二人きりで行ったなんて! 卒倒してもおかしくない出来事だ!

ホテルZに帰ってきた私を迎えたのはガイくんを除いたMZ団のどんよりとした空気。ただでさえ危ない暴走メガシンカポケモンを鎮めている子供たちなのだ。なにかあったのかと疑うのは自然のこと。
大人の過干渉をこのぐらいの年頃の子は嫌がると理解しつつも、彼女らの表情の暗さが奇異にかかり、さすがに心配が勝った。

しかし返ってくるのは歯切れの悪い言葉ばかり。これはもう完全にアウト。十中八九、ヤバいことが起きたに違いない。しかも大人の私には言えなような内容。
本腰を入れて根掘り葉掘り聞き出せば、こちらの鬼気迫る表情に観念したのかデウロちゃんが眉を下げ、ぽつりと答えた。「セイカと一緒にサビ組に呼び出された」と。

「……要するにガイくんが借金して、しかも詐欺に近い手口でかなりの額の利子を請求された。そして、その利子について、デウロちゃんとセイカちゃんがサビ組に呼び出されて二人きりで行ってきた。そういうことだね?」
「で、でもなにもなかったから! ね、セイカ!」
「それは結果論でしょ! というか、すでに『なにかあった』後なの!」

話を聞けば聞くほど頭を抱えたくなる。いくらポケモン勝負が強くても、相手はサビ組だ。正直、彼らのいい噂は聞かない。そんな場所に少女二人きりで乗り込むなんて……くらくらと目眩がしてきた。こめかみがズキズキと痛む。本当に無事でよかった。
過ぎたことを怒っても仕方ない。それよりも考えるのは「次のこと」だろう。主にガイくんの借金と利息の返し方。でもその前に、大人として言っておかなければいけないこともちゃんとある。

「どうして私を呼ばなかったの」
「だってチクマさん、今日、就活だったでしょ」
「オーディションね。オーディション」

そろりと向けられたデウロちゃんと視線の先にあるのは私のヴァイオリンケース。
今日は楽団のオーディションに行くとみんなには朝から伝えていたから、気を使ってくれたのだろう。そもそも、連絡をもらっても気づかなかったかもしれない。
なんてタイミングが悪い、いや、サビ組のことだ。私のこともきっちりと調べて、ピンポイントで今日≠選んだ可能性もある。そういうこと、あの人たちやりそうだもの。

「……どちらにせよ、女の子二人きりで行く場所じゃないことに変わりはありません。今度サビ組に行くときは私も一緒に行くから。利子の話とか借金の話とか、どうせまた連絡来るんでしょう?」

結局のところ何も解決はしていないわけで。となれば、借金回収のために連絡は必ず来る。今度は是が非でも私も付き添わせてもらおう。
わかったね? と二人に釘を刺す。すると途端にセイカちゃんの瞳は気まずそうに揺れた。ま、まさか……。

「たった今、もう利子分の仕事の呼び出しがあって……えへへ」

くらりと目が回る。倒れなかったことだけ、誰か褒めてほしい。


帰ってきたその足で、私は再びホテルの外に出た。ヴァイオリンケースだけは置いてきたけれど、あとはもうそっくりそのままな格好だ。でも逆によかったのかもしれない。オーディションに行っていたおかげで、ちゃんとした保護者ぽい格好ができている。なけなしの一張羅は私に緊張感と自信をくれた。
堂々としなければ。セイカちゃんには隠れて深呼吸を繰り返す。ここで私が狼狽えていたら、舐められる。

セイカちゃんと一緒に現われた私にサビ組の人は怪訝そうな表情を浮かべたけれど、あまりにも堂々としていたせいか結局は建物の中に入れてくれた。そこにいたのはゲンガーをはじめとしたポケモンたち。
依頼人さんの「ヤンチャな連中」なんて一言に身構えていた力が抜けていく。
思わずセイカちゃんと顔を見合わせてしまった。

「ポケモン退治でまだよかった。セイカちゃんのポケモンは私が回復してあげるから、なにかあったら声をかけてね。くれぐれも気をつけて」
「はい、行ってきます!」

ゴースやゲンガーの元へ走るその背中を見送ることに、歯がゆさを覚えないと言えば嘘になる。私はポケモンを持っていないから手伝えない。ポケモンがいたら、この利子の仕事だって代わりにできたのかもしれないのに。
……いや、たらればを考えても仕方ないか。今の私にできることは彼女のポケモンを回復することと「大人」として付き添うこと。それをちゃんと全うしよう。丸まりそうになった背中を意識して伸ばした。

それにしても、本当にポケモン勝負が強い。あれよあれよとゲンガーたちを追い払うセイカちゃんに感心してしまう。そりゃあ異例の速さでZAロワイヤルをランクを駆け上がるだけある。
しばらく彼女の戦いっぷりを眺めていると、壁を見つめ続けていた依頼人から「終わりました?」なんて質問が飛んできた。ちらりとセイカちゃんを見れば、ちょうど彼女も動きを止めたところだった。笑顔と共にサムズアップが返ってくる。確かに、ゲンガーたちの気配ももう無さそう。

「ええ。終わったみたいです」
「本当ですか!? ありがとうございます! ようやくオフィスの引っ越し作業ができます!」

依頼人と話すセイカちゃんは怪我らしい怪我もしていなさそうだ。ちょっと安心。「サビ組の仕事」と聞いて警戒していたけれど、彼女がなんとかできる範囲でよかった。もっと危ない仕事だったらかと思うとぞっとする。
感じた悪寒に腕を擦っていると、ふいに靴音が聞こえてきた。

「たいしたもんや」

男の人の声。依頼人とは別の。でも建物の入り口にいたサビ組の人とも違う。
靴音の持ち主は私の横を通り抜けた。その姿にひゅっと喉が狭くなる。
サビ組のボス、カラスバがなんでここに? まさかセイカちゃんの見張りに? でもわざわざボスが来るもの? 
彼は依頼人やセイカちゃんと話し――ようやくそこで私に視線を向けた。鋭い眼光が刺さる。痛みさえ感じるほど。刺々しい音が、私を襲う。

「なんで部外者がおるん?」

プレッシャーがすごい。警戒心が強いニューラだって、こんなに殺気を放たないはずだ。
でも逃げるわけにはいかない。なんのために自分が今ここにいるのか、自分の存在に意味を持たせないと。

「私、ミアレでの彼女の保護者なので付き添いに」
「そんでわざわざ職場参観か? 今どき流行らんで、モンスターペアレントは」
「普通の職場なら私だってこんなことしません。まさか、その自覚がおありでは無いとでも?」
「真っ白な顔して、なかなかおもろいこと言うやん。――まあ、ええわ。こっちの邪魔さえしなければな」

カラスバさんは私をじろりと睨み、続いてセイカちゃんに「次の仕事や」と話し始める。
ま、まだあるのか……。確かにあの額の利子は一回ではすまないかもだけど、それにしたってこんな連続になるなんて。しかも次はミアレ変電所の傍、とのこと。ちょっと距離があるから、どこかでタクシーでも拾った方がよさそうだ。

とにかく向かわなければいけない。拒否権は今のところ私たちにはないのだ。
セイカちゃんの後を追って建物に出ようとした私の足を「待て」と止める声が響く。

「オマエはオレとゆっくりおしゃべりしよか」
「…………」

人差し指が私を招く。それを無視することはおろか、適当なことを言って逃げるのも難しそうだ。
でもちょうどいいかもしれない。私も今回の件で話をしたかった。ここは彼の提案を受け入れよう。セイカちゃんに「先に行っていて。すぐに追いつくから」と伝え、私は来た道を戻る。
先程と同じ鋭い眼光に負けじとカラスバさんを睨めば、彼は眼鏡越しに目を細めた。
――よく見るとこの人の目、綺麗な色をしている。まるで月みたいだ。

「場所変えるで。いつまでもここにおったら迷惑やしな」

呼びつけたくせに、くるりと背を向けられる。自分勝手な行動にカチンとするが、依頼人さんのことを考えればここで話し込むのは確かに迷惑だ。だって私たちの空気にずっとオロオロとしている。大人しくカラスバさんに着いていくしかなさそうだ。
建物の外に出ればすでにセイカちゃんの姿は無かった。私も早く変電所に行かないと。途中でタクシー拾ってくれればいいんだけど。でもあの子、ミアレの反対側まで走っていくタイプなんだよなぁ。

「オレも仕事があるさかい。手短にすますで」
「あら、奇遇ですね。私もとっとと終わらせたいと思っていたところなんで」
「そら、気が合うなァ」

カラスバさんは大きく息をはき、髪を掻き上げる。ギロリと私を睨んだ。
まるで喉元にナイフが突きつけられているような――そんな感覚が私を襲う。

「どういう関係や。MZ団とは」
「言ったでしょう。保護者って」
「同じホテルに泊まってるだけで保護者って?」
「充分な理由だと思うけれど? あの子たち、みんなまだ子供ですから」

私はMZ団のメンバーではないけれど。でも同じ場所で寝泊まりし、彼女らの活動を知っている。そして彼女らがそこに賭ける思いも。
となれば、私にできるのは見守ること。そして、いざというときに必要な「大人」の役目を全うすること。それを担うのはAZさんであり、私しかいない。そして、今回に関してはAZさんより私の方が相応しかっただけのこと。だからここにいるのだ。
怖くとも、逃げることが許されない瞬間が大人にはある。

そう告げれば、カラスバさんはこちらをからかうような口調で言った。

「せやったら、オマエがガイの返してくれるんか? 借金も利子も、ぜーんぶ。『保護者』としてなァ」
「もちろん。さっきの仕事みたいなのはできないけれど、みんなを解放してくれると約束してくれるのなら、代わりに私が全額返します」

今すぐにきっちり揃えて返すは正直難しい。でも「ガイくんがサビ組に借金を返す」から「私がサビ組に借金を返す」という構図に変えることはできる。ガイくんには後から、時間がかかっても『私』に返してくれればいい。そちらのほうが今の状況に比べればずっとマシだ。セイカちゃんも危険な仕事をしなくてもすむし、デウロちゃんやピュールくんが怯えなくてすむ。

私は確かにMZ団ではない。部外者だ。ガイくんの借金の理由を踏まえても、その事実は揺るがない。
でも、だからといってそれを言い訳にしたくはない。あの子たちの一番身近な「大人」として、できることをする。

「そういうものでしょう。保護者や大人って」
「――はっ、ははは!」

……ええ。な、なんで急に笑ってるの? なんか変なこと言ったっけ?
急な笑い声に驚いて、心臓がバクバク鳴っている。睨んだり笑ったり、忙しい人だな。私は追いつけないんですけど。
カラスバさんはしばらく声をあげて笑った後、少しだけ表情を緩め、メガネのブリッジをあげた。

「安心し。ちゃぁんとあいつは怪我一つなく返したる。『大人』としてな。オマエはホテルZに帰っとき。その一張羅、汚したくないやろ?」

ギクリと顔が引き攣る。まさしくそれは図星だった。
実のところ、この服はあまり汚したくはないし、長く着ていたくない。これはまさしく一張羅。着られなくなった瞬間、オーディションで着られる服も無くなってしまう。
でもその言葉に素直に頷けない私もいる。だってこの人の言葉を信用できない。それをストレートに伝えれば、彼はわかっていると言わんばかりに肩を竦めた。

「なら契約でもしよか」
「契約?」

すると、カラスバさんは左手の小指を目の前に出してきた。その意味がわからずにぽかんとしていると「指切りや、指切り」と面白そうに口の端を吊り上げる。

「ほんとは契約書があったらええんやけど、ちょうど手持ち切らしてんねん。これで堪忍な。ほら早く」
「……やっぱりメリットを感じないのでお断りします。このままセイカちゃんを追って――」
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ、うるさいわ」

ガシリと腕を掴まれる。そのまま持ち上げられたかと思えば、無理矢理指を絡められた。
抵抗する暇は与えられない。それほどまでに強い力だった。
節のある指が、私の指に食らいつく。

「はい。指、切った。破ったら相応のモン、払ってもらうからな」

その一言で先程までの力が嘘のように、あっけなく解放される。なんて一方的な約束の指切り。私は一言も「YES」と言っても、頷いてもいないのに。どことなく満足そうなカラスバさんと正反対に私は混乱しっぱなしだ。

「ちょ、ちょっと! こんなの無効でしょ!」
「オマエはそう思っとたらええやんか。ま、オレはそう思わんけど」

私の喚く声を無視して、カラスバさんは路地の中へ消えていく。追いかけてもミアレの複雑な道に阻まれて、あっという間に見失ってしまった。残ったのは私を見上げるヤブクロンぐらい。
こんな約束、無視してセイカちゃんを追うべきだ。でも彼が発した最後の一言が私の足に絡みつく。相応のものを支払うってなに? お金だってないのに、それ以上のものを求められたら……。
あの月のような瞳が頭から離れない。 今もなお、見られているような感覚が拭えずに私は立ちすくんでしまった。



――怒濤の一日とはまさしく今日のことを言うのだろう。
部屋に戻った瞬間、一気に疲労が押し寄せて、思わず座り込んでしまう。
結局、あのあと私はカラスバさんの言葉を無視してミアレ発電所へ向かった。(そもそもあんな指切り、無効に決まっている!)
しかしそこにセイカちゃんの姿はもう無く。近くを探してみたけれど、彼女はおろかサビ組の人も見つけられなかった。彼女のスマホロトムへ連絡しても、うんともすんとも。
結局、カラスバさんの言葉通りホテルに帰るしかなくなってしまった。

だから、無事にセイカちゃんが戻ってきたときはホッとした。思わず抱きしめてしまったほど。しかも今日の仕事だけで利子分は無くなったなんて朗報まで飛び込んできた。……それはそれでちょっと裏がありそうで怖いけれど、あとはガイくんの借金だけをどうにかすればいい。なんて思っていたその矢先。

まさかカラスバさんがホテルZに宿泊客としてやってくるなんて。あのピリついた空気がロビーから部屋にまで伝わっている気さえしてくる。あの人が何をしたいのだろう。借金の取り立て? でもそうだったら泊まる必要はない。そもそも乗り込んでまで取り立てに来るんだったら、最初からそうすればいい。わざわざわセイカちゃんを呼び立てる必要は無いはずだ――ああ、そういえば。

「セイカちゃん、怪我とかはしてなかったな……」

彼女も、そして彼女のポケモンも。みんな元気に帰ってきた。
その点は約束を守ってくれたことになるのだろうか?

「よくわからないや……」

いろいろと悩んだところで、今夜だけは彼も宿泊客に違いは無い。ガイくんも「客としてもてなすだけ」と言っていた。その言葉通り、私もいつものようにすごそう。
疲れた身体に気合いを入れて、相棒のヴァイオリンケースを抱える。ちょっと遅い、でも風情のあるエレベータで向かうのは屋上。

古いドアを開ければ、優しい夜風が私を出迎える。綺麗に浮かぶ月が今夜の私のスポットライトだ。

ミアレの夜は静かだけれど、騒がしい。
バトルゾーンが近ければその音が響くし、ワイルドゾーンが近ければ夜行性のポケモンの鳴き声だって聞こえてくる。だから夜に屋上でヴァイオリンを弾くぐらい、どうってことない。

深い夜の空気を吸う。今日もミアレには素敵な夜が訪れているみたい。

構えて、弓を弦に滑らせてチューニング。うん、いい感じ。
最近は今日のオーディションのための課題曲ばかり弾いていたから、違う曲でも弾こうかな。
少し悩んで、選んだのは幼い頃よく聞いた子守唄。せっかく月の綺麗な夜なんだもの。この曲が相応しい。
どこからか聞こえる音楽に、ミアレの人やポケモンが少しでも心が安らぎますように。そんな祈りと共に、弓を持つ。ゆったりと静かで、どこか温かみのある旋律が響き始めた。

空気が震え、振動が音となる。こんな単純な現象に私はずっと魅了されている。
ヴァイオリンが好きだ。深みのある音や、気品のある響きに虜になってからどのくらい経つだろう。
子供のころの私と同じように、いつか誰かが私の奏でた音色でヴァイオリンに夢中になってくれたら、それ以上の喜びはない。それを目指し、私は弓を弾く。
楽団に入る夢はまだまだ届かないけれど、ヴァイオリンに出会ったこのミアレという土地で。ずっと音楽を奏でていきたい。

曲の盛り上がりは慎重に。優しくクレッシェンドをかける。少し含みを持たせた余韻を作るのが大切。そしてなにより大事なのは丁寧に弾くこと。
夜のミアレに最後の一音がゆっくりと溶けていく。この瞬間がなによりも幸せだ。

そっとヴァイオリンを下ろす。するとそれを待っていたかのように拍手が背後から聞こえてきた。
AZさんとは違うテンポの拍手。もちろんMZ団のみんなのものとも違う。つまり、この拍手をしているのは——

「ええもん聞かせてもろたわ」

いつからいたんだろう。集中してたから全然気づかなかった。デッキチェアに腰掛ける彼は私の持つヴァイオリンを見つめ「ほんま、よかったわ」と噛みしめるように呟いた。

「普段もここで弾いとるん?」
「そ、そうですね。練習も兼ねて。だいたいこの屋上で」
「ほんなら、ここでしか聞けへんのか。勿体ないな」

それはつまり私の演奏をもっと聞きたいって思ってくれている?
シビビビとまるで電気ショックの技を食らったみたいに嬉しさが身体中をかけめぐる。いや、相手はサビ組ボスだぞ! みんなに、特にセイカちゃんにした仕打ちを忘れたか! なんて自分自身に叱咤を飛ばすが、嬉しさは止まらなくて。
だって「もっと聞きたい」なんて言われたら、音楽家みんな参っちゃうに決まっている。
少なくとも私はそう。私の音を惜しいと思ってくれるのなら、それがサビ組ボス相手だとしても喜んじゃう。

「——働いてるカフェレストランでも演奏してます。だからそこでも一応聞け、ます」

本当は音楽で食べていけたらいいのだけれど、現実はそう甘くは無い。
オーディションを受けるためにも、ここで生活するにもお金が必要。ZAロワイヤルで稼げない私の主な収入源はバイトだ。一応、演奏タイムを設けているカフェレストランであるから、ただバイトするよりはずっといい環境ではあるのが救い。音楽好きのマスターに拾われてよかった。

「へぇ、どこの?」
「ジョーヌ地区にあって。でもちょっと裏手の方にあるから知らないかも」

いわゆる隠れ家的なやつ。言い換えれば地域密着系。ガイド誌にも載っていない。
しかしカラスバさんは知っていたらしい。店名を告げるとすぐにマスターの名前を当ててきた。なんでも店を開けるときに力を貸したとのこと。えっ、マスター、サビ組と知り合いだったの?
気のいい穏やかなマスターとサビ組の繋がりが想像できない。今日の依頼みたいにポケモンを追い払うとか、そういう類のものでありますように。

「店にも行くとして、今ここでもう一曲弾いてくれへん?」
「リクエストあります?」
「さっきの曲、気に入ったわ」
「わかりました」

ヴァイオリンを構える。弓が弦にふれる、その直前。

「せや、名前」
「え?」
「聞くの忘れ取ったさかい。教えてぇや」
「知ってるんじゃないの? もうとっくに調べているんでしょう?」
「まあな。でも本人の声で聞きたいやん」

催促するようにトンと彼の指がチェアの肘掛けを叩いた。
月の光を溶かしたような色の瞳が細くなる。
つられるように、私は自分の名前を口にしていた。

「チクマ、です」
「ん。チクマか。ええ音や。よう似合うとる」

そして小さく浮かべられた笑み。この人、こんなに優しく笑うんだ。なんだか綺麗だな、と素直に思ってしま ――って、いや、いや、いや! サビ組のボスだぞ! 忘れるな、私! 怖い人、怖い人!
逃げるように彼から背を向けて、深呼吸を一つ二つ三つ。鼓動を整える。

子守歌が奏でられた後には彼の拍手がもちろんついてきて。それにくすぐったさを覚えたことは、なるべく早く忘れるようにしようと思う。



有限実行。カラスバさんは本当に店にやってきた。
カフェタイムである15時から30分間とディナータイムである20時から1時間が私の演奏する時間。カラスバさんはちゃんとその時間に私のヴァイオリンを聞きに来た。「毎日」というわけではないけれど「時間があれば必ず来ている」とわかる程度の頻度で。

一番の奥の席で、ステージから降りるまで私をじっと見つめている。あの月の色を溶かした瞳を熱心に向けてくるのだ。
その視線に緊張したのは最初の数回だけ。今はすっかり慣れてしまった。むしろいると安心するほど。コーヒーと共に私の演奏を聞いている彼に、当初抱いた不信感はもうほとんど無い。言うほど悪い人じゃないのかも。

「って、こういうのが狙いだったりするんですかね?」
「さあ、どうだろう。まあ、誤解受けやすい人ではあるからねぇ」

マスターは苦笑しつつ、コーヒー豆を挽く。休憩閉店中の店に鈍い音が響いた。
まかないのホットサンドはとっくに食べ終わってしまっている。食後のコーヒーを待つ私に、マスターは話を続けた。

「善い人≠ナはないけれど悪い人≠ニも一概には言えない。難しい人だよね、カラスバさんは」
「マスターはカラスバさんにこの店を紹介してもらったんですっけ」
「そうそう。飲食店にするならって約束で格安でね。ここらは食事ができる店が少ないから遠出できない人のために、カラスバさんはカフェやレストランを欲しがっていたみたいなんだよ」
「へぇ……」

確かにこのお店は有名なカフェに比べると年齢層がちょっと高めだ。今の話を聞いたら納得が出来る。
ミアレは広いし、移動に時間がかかる。足腰が不安な人は遠出を我慢するほどには。タクシーを毎回使うのも現実的では無いし、このお店みたいな存在がいろいろな地区で必要なのかも。

「……善い人≠ナはないけれど悪い人≠ナもない、か」

その表現はかなり腑に落ちる。善い人とはやっぱり断言は出来ないけれど、かといって悪い人として切り捨てることも難しい。適切に、そして適度に関わるのなら、彼の毒牙にかけられることはないだろう。そんな存在の人だ、カラスバさんって。

「でも驚いたよ。あのカラスバさんがこんなにも一途だなんてね」

コーヒーミルが止まる。続いてフィルターを用意するマスターの言葉に思わず首を傾げた。

「一途? カラスバさんが?」
「そうそう。長い付き合いだけれど、あんなに一途で情熱的な人とは知らなかったよ」

一途で情熱的? いまいちピンとこない。まさか借金の取り立てについてではないだろう。となれば、私の知らないところでそういうことがわかる何かがあったのだろうか。ああ、強いて言うならポケモンかな?

「なにに一途で情熱的なんです?」
「そりゃあ、チクマさんにさ。気づいていなかったのかい?」
「私、ですか? ポケモンではなく?」
「ま、まさか! 本気で言ってるのかい!? あんなにも熱心に口説かれているのに!」
「く、口説かれていた!?」

驚きのあまり立ち上がる。ガチャンとお皿がうるさく揺れた。
口説かれた!? 誰が!? ……私か!
でもまったく記憶に無い。演奏のあと、おしゃべりはすることはあるけれど、だいたい音楽の話ばかりだ。
今日の曲はここがよかったとか、私のこの弾き方が気に入ったとか。
確かに最近は店の外でも声をかけられることも増えていたし、わざわざ遠くから名前を呼ばれて驚いたこともあったっけ。
あとは。ディナータイムに来ていたときは夜遅いからってホテルZまで送ってくれたのも、その一つだったりする?

いや、でもあれは口説いているのではなくて、知り合いに対するあれやそれやでしょう?
恋に恋する子供ではないのだ。さすがに相手からの好意には気づくはず。
頭を抱える私にマスターは苦笑しつつ、淹れたてのコーヒーを差し出した。今は私の感情を表わすかのように黒く渦巻いている。

「カラスバさんはね。うちのコーヒー、好みじゃないんだよ」
「え」
「うちのは酸味が強めだろう? どうもそれが合わないらしくてね」
「で、でも毎日コーヒー頼んでいるじゃないですか。しかもブラックで」
「好みじゃないコーヒーを飲んだとしても、チクマさんの演奏を聴きたいんだろう。つまりチクマさんに会いたかったわけだ」
「わ、私に……?」

マスターの言葉や表情に嘘をついている様子は見えない。もしかして、私の恋愛経験値が低いから気づかなかっただけ? カラスバさんは私のことが好きなの?

ふつふつと胸の奥から、知らない感情が迫ってくる。たまに見せる彼の優しそうな笑顔や、打てば響くような軽口、やわらかな声音の全てに意味が伴うような気がして。
頭の中が湧き上がる感情と共にぐるぐるとまざっていく。じわじわと熱を持つ頬に震える指先。カラスバさんの顔が浮かんでは消えていく。

こ、これはちょっとかなりまずいかもしれない。と、とにかく、少なくとも今夜はあの人が来ませんように……! なんかすっごく忙しくて、ZAロワイヤルも大賑わいで、お店に来る暇なんか生まれませんように!

――と祈っていたのに。ディナータイムには当たり前のようにいつもの席に座っている彼がいた。しかもいつものように閉店までいてくれた。もちろん私をホテルまで送るつもりで。
やんわりと今日はいいです、と断ったのに、彼は訝しげな表情を浮かべ「なに言うてんねん。はよ帰んで」ととりつく島も無い。しかもマスターにも普段より早く帰宅を促されたものだから、逃げ場は無くなってしまった。マスターはどっちの味方なんですか。どっちの。

「……おい」
「な、なに」
「しらばっくれんのもええ加減にせぇよ。この距離はおかしいやろ。それともあれか? カクレオンでも間におるって? チクマにはデボンスコープ無しでも見えるんか? あぁ?」

月を溶かした色の瞳が私を睨みつけている。眉根を寄せ、額に青筋が浮かべる彼から思わず顔を逸らす。
その言葉通り、私とカラスバさんの間には一人分ぐらいの空間ができていた。無論私のせいだ。一方的に距離を取っている。
だって仕方ないじゃないか。マスターの言葉を意識して、まともに顔だって見れないのに。普段の距離には到底戻れない。でもそんなこと口が裂けても言えない。なんかすっごく怒ってるし。
口ごもる私にカラスバさんの舌打ちが響く。なんだか責められているような気がして、心臓まで痛んできた。

「ようやっと意識したかと思えば、これか。ガキやんな、オマエ」
「そ、それはどういう……」
「お互いにいい歳の大人≠ネんやし、今更膝つき合わせて好きだのなんだの、せぇへんやろ」

ああ、それともコッチはまだまだ子供≠セったんか?
からかうような声に思わず顔をあげる。ニヤリと歪む口元が一番に目に入った。なんだかそれが異様に大人≠フ表情に見えて。
ドキリと騒ぐ心臓。それに追い打ちをかけるようにカラスバさんは私との距離を詰めた。瞬間、腰に彼の腕が回る。

「!? ち、ちか……!」

さらに密着する。彼から伝わる体温にじわじわと自分の熱もあがっていくような気がした。ふわりと漂う香水の香りにくらりと視界が揺れる。腕の力が強くなる。振りほどくことなんてできない。
男の人だ、カラスバさんって。そんな当たり前のことを今更ながら痛感した。

「チクマ」

吐息がふれる。それほどまでに存在が至近距離にある。

「指切り、覚えとる? 初めてあったときにしたやろ」
「あ、あの無効の……?」
「ははは、覚えとるやん。正解。オマエが『無効』って思うとるアレ」

無理矢理交わされた指切り。なんで今更そんなことを言い出すの。

「あんとき言うたよな。『オレはそう思わんけど』って」
「い、言われたような……?」
「契約、破ってんのちゃぁんと知ってんねんで、オレは。ホテルに帰れ言うたのに、発電所に行ったやろ?」 

だってセイカちゃんが心配だったし。あれは無効だったもの。行くに決まっている。
肯定するように頷けば、目の前にあった月が愉しげな三日月に変わっていく。「悪い子やなぁ、チクマは」なんて囁き声が降ってきた。

「それにこうも言うたよな。『破ったら相応のモン、払ってもらう』って」
「そうだっけ……?」
「随分と調子のええ耳しとるやん。ま、どうでもええか」

――オレはきちんとチクマに払ってもらうだけやからな。
脳裏に浮かぶのはセイカちゃんがした仕事のこと。私はポケモンを持っていないから、ああいうのは難しい。そのことはカラスバさんも知っているはずなのに。

また距離が近くなる。もうわずかでも動くことは許されない。
だってこれ以上はだめだ。くちびるがふれてしまう。キス、しちゃう。

「利息分はまけといたる。なぁ、優しいオトコやろ? オレは」

三日月がさらに細くなる。彼の口元からちろりと舌が見えたかと思うと―――あっという間に。
溺れるほどの熱と、ほんのり酸味があるコーヒーの味が私の口内に広がった。



大人も知らない。
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