『本日のパスタ』であるカルボナーラをくるりとフォークに巻き付けたモミジ所長代理は、さも当たり前のように言った。「ほのおタイプはみずタイプに弱い」なんて常識的なことを今更教えるかのような口ぶりで。
「そんなのサビ組に頼めばいいじゃん」
「……本気で言ってます?」
「言ってる言ってる」
軽い口調とは裏腹にモミジ所長代理はいたって真面目な表情のままだ。狼狽える私が逆におかしいのか? と頭を抱えそうになる。つい、食事をする手も止まってしまった。そんな私を見てモミジ所長代理はまたパスタをフォークに巻きつけた。
「ま、食べてから話そうよ。冷めたらもったいないし」
「……はい」
目の前にある私のお皿には湯気の立つジェノベーゼが半分以上残っている。確かに、お気に入りのパスタが冷めてしまうのは嫌だ。彼女に倣って私もくるりとフォークを回す。頬張れば、バジルの爽やかな香りと強めに効いたにんにく、そしてじゅわっと味が溢れ出すナスの旨味が口の中に広がった。
ああ、やっぱりこのカフェのジェノベーゼはカロスの中でもとびきりの高レベルだ。ちょっとクセのあるパスタだけれど、私はこのクセが逆に好き。
隈をつくり、忙しさにかまけて寝食さえもまともに取らないモミジ所長代理を連れ出すのは研究員たちのルーティンでもある。今日は私の当番。サラダとスープ、そしてパスタが美味しいお気に入りのお店を、どうやら彼女も気に入ってくれたらしい。あっという間にサラダとスープを空にして、いつになくもりもりとパスタを食べている。
この調子ならデザートをつけてもいいかもしれない。いつもは軽めにアイスを選ぶけれど、私もまだお腹に余裕があるし、ずっと気になっていたタルト・タタンにしようかな。キタカミとかいう遠い地方のりんごを直輸入して作っているこだわりの一品らしいし。
食後のコーヒーを頼むついでにタルト・タタンを二つ追加する。しばらくして運ばれてきたのは白いお皿にふわりと軽い甘さ控えめのクリームを添えた、タルト・タタン。キャラメリゼされたりんごが美しい。見るからに「美味しい」とわかる。さすがにモミジ所長代理も感嘆の声をあげていた。
――ほろ苦さとさわやかな甘み、そしてさくりとしたバターがふんだんに使われているタルト生地。うーん、美味しい。これはリピート確定です。
「それでさっきの話だけどさ」
「あっ、はい」
急に現実に戻してくるな、この人。
気づけばもうモミジ所長代理はタルト・タタンを食べ終わっている。そりゃあこの話をするに決まっているか。
「どくタイプの研究、だっけ?」
「厳密にいえば『どくタイプのわざ』ですけどね」
肉厚のりんごを口に運ぶ。果肉感もさることながら、しっかりとした果汁が残っている。キタカミのりんご、恐るべし。それらを充分に味わって、改めてモミジ所長代理に相談を始める。
ポケモン研究所には日々さまざな研究が行なわれている。前所長であるプラターヌ博士の研究を引き継いだメガシンカチームと都市開発の影響により新しく編成されたワイルドゾーンの調査チーム、そしてそれ以外の細々とした研究を行なうチーム。日々数値や記録を取り、フィードバックを行なう。いつかの未来にこの数字たちが繋がることを祈って。
そんな日々の中、どくタイプわざの数値に気になる箇所があった。
ポケモンたちが放つわざには相手を毒状態にするものがあるのは周知の事実。しかしその成分はどのポケモンも同一であることはなかなか知られていない。同一であるからこそ「モモンのみ」や「どくけし」で全ての毒が“きれいさっぱり”無くすことができるのだ。
しかし、今回発見した数値を見る限り、同一とは言い難い結果が生まれていた。つまり、成分が変わっている。
状態異常を防いだり、消すわざがあるぐらいなのだ。ポケモンだって生き物。彼らが正しい意味で『進化』する可能性だっていくらでもある。
となれば。その研究をする必要が生まれる。そのためには長期にわたって、様々な種類かつ同一のポケモンから毒を採取する必要がある。メガシンカすればなお可。
しかし、そんな都合いいポケモンたちがいるはずもなく。研究員の誰もどくタイプはてもちにしていなかったのだ。野生ポケモンをゲットしてくる案もあるにはあるが、研究のためだけにゲットしてくるのは申し訳がない。モミジリサーチを手伝ってくれるトレーナーさんに頼もうかと思ったが、これ以上の負担を強いるのも忍びない。
どうしたらいいですかね? とモミジ所長代理に相談したのが、ちょうどパスタを食べ始めたあたりのこと。そして彼女の答えはたった一言。「そんなのサビ組に頼めばいいじゃん」と。
「さすがにそれはちょっと……」
「なんで。条件ぴったりでしょ」
おっしゃるとおり。ぐうの音もでません。
私の希望条件である「様々な種類かつ同一のどくタイプポケモン」は、サビ組のボスであるカラスバ氏にぴったり当てはまる。彼がどくタイプのポケモンを使っていることは有名で、私でも知っていることだ。
「でもポケモン研究所は一応公的機関ですよ? それがサビ組みたいな組織に依頼をかけるのは……」
「そんなの今更じゃない? 所長代理のあたしなんて元フレア団だよ? しかも幹部」
「ちょ、声が大きいですって!」
思わず周囲を見渡す。雑踏にまぎれ、彼女の声は誰にも届かなかったらしい。
ほっと胸を撫で下ろせば「優しいね、チクマは」と嬉しげな声音が響く。こちらの肝を冷やしといて、なんですかそれは!
「つまりはさ、あたしはオールオッケーって言いたかったわけ。チクマがサビ組を頼っても、あたしは全然気にしないからね。むしろああいう輩は上手く使わないと」
「そういうものなんです……?」
「そういうもの。経験者は語るってねー」
所長代理はコーヒーカップをくちびるに近づける。彼女の顔を遮るように湯気が踊った。
「手のひらで転がされず、逆に転がす。さあて、チクマにはできるかな?」
浮かべられた笑み。向けられる眼差し。底冷えするような温度が私に突き刺さる。
いつも見る「所長代理」とは全く異なるそれに気づかぬふりをするために、私は残ったタルト・タタンに視線を落とした。
*
「本当に来ちゃった……」
緊張ですでに口の中はカラカラだ。一応と思って持ってきた菓子折の紙袋を思わず握る。くしゃりと音が鳴るそれが余計に緊張感を加速させた。
結局「サビ組に頼る」以外の妙案が浮かばず、私は彼らを頼ることにした。
ギリギリまで悩んだのだけれど……あの後、たまたま採取できた毒からさらに異なる成分を検出したこともあり、もう迷っている暇はなくなってしまった。
毒というものは厄介だ。迅速に、そして適切に処置しなければならない。ここで躊躇ったことが原因でポケモンや人に影響が大きな影響が及んでしまったら――私が研究所の籍を置いている意味が無くなってしまう。
モミジ所長代理からも許可は得ている。事前にアポイントも取った。ちゃんと正式な手段を踏んで、ここにいる。かといって緊張するかしないかは、また別問題。ミアレに来たばかりならいざ知らず、今の私はサビ組の評判もよく知っている。
「よし、いくぞ……!」
最後に相棒のモンスターボールを持ってきていることをチェックし、私は門番よろしく仁王立ちするサビ組の人に声をかけた。彼らはじろりと私を見ると、なにやらインカムで連絡を取っている。その間も私から目を離すことはしない。アポイントは取っているんだ、堂々としろ私……!
しばらくすると大柄な男性が建物から出てきた。彼は「ポケモン研究所よりお越しのチクマさん、ですね?」と私を見下ろす。
「そ、そうです。本日のお約束をさせていただいております」
「お待ちしておりました。わたくしはジプソと申します。どうぞ、こちらへ」
私を案内してくれるその姿は物腰やわらかな紳士そのもの。あ、あれ? 結構いい人なのか? 身構えていた力が抜けていく。エレベーターに乗るときもジプソさんは丁寧に先導してくれた。な、なんだあ。怖いのは見た目だけだ。思ったよりなんとかなりそうです、モミジ所長代理。うまく手のひらで転がせちゃうかも、なんて。
――なんて、心の中の上司に語りかけていた数分前の私を殴りたい。
前言撤回、怖くてたまりません。
「着きましたよ」の言葉と共に通されたのは暗い色で統一され、高そうなツボやら掛け軸が並べられた部屋。それだけで小市民代表な私は威圧感に押し潰されそうになるというのに、エレベーターから降りた瞬間、その人とばちりと目があってしまったものだから、もうだめだった。ヒュッと喉から空気が漏れる。
アーボックに睨まれたケロマツ。もちろん彼がアーボックで私がケロマツだ。
「ジプソ」
「はい。ポケモン研究所から来られたチクマさんです」
「はじめまして、チクマです。ほ、本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「あんな丁寧なメールもろたら、こっちも誠意見せなサビ組の名が廃るってモンですわ。ま、ゆっくり話しましょか」
カラスバさんが立ち上がると同時にジプソさんが私を応接ソファへ誘導する。
せめて部屋を変えて欲しかった……! この部屋にいたら、いつか息が詰まって倒れてしまいそう。
「あの、これ。つまらないものですが……」
菓子折を差し出せば、カラスバさんは「わざわざすんませんなぁ」と大袈裟に驚いたふりをする。芝居かがった声音に違和感を覚えるが、それを指摘する度胸はない。
「せっかくやから早速いただこか。ジプソ、用意したって」
「かしこまりました」
ああ、待って! せめてジプソさんはいてほしい!
彼もサビ組の一員だとはわかっているけれど、そうだとしてもカラスバさんと二人きりにはなりたくなかった。値踏みされているような視線は未だに私を襲っている。しばらく止みそうにないことも理解しているつもりだ。だからこそ、今のところは心の拠り所であったジプソさんがこの場に居て欲しかったのに!
あまりにも私は絶望的な表情をしていたのだろう。カラスバさんはクツクツと喉の奥で笑い、これみよがしに肩を竦めた。
「そんな怯えんでくださいよ。なにも取って食おうとしとるわけやなし。見てのとおり、仕事には真面目に取り組む男やで? オレは」
「あはは、さようですか……」
「そんなワケで——仕事の話しましょか」
スッと彼の顔から表情が消える。自然と背筋が伸びた。駆け上がる緊張感は今までのものとは種類が違う。
私も切り替えないと。ここにいるチクマは「ポケモン研究員のチクマ」なのだから。誰かの未来のために、私は来たんだ。ぐっとお腹に力を入れ、心に巣くった震えを振り払う。
今回の依頼はシンプル。週に一度、定期的にポケモンたちから毒を採取させてもらいたいだけ。期間は短くとも半年、場合によっては延長も。ポケモンたちに負担はかけない、カラスバさん側からの切り上げも受け入れる。
「ご協力、いただけないでしょうか?」
目を逸らしてはいけないと思った。試されている私がここで引いては了承をもらえない。
カラスバさんは私が持参した資料に目を通し「なるほどなァ……」と小さく呟いた。そしてにこりと笑みが作られる。
「こんなん喜んで協力させていただきますわ」
「ほ、本当ですか?」
「断る理由が見つからんさかい。ポケモンに負担がかからんようにしてくれはるなら、なおさらや」
思ったよりすんなりと色よい返事が聞こえて、つい声が上ずる。
よかった。これで研究が続けられる。――なんてほっとしたのも束の間。
「もちろん
無償で
ご協力させていただきますんで」
「…………えっと」
「まさかサビ組がポケモン研究所のご協力をさせてもらえるなんてなァ。ほんま光栄やわ」
弓なりになる瞳が鈍く光を宿していく。本当にこの人、アーボックみたいだ。獲物を逃さず、じわじわと確実に追い詰める。かといって、獲物側の気持ちなんて味わいたくなかったけど。
私から「謝礼」の話を出すのをカラスバさんが待ち望んでいるのはわかっている。なにを要求するか、もう彼の中では決まっているに違いない。
モミジ所長代理は「オールオッケー」なんて言っていたけれど、ポケモン研究所が公的な機関であることに変わりはない。本来であればサビ組に関わること自体が許されないのだ。
だからこそ「あくまで研究のために協力してもらいました」の形を作らないといけない。謝礼もきちんとお支払いし「必要サンプルの採取をさせてもらった」以上の関係ではないことを明確にする必要がある。
そしてサビ組的には「こちらは無償で提供するといったのにポケモン研究所が言うので仕方なく受け取った」の図にしたいのだろう。そのほうが自分たちに有利な内容を提示できるから。
――大丈夫。わかっている。ちゃんとカラスバさんの意図も読めている。簡単に手のひらで転がされたりはしない。
ここが正念場だぞ、チクマ!
「いえ、謝礼はご用意させていただきます」
「そんなそんな! ほんまに結構です」
「こちらは正式なポケモン研修所からの依頼です。そういった点も明確にするために、お受け取りください」
「……ほんなら、お言葉に甘えさせていただきますわ」
カラスバさんはくちびるの端を吊り上げながら、足を組み直す。
ぐっと身体を前のめりにし、言った。
「ポケモン生態学の資格は持っとるよな?」
「え、ええ。所持していますが」
「なら、話は早い。謝礼として、うちのポケモンたちを看てくれへんか?」
思わず瞬きを繰り返す。想定外の一言に、ちょっと理解が追いつかない。てっきり金銭を要求されるかと思っていたから、余計に。
彼の言う「ポケモン生態学の資格」とは、ポケモン研究をするにあたり分野によって必要となる生態学の資格だ。そして、それはポケモンセンターで働くためにも必要な資格でもある。つまり、彼は私にポケモンセンターを求めているということ……?
「あるんですか? 回復機」
あれ、結構いい値段するのに。でも個人販売はしていないはず。
思わず尋ねると「そうやない」とカラスバさんは首を振った。
「うちのモン、市民のみなさんよりちょーっと元気がええやろ? せやからポケモンセンターのお世話になることも多くてな。でも厳つい顔の連中が毎日占領するのもあかんし、どないしたらええかってずっと考えとったんよ」
いずれは回復機も導入するがそれは追々。今は道具でポケモンたちを回復をしているという。
「それでは不充分ですよね?」
「その通りや」
ぽつりと、しかし実感を伴った呟きが聞こえてくる。
「病気は怖いからな……」
そう。道具で怪我は治っても、病気までは治せない。特にポケモンたちは痛みに強いから、気づいたときには手遅れなんてことが多い。私たちがポケモンセンターで回復するのは、生態学を学んだ彼女らがポケモンたちの病気を早期発見するためでもある。
「そこんところどうにかせな、ってずっと考えてたんやけど――」
「私がそれを担う、というわけですね」
なるほど。彼の求めていることはわかった。
私にポケモンセンター代わりになってほしいのか。確かに完全な代替は難しくとも、彼が求めている水準はクリアできる自負がある。なんだかんだ言って、私はカロスで唯一のポケモン研究所に勤めているのだ。知識も経験も備わっている。彼にとってはまさしく渡りに船だろう。
「わかりました。毒の採取の時で一緒にみなさんのポケモンを看させていただく、でよろしいでしょうか?」
「せやな、あとは急患が出た時も頼めるか?」
「そうですね……そのレベルだと私もポケモンが心配ですし、できる範囲でしたら」
「充分や。これで交渉成立やな」
その言葉を待っていたかのようにジプソさんが戻ってくる。お茶と私の持ってきたお菓子を持って。
カラスバさんは白い湯飲み椀を持ち、目の高さまで掲げた。
「これからよろしく頼むで。チクマ」
そして一気に飲み干す。ごくりと動く喉元に、なんだか異様に目について――広がる胸騒ぎに気づかぬふりをして、私はそっとお茶を飲むことしかできなかった。
――週一のサビ組通いもたいぶ慣れてきたなぁ、と爪を振るモグリューに手を振り返しながら思う。
必要な道具を詰めた大きくて重い鞄にカラスバさんが驚いていたのが懐かしいと思うぐらいには日が経った。あんな表情を見たのは、今のところ最初で最後なんだけども。
毒のサンプルはだいぶ集まった。当初の契約である半年で充分賄えそうだ。でも、ここのポケモンたちと会えなくなるのはちょっと惜しいかも。毒をもらっているペンドラーやアーボックたちもさることながら、サビ組の人たちが持つポケモンともだいぶ仲良くなったし。
私の来なくなった後は誰かが継ぐんだろうし、カラスバさんはその準備もしているんだろうけれど――それにちょっと寂しい気持ちになるのは、経過した年月がそう思わせるのかもしれないな。
「おい、チクマ。なにぼーっと、突っ立ってねん」
「うぇっ!? カラスバさん!?」
先程お別れしたばかりの彼がいつの間にか後ろに立っていた。
私があまりに驚いたせいか、呆れた表情を向けられる。重いため息と共に「忘れモンや」と差し出されたのは確かに私の愛用しているペンで。
「わ、すみません! ありがとうございます!」
いつの間に落としたんだろう? 今日も何回か使ったから、ポケットに入れそびれてしまったのかもしれない。受け取り、今度こそしまおうとして――あれ?
「……どないしたん? チクマのと違うたか? いつも使ってるやろ、それ」
「いえ、なんでもないです。本当すみません、わざわざ」
ちょっぴり、そうほんの少しだけ違和感を覚えた。……でも多分気のせいだ。
別にこのペンは特別なものじゃない。文具店に売っている1本120円の量産型のペン。どこでも買えるようなやつ。それに覚える違和感なんて些細なものだ。今度は落とさないように胸ポケットに刺したのを確認し、改めてカラスバさんにお礼を言う。
「また来週、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。気ぃつけて帰りや」
頭を下げ、鞄を抱え直し、ポケモン研究所へ帰る。
いつものようにブルー大通りをちょうど下っていると、突然スマホロトムが飛び出してきた。着信を知らせるため震える画面には「モミジ所長代理」の文字が映っている。
急にどうしたんだろう。わざわざ電話をしてくるなんて。
「もしもし、チクマです。どうしたんですか?」
「急にごめんねー。今、サビ組からの帰りだったりする?」
「はい、そうですけど」
「お、それはちょうどよかった。そのままホテルシュールリッシュに向かってくれない?」
「え? またどうして?」
「実はあの子に耳寄りな情報聞いてさ。ほら、モミジリサーチを手伝ってくれているトレーナー!」
話を聞くと、ホテルシュールリッシュに泊まっているユカリという女性の付き人が、ドラミドロをてもちにしているらしい。せっかくだからドラミドロからも毒をもらったらどうか? とのこと。
なるほど、確かにありかも。ドラミドロの毒はサンプルに無い。ホテルシュールリッシュに泊まっているぐらいだから、研究への理解もしてくれそう。
「あの子経由でもう話は通しているからさ。行っておいで」
「わかりました。伺います!」
ちょうど見つけたタクシーに乗り込む。さすがにここからホテルまでは徒歩で行くには時間がかかる。すでに話を通してくれているらしいし、待たせてもいられない。
「っと、ちゃんとあるよね」
ホテルシュールリッシュへ向かう車内で胸ポケットを確認する。よし、ちゃんとペンも入っている。このあとも使うのだから、また落としていたなんてことあってはいけない。
本当、カラスバさんに拾ってもらってよかった!
*
……なんだか、すごく、空気が重いような。
まるで採取を始めたころに戻ったみたい。私を見張るような視線を向けるカラスバさんも、ピリピリと警戒を向けるペンドラーたちも。先週までの和やかさはどこにいったのだろう。
機嫌が悪いとか? そういうのを表に出す人では無いと思っていたけれど。どちらにせよ、今日はとっとと終わらせて帰った方がよさそうだ。
もらった毒を慎重に試験管へ入れる。蓋をして、専用の箱にしまえば毒の採取は終了。あとはサビ組のポケモンたちを看る仕事が残っているわけだけど……。
「終わったな?」
「は、はい。あとはポケモンたちを――」
「その前に、ちょっとお話しよか」
ノーとは言えない雰囲気だ。私の傍らにはペンドラー、背後にはアーボックが迫っている。首を横に振った瞬間、牙でかぶりとやられてしまいそうだ。思わず自分のモンスターボールを確かめる。最悪の場合を想定しながら。
「そない怯えんでええやん。ほんま傷つくわぁ」
「あ、はは……」
「チクマも望んでるようやし、とっとと終わらせよか」
革靴の音が大袈裟に響く。背後にアーボックがいるから、近づく彼から逃げること難しい。
私は彼が距離を詰めるのを、ただ黙って見守ることしかできない。
「なあ、チクマ。浮気はあかんやろ?」
「うわ、き?」
「誤魔化しはすんなよ。オマエがユカリんとこに行ったことも、気に入られて勧誘受けたことも、ちゃあんと
聞いてんねん。こっちは」
「き、……え?」
「おっと。これはオフレコやったな。あかん、あかん。つい口が滑ってもうたわ」
気にせんとってな。
それ以上の追求は彼の笑みによって止めらてしまう。訊きたい言葉をごくんと飲み込むしかできない。
あの日、ホテルシュールリッシュでハルジオさんのドラミドロから毒を採取させてもらった。その時にユカリさんに諸々の事情を説明すると「なんて素晴らしい志なのかしら!」と、いたく感激されたのも確か。でも勧誘なんてされたっけ……? 帰り際「ポケモン研究のお話、もっとずぅっと聞かせていただける?」と引き止められたことを指しているのだろうか。
「オレも用意したろかな」
男性特有の節ばった指先が私にふれる。喉元をつぅっと撫でた。
ギラギラと光る瞳が私を捉えて離さない。静かに、細くなるそれがさらに近づく。
アーボックの呼吸音が鼓膜を震わす。視界の端でちろちろと舌が見えた。
「チクマに似合いの首輪。一等ええのつけたるわ」
「――っ」
「なーんて冗談、冗談!」
ぱっと指が離れる。瞬間、背後のアーボックも遠ざかる気配がした。
いつの間にか呼吸を止めていたようで、途端に送り込まれる酸素に脳がクラリと揺れた。心臓が必死に血液を身体に送っている。それでもなお、悪寒は消えない。
「でもユカリんとこはお勧めしないのはほんまやで? だったら
サビ組のがええよ」
「わ、私はポケモン研究所所属ですので」
「ああ、せやったな。ほんま最近はフラれっぱなしや。かなわんわぁ。――さ、行こか。みんなチクマの診察、待っとるさかい」
そう言って私を手招くカラスバさん。でも足は動かない。
どちらにしろこの部屋を出るには、彼の背後にあるエレベーターに乗らないといけないのに。立ち尽くすことしか選べない。
「チクマ、早く」
エレベーターの明かりを背負う逆光の中、カラスバさんの瞳だけが爛々と光っている。
――モミジ所長代理、私にはちょっと荷が重かったみたいです。
あちゃー、捕まっちゃったね、チクマ。なんて彼女の困ったような声が耳の奥で聞こえたような気がした。