電車の君
いつも乗っている電車に気になる人がいる。
彼はいつも後ろから二両目の真ん中のドアの近くにいて、いつも何かしらの本を読んでいる。シンプルな黒のブックカバーのせいでどんな本を読んでいるのか分からないけれど、ページをめくる仕草がとても綺麗でつい見とれてしまう。
いつもマスクをしていて素顔は見たことないが、ツーブロックでオールバックなんておしゃれな髪型をしているし、いつも素敵な恰好をしているので、大人の男性というのはこういうものかと感心してしまう。
おっと。あまり見ていると失礼だから見ないようにしなければ。
私も鞄から読み途中の本を取り出し、猫の栞が挟まっているところから文字を追う。たったこれだけの行為なのに、まるで違う世界に行けるようなその瞬間がたまらなく好きだった。
小さく微笑み、その世界にゆっくりと浸るのだった。
「次は〜〜駅、お降りの方は……」
気が付けば、降りる駅のアナウンスが社内に流れていた。この本もあと少しで読み終えてしまう。あぁ、残念だと思いながら鞄に本をしまうと、例の彼も同じように本をしまっているところだった。
パチリ——。
じろじろと見すぎてしまっていたのかもしれない。彼と思わず目が合ってしまった。そのまま反らすのもなんだか失礼な気がして、軽く会釈をする。すると向こうも目元を下げ、同じように会釈をしてくれた。
****
そんな挨拶から始まった私達は、話したことはないが気付いた時にはペコリとお辞儀をする仲になっていた。
そうこうしているうちに四月があっという間に過ぎ、大型連休になっていた。中には平日三日間を有給を使い、超大型連休にする人もいるらしい。残念ながら私の会社はそんなことが罷り通るところではないので、普通に平日は出勤している。
そんな休みが取れるなんて羨ましい限りだ。心なしか若干電車にいる人達も少ない気がする。
そういえば彼の姿も見当たらない。きっと休みなのだろう。羨ましいと言う気持ちと、会えなくて残念だと思う気持ちとが混ざり合い、何とも言えない気持ちになった。
****
何とか仕事を終え、今日からの休みを勝ち取った。
せっかくだから休みの時間を有意義に使いたい。普段の休日は寝ることに全振りしているが、今回は連休。流石に寝てばかりでは楽しくない。
せっかくだから気になっていたカフェでお茶するのもいい。そうと決まれば準備しなければ。パジャマから着替え、軽く化粧をして髪をセットして家を出る。
そう言えば気になっていた新刊が出てるんだったと思い出し、時計をチェックする。今から本屋に行ってもまだ混むような時間ではない。私はクルリと向きを変え、まずは本屋へと行くことにした。
新刊コーナーに向かうとお目当ての本が平積みされていて、ウキウキとしながら手に取る。他にも何か面白いものはないか、と辺りを何気なく見ているとちょうど読み終わったシリーズものの続きもあることに気付いた。ソッと手を伸ばすと、横からも同じように伸びてきた手があった。
「あ、すみません。」
「いえ、こちらこそすみません。」
慌ててペコリとお辞儀をすると、頭上から低く甘い声が聞こえてきた。顔を上げるとブラックのジャケットをラフに着こなしている頬に縫合痕のある男の人がそこにいた。
どこかで見たことあるような人だな、と思っていたら彼がニコリと微笑んだ。
「やっぱり……。」
「え?」
「電車でよく会う方、ですよね?」
そう彼は言いながらさらりと下ろしている髪を後ろにかき上げた。その姿にようやく電車の彼だと気付いた。
「あ!」
「よかった。間違えてしまったのかと。」
「すみません。いつもと感じが違うので気付かなかったです。」
再びすみませんと謝ると、彼は再び微笑み、尾形ですと名乗った。そして髪を下ろすと幼く見えるので仕事の時はセットしてるのだと言った。
「そうだったんですね。」
「あと、この傷。驚かれることがあるので通勤時はマスクしてるんですよ。」
びっくりしたでしょうと聞かれたが、首を傾げながら尋ねる尾形さんの姿が大人の男の人には失礼な物言いかもしれないが可愛らしくて、全然と答えた。そう答えた私に、尾形さんは困ったような顔をした後、取ろうとした本を本棚から取り出して私に手渡した。
「これ、」
「先に見つけたのは貴女の方なので…。」
「でも」
「では飲み終わったらその本貸していただいても良いですか?」
それでいいのかと尋ねると尾形さんはそれでいいと言ってくれたので、有り難く本を受け取ることにした。
電車で見た尾形さんは近寄りがたい雰囲気だったが、こうして話すと意外にも気さくで話しやすい。
しばらくその場で世間話をしていると後ろから坊主頭の男性がやってきて、尾形さんに声をかけてきた。
「百之助、まだ?」
「あ、お友達待たせていらしたんですね。」
ついつい話し込んでしまったが、お友達を待たせる訳にはいかない。本のお礼をもう一度した後、尾形さんとは別れ、レジへと向かった。
まさか電車で気になっていた人と知り合えるなんて思っていなかったから嬉しくなった私は、足取り軽くカフェへと向かった。
****
「アレが話してた子?」
「見るな。お前が見ると穢れる。」
いつも乗っている電車に気になっている人がいる。
最初はただいつも同じ電車だなと思っただけだった。いつも本を読んでいて、たまに本を読みながら微笑んだり、泣きそうになっていたりと、感情豊かなのだなと純粋に感心した。
次第に何の本を読んでいるのか気になり、読んでいる彼女のことも気になった。知っているのは本が好きなこと。いつもこの時間の電車に乗っていること。後ろから二両目の真ん中のドア近くが定位置であること。降りる駅は俺の降りる一つ前の駅。それだった。
気になっているという感情が愛おしいという感情に変わっていったのはいつのことだったか。どんどん彼女のことを知りたくなった。どの駅から乗っているのかは知っていた。けれど家まで調べるストーカーではないので、その駅を降りることは無かった。
ゆっくり知り合っていけばいい。そう思っていた。
そうやって過ごしていた四月。気がつけば大型連休。会社の方針で途中の平日は公休で本当に大きな連休となった。普段なら嬉しいその休みも、彼女に会えないと思うと辛くなってきた。
そんな時、宇佐美から飯の誘いを受けた。しかも送られてきた店のある場所が彼女が乗ってくる駅だったのだ。
行くと返事をし、すぐに家を出た。
「出不精なお前が珍しく了承の返事すると思ったらそう言うわけかー。」
指定された場所に着くなり、すぐに宇佐美に問いただされ、言うつもりがなかった彼女のことをつい話してしまった。
会えるとは思っていないとぶっきらぼうに話すも、ムカつく顔でそんなこと思ってないくせに、と揶揄ってくる。
やっぱり話すんじゃなかった。
ふと視線の先に彼女らしき姿を見かけた。その姿を目で追うと本屋に吸い込まれるように入っていったから間違いなく彼女だと確信した。
いまだに揶揄ってくる宇佐美を無視し、その本屋へと足を向けた。
あとは知っての通りだ。
うまいことタイミングを合わせ、彼女が取ろうとした本を取り、偶然を装って声をかけた。あいにく今日は休みだったからいつものようにマスクもしていないし、髪もセットしていない。そのせいで中々気付いてはくれなかったが、髪を上げると彼女は俺だと認識してくれたようで、にこやかに話を振ってくれた。
悪くない印象だった。
おかげで本を譲る代わりに彼女とのつながりを一つ手に入れることができた。上々な結果だ。
「アレが話してた子?」
「見るな。お前が見ると穢れる。」
こいつに見られてしまったのは残念でならないが、それよりも今は彼女と少しでも話せた喜びの方が大きかった。
今はこれで良い。ゆっくり関係を築いていけば良い。いずれ俺なしでは生きていけなくなっていけば良い。
ああ、これからが楽しみだ。
彼はいつも後ろから二両目の真ん中のドアの近くにいて、いつも何かしらの本を読んでいる。シンプルな黒のブックカバーのせいでどんな本を読んでいるのか分からないけれど、ページをめくる仕草がとても綺麗でつい見とれてしまう。
いつもマスクをしていて素顔は見たことないが、ツーブロックでオールバックなんておしゃれな髪型をしているし、いつも素敵な恰好をしているので、大人の男性というのはこういうものかと感心してしまう。
おっと。あまり見ていると失礼だから見ないようにしなければ。
私も鞄から読み途中の本を取り出し、猫の栞が挟まっているところから文字を追う。たったこれだけの行為なのに、まるで違う世界に行けるようなその瞬間がたまらなく好きだった。
小さく微笑み、その世界にゆっくりと浸るのだった。
「次は〜〜駅、お降りの方は……」
気が付けば、降りる駅のアナウンスが社内に流れていた。この本もあと少しで読み終えてしまう。あぁ、残念だと思いながら鞄に本をしまうと、例の彼も同じように本をしまっているところだった。
パチリ——。
じろじろと見すぎてしまっていたのかもしれない。彼と思わず目が合ってしまった。そのまま反らすのもなんだか失礼な気がして、軽く会釈をする。すると向こうも目元を下げ、同じように会釈をしてくれた。
****
そんな挨拶から始まった私達は、話したことはないが気付いた時にはペコリとお辞儀をする仲になっていた。
そうこうしているうちに四月があっという間に過ぎ、大型連休になっていた。中には平日三日間を有給を使い、超大型連休にする人もいるらしい。残念ながら私の会社はそんなことが罷り通るところではないので、普通に平日は出勤している。
そんな休みが取れるなんて羨ましい限りだ。心なしか若干電車にいる人達も少ない気がする。
そういえば彼の姿も見当たらない。きっと休みなのだろう。羨ましいと言う気持ちと、会えなくて残念だと思う気持ちとが混ざり合い、何とも言えない気持ちになった。
****
何とか仕事を終え、今日からの休みを勝ち取った。
せっかくだから休みの時間を有意義に使いたい。普段の休日は寝ることに全振りしているが、今回は連休。流石に寝てばかりでは楽しくない。
せっかくだから気になっていたカフェでお茶するのもいい。そうと決まれば準備しなければ。パジャマから着替え、軽く化粧をして髪をセットして家を出る。
そう言えば気になっていた新刊が出てるんだったと思い出し、時計をチェックする。今から本屋に行ってもまだ混むような時間ではない。私はクルリと向きを変え、まずは本屋へと行くことにした。
新刊コーナーに向かうとお目当ての本が平積みされていて、ウキウキとしながら手に取る。他にも何か面白いものはないか、と辺りを何気なく見ているとちょうど読み終わったシリーズものの続きもあることに気付いた。ソッと手を伸ばすと、横からも同じように伸びてきた手があった。
「あ、すみません。」
「いえ、こちらこそすみません。」
慌ててペコリとお辞儀をすると、頭上から低く甘い声が聞こえてきた。顔を上げるとブラックのジャケットをラフに着こなしている頬に縫合痕のある男の人がそこにいた。
どこかで見たことあるような人だな、と思っていたら彼がニコリと微笑んだ。
「やっぱり……。」
「え?」
「電車でよく会う方、ですよね?」
そう彼は言いながらさらりと下ろしている髪を後ろにかき上げた。その姿にようやく電車の彼だと気付いた。
「あ!」
「よかった。間違えてしまったのかと。」
「すみません。いつもと感じが違うので気付かなかったです。」
再びすみませんと謝ると、彼は再び微笑み、尾形ですと名乗った。そして髪を下ろすと幼く見えるので仕事の時はセットしてるのだと言った。
「そうだったんですね。」
「あと、この傷。驚かれることがあるので通勤時はマスクしてるんですよ。」
びっくりしたでしょうと聞かれたが、首を傾げながら尋ねる尾形さんの姿が大人の男の人には失礼な物言いかもしれないが可愛らしくて、全然と答えた。そう答えた私に、尾形さんは困ったような顔をした後、取ろうとした本を本棚から取り出して私に手渡した。
「これ、」
「先に見つけたのは貴女の方なので…。」
「でも」
「では飲み終わったらその本貸していただいても良いですか?」
それでいいのかと尋ねると尾形さんはそれでいいと言ってくれたので、有り難く本を受け取ることにした。
電車で見た尾形さんは近寄りがたい雰囲気だったが、こうして話すと意外にも気さくで話しやすい。
しばらくその場で世間話をしていると後ろから坊主頭の男性がやってきて、尾形さんに声をかけてきた。
「百之助、まだ?」
「あ、お友達待たせていらしたんですね。」
ついつい話し込んでしまったが、お友達を待たせる訳にはいかない。本のお礼をもう一度した後、尾形さんとは別れ、レジへと向かった。
まさか電車で気になっていた人と知り合えるなんて思っていなかったから嬉しくなった私は、足取り軽くカフェへと向かった。
****
「アレが話してた子?」
「見るな。お前が見ると穢れる。」
いつも乗っている電車に気になっている人がいる。
最初はただいつも同じ電車だなと思っただけだった。いつも本を読んでいて、たまに本を読みながら微笑んだり、泣きそうになっていたりと、感情豊かなのだなと純粋に感心した。
次第に何の本を読んでいるのか気になり、読んでいる彼女のことも気になった。知っているのは本が好きなこと。いつもこの時間の電車に乗っていること。後ろから二両目の真ん中のドア近くが定位置であること。降りる駅は俺の降りる一つ前の駅。それだった。
気になっているという感情が愛おしいという感情に変わっていったのはいつのことだったか。どんどん彼女のことを知りたくなった。どの駅から乗っているのかは知っていた。けれど家まで調べるストーカーではないので、その駅を降りることは無かった。
ゆっくり知り合っていけばいい。そう思っていた。
そうやって過ごしていた四月。気がつけば大型連休。会社の方針で途中の平日は公休で本当に大きな連休となった。普段なら嬉しいその休みも、彼女に会えないと思うと辛くなってきた。
そんな時、宇佐美から飯の誘いを受けた。しかも送られてきた店のある場所が彼女が乗ってくる駅だったのだ。
行くと返事をし、すぐに家を出た。
「出不精なお前が珍しく了承の返事すると思ったらそう言うわけかー。」
指定された場所に着くなり、すぐに宇佐美に問いただされ、言うつもりがなかった彼女のことをつい話してしまった。
会えるとは思っていないとぶっきらぼうに話すも、ムカつく顔でそんなこと思ってないくせに、と揶揄ってくる。
やっぱり話すんじゃなかった。
ふと視線の先に彼女らしき姿を見かけた。その姿を目で追うと本屋に吸い込まれるように入っていったから間違いなく彼女だと確信した。
いまだに揶揄ってくる宇佐美を無視し、その本屋へと足を向けた。
あとは知っての通りだ。
うまいことタイミングを合わせ、彼女が取ろうとした本を取り、偶然を装って声をかけた。あいにく今日は休みだったからいつものようにマスクもしていないし、髪もセットしていない。そのせいで中々気付いてはくれなかったが、髪を上げると彼女は俺だと認識してくれたようで、にこやかに話を振ってくれた。
悪くない印象だった。
おかげで本を譲る代わりに彼女とのつながりを一つ手に入れることができた。上々な結果だ。
「アレが話してた子?」
「見るな。お前が見ると穢れる。」
こいつに見られてしまったのは残念でならないが、それよりも今は彼女と少しでも話せた喜びの方が大きかった。
今はこれで良い。ゆっくり関係を築いていけば良い。いずれ俺なしでは生きていけなくなっていけば良い。
ああ、これからが楽しみだ。