疲れた君へ

 同じフロアで働いている尾形が疲れた表情でデスクに向かっているのを見て、思わずため息をついてしまった。
 朝からほとんどパソコンの前から動かず、昼食ですらゼリー飲料だけで済ませている。デスクに積み上げられているファイルを見る限り、今日中には終わらないだろう。夜遅くまで残って仕事をするに違いない。
 その予感は的中し、定時になっても尾形は帰る気配を見せない。カタカタとキーボードを打つ音がやたらと響く。

(尾形ってば、また徹夜するつもりなの?)

 前にも忙しかった時期、何回か会社に泊まり込んで仕事をしていたのを思い出した。
 あの時もそうだったが、尾形は忙しくなると視野が狭くなるというか、自分のことは後回しにしがちだ。食事も疎かにしていくので心配していたが、その心配は的中したようだ。

 明らかにここ数日でまた少しやつれている気がする。

 強引にでも食事をさせようかと悩んだが、同じ職場である以上、同僚たちの目もある。普通にご飯に誘えばいい話だが、私の性格上、うまく立ち回ることが果たしてできるだろうか。
 付き合っていることを公にしているわけではないから、なんとなく気が引けて何も行動に移せていなかった。

(どうしたものか……。)

 うーんと考えて、スマホを取り出そうと鞄を漁るが誤ってキーケースが飛び出す。カツンと軽い音を立ててそれは床に落ち、そして二つの鍵が横たわるようにして倒れた。

 二つの鍵……?
 あ、そうだった。

 そこでようやく尾形から合鍵をもらっていたのだと思い出す。

(今こそ、これを使う時!怯む時ではないぞ!!)

 善は急げ、とその日は仕事をガツガツ片付け、定時で上がった。
 そうしてスーパーに立ち寄り、例の合鍵を使い、尾形の家へとやってきたのだった。

 念の為、ラインで家に行くと伝えたが、一向に既読になることはない。
 今日も残業なのだろうかと思ったが、今日に限ってそれはない。明日からビルのメンテナンスが入るらしく今日から明日にかけて残業禁止令が出されているからだ。
 それでもギリギリまで仕事をやってくるだろう尾形のために、せめて温かい料理でも作って待っていてやろう。そんなことを思いながら合鍵を使って尾形の部屋に入った私は、息を飲んだ。

 綺麗に整った部屋。
 それ自体はなんの問題もない。しかしそこには、何かが足りないと感じる無機質さが漂っていた。
 まるで「生きている人が住んでいる」とは思えないような空間。掃除は行き届いているものの、日常を感じさせるものが少なすぎる。

「どんな生活してるのよ……」

 思わず口から言葉が出てしまった。そよ自分の言葉にハッとし、慌てて冷蔵庫を開ける。
 案の定そこには昼間によく飲んでいるゼリー飲料と栄養ドリンクとアルコールしか入っていなかった。
 これは可及的速やかにご飯を食べさせなければならない。そう思った私は台所に向かい、買ってきた食材を並べ始めた。


 彼の好きなメニューを思い浮かべながら、包丁を握る。外はだいぶ冬に近づいて来た。ほっとするものの方がいいだろうと、まずは具沢山の豚汁を用意した。
 野菜の下拵えをして、鍋で豚肉を炒める。ジュージューといい音がし始めたら下拵えした野菜を入れてさらに炒める。大根が透き通って来たら水を加えるタイミングだ。そこにダシを加え煮込んでいく。アクが出てくるから丁寧に取り除き、味噌をといたら完成だ。
 ご飯は炊飯器に任せるとして、副菜は茹でだインゲンを適当な大きさにしてツナマヨで和えたもの。醤油と胡麻が入ってるから、和風なツナマヨになっているから豚汁とも合うだろう。
 主菜はこの時期キノコが美味しいから鮭と一緒にホイルに入れて包む。これは食べる直前にトースターで焼けばいいだろう。
 ついでにお風呂にお湯を張った方がいいだろうかと思い立ち、バスルームとキッチン、そしてリビングを行ったり来たりしながらも、なんとか支度を整え終えた頃、ようやく玄関から音がした。

 ガチャリと鍵を開ける音がして、家主の帰りを知らせる。

「おかえりなさい!」

 急いで玄関へ向かったら、予想通りラインを見ていなかったのか、驚きの表情で入り口で固まってしまっていた尾形がいた。

「夢子?……なんでいるんだ?」

 一瞬、訳がわからないという顔をしているが、次第に状況を理解したのか、尾形はほっとしたような表情を浮かべ、その場にへたり込んだ。

「情けねえな……」

 そんな自嘲気味に呟く尾形に、私は優しく微笑んだ。

「ほらほら、そんなところで座り込んでないでお風呂入ってきて。ご飯、あとちょっとで出来るから。」

 尾形は少し戸惑ったように私を見つめたが、疲れた身体を引きずるようにして浴室へ向かった。その背中に思わず抱きしめたくなってしまったが、今はまだ我慢だ。とりあえず尾形に元気になってもらわなければ。

 私もくるりと体の向きを変え、再び台所へと戻っていく。お鍋を温め、最後の仕上げに取り掛かる。
 美味しくなれと願いを込めながら。




 いつお風呂から上がったのか。尾形が静かに後ろから抱きしめてきた。
 きちんと拭けていないのか、濡れた髪が首筋に触れる。
 その感覚に、くすぐったさと温もりを感じる。身を捩って逃げようとした次の瞬間、そっと首筋に唇が触れた。

「んっ」
「色々作ってくれたんだな。すまん……。」

 尾形の囁く声が、夢主の心にじんわりと沁みわたる。

「そこはありがとうでしょ。ね、たまには、甘えてもいいんだから。」

 私が腰に回された腕を握りながらそう答えると、ピクリと動いたのが分かった。

 全く顔は見えないが、おそらくひどく驚いた顔をしているんだろうな、と想像してふふっと小さく笑う。
 後ろ手で頭を軽く叩くように撫でると一層強く抱きしめられた。

「じゃあ飯食ったら存分に甘やかしてくれよ……。」

 甘く低い声が耳をくすぐる。もちろんと体の向きを変えて思い切り抱きついた。





 翌朝、会社に現れた尾形の肌は、相変わらず白いが、少しだけ健康的なツヤが戻っていた。
 それとは反対にやたらと疲れた私の顔を見て、少し困ったように尾形は微笑んだ。

「昨日はありがとうな。」

 一言、短い言葉だったけれど、その一言に彼の感謝と、そして信頼が込められている気がした。
 私は何も言わずに小さく微笑み返した。
 その朝は、二人だけにしか分からない、ひそやかな幸せがあった。

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