ヒールと下手な誘い文句
慣れないヒールの靴に足を入れたのは、今日が初めてだった。
普段滅多に表に出ない私が、何故か取引先とのフォーマルな会食に出席しなければならず、いつもより畏まった格好、つまりスーツにヒールを合わせ、出勤した。
普段はペタンコ靴ばかりの私にとって、ヒールは気が重い靴だった。
立っているだけでも脚に力が入るし、歩けば足首が不安定で、少しでもバランスを崩せば転んでしまいそうになる。そんな靴を誰が好んで履きたいのか。少なくとも私はそうじゃない。
そんな些細な信念をもって、普段ヒールの高い靴は履いていない。表に出ることはない部署にいるおかげで、今まで誰かにそれを突っ込まれたことはなかった。
なのに何故か別部署の鶴見部長から指示が出たのだ。
「夢野くんは何もしなくて良いよ。ただ、話を聞いているだけでいい。」
そうは言われたが、普段の格好で行けるわけもなく、慌てて店へと向かい、靴をお店の人に色々と聞いて、おすすめのものを教えてもらったのは昨日のこと。
最終的に少しでも楽なものを!と自分で選んだ靴ではあるけれど、履き慣れない分、少しずつ疲れが積み重なっていくのを感じていた。
会食では、慣れないヒールといつもより余計に笑顔を作る必要がある緊張感から、終わるころには私の足はもう限界に近かった。
しかし周りに知り合いなどいるわけもなく、初対面の人に弱音を吐くのも気が引けて、指先とかかとの痛みを我慢しながら、早く終われと願うことしかできなかった。
「いや、夢野くんがいてくれて助かったよ。」
「私は、何もしておりません。」
「そんなことはない。デザインについて言及された時に意見を述べてくれただろう?」
「はぁ、まあ。」
私の関わっている業務の話が出たので、ついつい横から口を出してしまった。あれは社会人としていけないことだったと思っていたが、どうやらそのことで商談が一つうまく行ったらしい。
鶴見部長はフッと柔らかく笑い、今日はありがとうと私にお礼を言って颯爽と去っていった。
(あれが大人の余裕……。かっこいいな。)
私もいつかあんな大人になれるだろうか、と思案しながら、なるべく足に負担をかけないようにゆっくりと会場を後にしようとした。
そのとき、彼女の隣に音もなく現れたのは尾形だった。
「尾形もいたの?」
「ああ。」
同期の尾形は、何を考えているか分からないで定評だった。いつもクールで表情を崩さない。そんな彼が、じっと私を見下ろしていた。
「まるで子鹿みたいだな」
低い声でそう言う彼に、思わず言い返したくなった。けれど、確かにそれ事実で、しかも反論する元気も残っておらず、少しの気恥ずかしさを押し殺して「うるさい」とだけ答えた。
「あとは帰るだけだし。」
そう帰るだけだなのだ。あと少し歩けばいい。そう思って尾形に背を向けた瞬間だった。
「ほら」
尾形が差し出した腕に、一瞬、何をされているのか分からず、呆気に取られた。腕を見ていた視線を上げると、尾形は変わらない無表情で、少し面倒そうに腕をこちらに向けている。
その態度に思わず断ろうとしたが、その言葉を発する前に尾形がため息をつき、私の手を取り、無理やり自分の腕に絡ませた。
「今さら強がるな。歩けないなら、さっさと頼ればいいだろ」
強引な態度と、ふっと視線をそらすような尾形の仕草に少し戸惑ったが、足の痛みには勝てず、結局彼の言葉に従うことにした。
尾形の腕を借りると、思いのほか安心感があって、今まで感じていた足の痛みが少しだけ軽くなった気がする。
どうやら尾形はわたしの歩幅に合わせてくれているらしい。普段よりもゆっくりとしたペースで歩いてくれている。
いつもは社内で会ってもそっけない彼が、今はこうして支えてくれている。その事実に少し胸が温かくなる。
「……尾形、ありがとう。」
小さな声で礼を言うと、尾形は「別に」と一言だけ返したが、ほんの少しだけ表情が柔らかくなっていた。
その後私たち二人の間に特に言葉はなく、しばらくただ並んで歩き続ける。
やがてエントランスが近付いてきて、タクシー乗り場に差し掛かった時だった。無意識に尾形の腕を少しだけぎゅっと握り直してしまった。
尾形は一瞬こちらを見たが、何も言わず前を向いたままタクシーに乗るよう促してきた。
「おら、横にずれろ。」
「え?あ、尾形も同じ方向?」
まさか同じタクシーに乗るとは思わなかったので、心底驚いたが、タクシーの運転手さんに告げた行き先が尾形の家の住所一ヶ所で、さらに驚いた。
「明日、車で家まで送ってってやる。」
だから今夜は家に来い、なんて分かりづらい誘い文句に、素直じゃないなと思いながらも乗ってあげた。
「しょうがないな。緊張してたから全然酔えなかったし、二次会と行きますか。」
クスリと笑って隣の尾形の顔を覗くようにして見ると、そっと手を重ねられ強く握られた。
普段滅多に表に出ない私が、何故か取引先とのフォーマルな会食に出席しなければならず、いつもより畏まった格好、つまりスーツにヒールを合わせ、出勤した。
普段はペタンコ靴ばかりの私にとって、ヒールは気が重い靴だった。
立っているだけでも脚に力が入るし、歩けば足首が不安定で、少しでもバランスを崩せば転んでしまいそうになる。そんな靴を誰が好んで履きたいのか。少なくとも私はそうじゃない。
そんな些細な信念をもって、普段ヒールの高い靴は履いていない。表に出ることはない部署にいるおかげで、今まで誰かにそれを突っ込まれたことはなかった。
なのに何故か別部署の鶴見部長から指示が出たのだ。
「夢野くんは何もしなくて良いよ。ただ、話を聞いているだけでいい。」
そうは言われたが、普段の格好で行けるわけもなく、慌てて店へと向かい、靴をお店の人に色々と聞いて、おすすめのものを教えてもらったのは昨日のこと。
最終的に少しでも楽なものを!と自分で選んだ靴ではあるけれど、履き慣れない分、少しずつ疲れが積み重なっていくのを感じていた。
会食では、慣れないヒールといつもより余計に笑顔を作る必要がある緊張感から、終わるころには私の足はもう限界に近かった。
しかし周りに知り合いなどいるわけもなく、初対面の人に弱音を吐くのも気が引けて、指先とかかとの痛みを我慢しながら、早く終われと願うことしかできなかった。
「いや、夢野くんがいてくれて助かったよ。」
「私は、何もしておりません。」
「そんなことはない。デザインについて言及された時に意見を述べてくれただろう?」
「はぁ、まあ。」
私の関わっている業務の話が出たので、ついつい横から口を出してしまった。あれは社会人としていけないことだったと思っていたが、どうやらそのことで商談が一つうまく行ったらしい。
鶴見部長はフッと柔らかく笑い、今日はありがとうと私にお礼を言って颯爽と去っていった。
(あれが大人の余裕……。かっこいいな。)
私もいつかあんな大人になれるだろうか、と思案しながら、なるべく足に負担をかけないようにゆっくりと会場を後にしようとした。
そのとき、彼女の隣に音もなく現れたのは尾形だった。
「尾形もいたの?」
「ああ。」
同期の尾形は、何を考えているか分からないで定評だった。いつもクールで表情を崩さない。そんな彼が、じっと私を見下ろしていた。
「まるで子鹿みたいだな」
低い声でそう言う彼に、思わず言い返したくなった。けれど、確かにそれ事実で、しかも反論する元気も残っておらず、少しの気恥ずかしさを押し殺して「うるさい」とだけ答えた。
「あとは帰るだけだし。」
そう帰るだけだなのだ。あと少し歩けばいい。そう思って尾形に背を向けた瞬間だった。
「ほら」
尾形が差し出した腕に、一瞬、何をされているのか分からず、呆気に取られた。腕を見ていた視線を上げると、尾形は変わらない無表情で、少し面倒そうに腕をこちらに向けている。
その態度に思わず断ろうとしたが、その言葉を発する前に尾形がため息をつき、私の手を取り、無理やり自分の腕に絡ませた。
「今さら強がるな。歩けないなら、さっさと頼ればいいだろ」
強引な態度と、ふっと視線をそらすような尾形の仕草に少し戸惑ったが、足の痛みには勝てず、結局彼の言葉に従うことにした。
尾形の腕を借りると、思いのほか安心感があって、今まで感じていた足の痛みが少しだけ軽くなった気がする。
どうやら尾形はわたしの歩幅に合わせてくれているらしい。普段よりもゆっくりとしたペースで歩いてくれている。
いつもは社内で会ってもそっけない彼が、今はこうして支えてくれている。その事実に少し胸が温かくなる。
「……尾形、ありがとう。」
小さな声で礼を言うと、尾形は「別に」と一言だけ返したが、ほんの少しだけ表情が柔らかくなっていた。
その後私たち二人の間に特に言葉はなく、しばらくただ並んで歩き続ける。
やがてエントランスが近付いてきて、タクシー乗り場に差し掛かった時だった。無意識に尾形の腕を少しだけぎゅっと握り直してしまった。
尾形は一瞬こちらを見たが、何も言わず前を向いたままタクシーに乗るよう促してきた。
「おら、横にずれろ。」
「え?あ、尾形も同じ方向?」
まさか同じタクシーに乗るとは思わなかったので、心底驚いたが、タクシーの運転手さんに告げた行き先が尾形の家の住所一ヶ所で、さらに驚いた。
「明日、車で家まで送ってってやる。」
だから今夜は家に来い、なんて分かりづらい誘い文句に、素直じゃないなと思いながらも乗ってあげた。
「しょうがないな。緊張してたから全然酔えなかったし、二次会と行きますか。」
クスリと笑って隣の尾形の顔を覗くようにして見ると、そっと手を重ねられ強く握られた。