01

ああ、頭を抱えたい。

仕事終わりくたくたになった足を動かして帰れば我がもの顔でソファーに座って本を読む男の姿が目に入る。
彼の名は"クロロ=ルシルフル"というらしい。今となっては見慣れてしまった姿だが、1週間前今と同じような状況で現れた時は驚きのあまり倒れそうになった。

『あのー、どちら様ですか』
『...うるさい。今本を読んでいる。』
『...は』

こちらが玄関をあけて部屋に入ったのは気づいていただろに、逃げようともしないその態度にそう声をかければ黒い目がこちらを向いてただ一言。それを告げればまた本に視線が戻る。それから奇妙な沈黙空間が訪れたのを今でも覚えている。

トレンチコートをハンガーラックにかけてキッチへと向かう。お気に入りの白のほうろうポットに水を入れて火にかける。
そういえば、あのあとどうしたんだっけ?たしか、本を閉じたあと「見たことがない文字だ」ただそう一言呟いていた気がする。
私は勿論そんな問にいちいち構っていられる余裕などなくて、一方的に質問をぶけてしまったのだったか。

『結局誰なんですか』
『オレか?...クロロ=ルシルフル』

最初名前を聞いた時、聞き取れたのはクロロという部分だけ。名字の方はややこしく聞き取りずらかった。そんな私に気づいたかのか名字の部分だけ復唱したのだ。
名前だけ聞いてしまえば海外の人のように思える、文字が分からないのもあながち嘘ではないのかもしれない。
と、そう考えて思考が止まる。今会話を酌み交わせているではないか。なのにこの文字が読めないとはいったい何事なのか。

『それよりここは何処だ』
『は、はぁ...私の家ですけれど』

私のソファーから立ち上がった彼はこちらへ真っ直ぐと歩いてきて私の背後にある玄関の扉をあけて外を覗いた。それからさっきの問をもう一度口にしたのだった。「私の家」だと答えれば「ここはヨークシンではないのか」「国名は?」「この文字は?」などの質問がぽんぽんと飛び出してきた。たぶん、この時彼はここの世界の住人ではないのかもしれないと頭おかしな考えが生まれたのだ。

笛をめいっぱい吹き鳴らしたかのような音で回想から戻される。お湯が沸騰したのだ。
火をとめてマグにインスタントのコーヒーを入れてお湯を注ぐ。カチャカチャとスプーンでかき混ぜマグにスプーンを入れたまま床にぺたんと腰を下ろした。

「オレのコーヒーは...」
「コーヒーが飲みたいのなら自分でどうぞ」

ふーふーと熱を冷ましながら飲もうとしたコーヒーが手から消えた。驚いてマグの消えた方を見れば彼が優雅に口へと運んでいるではないか。文句を言おうとして口を噤む。ここで文句を言ってどうにかなる相手ならとっくにこの家から追い出していた。彼がこの世界の住人ではないとしても私には関係のないことだし、首根っこ引っ張って外へ放り投げてしまうことだってできたのだ。だが、それはできなかった。

あの時だって「出ていけ」と言えば彼の視線がぞくりとしたものに変わっていた。何も言葉を話していないというのに感じる威圧感、気を抜けばぺたりと地面に崩れてしまいそうな恐怖が自分を包み込んでいたのだ。その恐怖から逃れられないと知ってか「ここに住ませろ」と告げた。ここでそれを拒否できなかった私は今みたいな奇妙な同居生活が始まってしまったのだ。


「クロロさん元に戻る術は見つかったんですか」
「...」
「はぁ...」


何度目かと分からないため息を吐き出した。本の虫と化している彼を横目に奪われてしまったコーヒーを入れるためにもう1度立ち上がった。重たいダンボールを運んでいた腰と膝が悲鳴をあげている。
いったい、いつになったらこいつは帰るんだなんて不毛な考えをしながら再びポットの水を温めた。