進学をした理由
あれは桜がハラハラと散っている頃だった。
あの時、心が跳ねるのを感じた。
「じゃあ授業始めるねー。」
そう言ってホワイトボードに問題を書き始めたのはこのクラスの数学を担当している講師。数学の講師で女というのは今でも中々珍しく、最初は酷く驚いたものだった。
片親の自分が進学するのは想像が出来なくて、高校二年の進路調査表を就職と書いたら、母親からこっ酷く怒られた。何をするにも自分で決めたことならと言う母が怒るなんて驚いた。てっきり顔も知らない父親がいい所の大学を出ているからかと思ったら、「百之助は頭良いんだから、大学まで出て就職した方がいい。今より視野が広くなった色んな選択肢が出来るでしょう。」と酷く真っ当な理由だったので、再び目を丸くした。
とはいえ、就職するつもりだったのに、進学するとなると、日頃の授業だけでは心許ない。そこで今からでも遅くないからと予備校に通ったらどうだと提案され、体験授業をいくつか受けることになった。
幸いにも大手の予備校が実施している模試を学校で実施していたので、その結果を提出すると自分のレベルに合った講義をいくつか案内された。
どの予備校も生徒獲得に必死なのか、体験した方が分かるだろうと、講義を受けさせられたがどれもしっくり来なかった。
これなら今まで通り、一人で勉強した方がいいのではないかと思った時だった。
そこは大手のはお世辞にも言えないが、それなりに実績も出していて、何より学校からも近いので通うには最適な所だった。
受付で名前を告げると、まずは他と同じように模試の結果を見ながら、合っている講義のレベルやら、希望受験校の確認など今までの同じように面談された。
「あとはー、数学が得意だと思うからこれは強みにした方がいいと思う。あー、ただし、模試の結果を見ると、この単元は苦手意識があるんじゃないかな?」
一つだけ違っていたのは、その面談をしたやつに思いもよらない指摘を受けたこと。確かに指摘されたところは解くのに苦戦をしていたが、結果としては正解だったため、他の所で指摘を受けることはなかった。
「……なんでそう思うんですか?」
「他の解答がスマートなのに、この部分はやたらと回りくどさを答えから感じるから。って言っても私が数学の講師だから講義を進めようとしてるだけなんだけどね。」
ふふふと笑ったその人を、今日初めて真正面からちゃんと見た。短く切り揃えられた髪を耳にかけ、綺麗な指でペンをクルクル回しながら目尻を下げて笑っていた。
おそらくそう歳は離れていないだろう。
まるで姉のような雰囲気のその人の講義が気になり、どの講義をやるのかと思わず尋ねてしまった。
「ん、興味持ってもらえたようで嬉しいよ。」
そう言い、用意してあったスケジュール表にいくつか丸をつけていった。
都合がつく日を指差し、ここを体験してみたいと言うと、すぐさま手続きをし、教材などのコピーを手渡された。そのあまりのスムーズさにしてやられた感は否めないが、それでも彼女がどんな講義をするのか気になってニヤケそうになっているのがわかる。
「じゃ、楽しみに待ってるよ〜。」
ひらひらと手を振りながら見送ってくれた彼女にペコリと軽くお辞儀をし、家路へと帰った。
「ただいま。」
「あれ?百、今日体験授業じゃなかったっけ?」
「今日は話聞いてきただけ。また今度授業受けてくる。」
「そうなの?」
予想していた時間よりもだいぶ早く帰ってきた息子に驚いた様子の母だったが、すぐさま夕飯を用意してくれ、制服を着替えてリビングへ戻ってきた時にはテーブルに料理が並べられていた。
「今日の所はどうだった?」
「まだ話しか聞いてないから。」
「それでも感じ良さそうとかあるでしょうが。」
そう言われて考えてみたら、今日行った所が一番自分に合ってそうな気はする。けれどやはり講義の合う合わないがあるだろうから雰囲気だけでは何とも言えない。
「あんたって本当に色々考える子だね〜…。」
私は何も考えず直感で生きてきたからね、と訳のわからない自慢をしてきた母親を見て、だから俺がこんな色々と考えなきゃいけないんだよと突っ込みたくもなる気持ちを察してほしい。
けれど出された料理はどれも俺の好物で、どれも美味かったから何も言わないことにした。
数日後、学校帰りにこの間予約をした講義を受けに再び予備校へとやってきた。
思ったよりも広い教室に案内され、適当な場所に陣取る。思った以上に人がいる様子を見ると、中々に期待ができる。
しばらくすると先日面接をした彼女がやってきた。前に立つとぐるりと教室を一周見渡したとき、一瞬目が合ったような気がした。
思えばあの時、俺は恋とやらをしたのかもしれない。
それからすぐに本申し込みをし、受講講座に丸をつけ、せめて少しでも近付けるようにとがむしゃらに勉強した。
****
「……と言うわけで、この大学に合格したわけですよ。」
偶然、学食で見かけた彼女の姿に驚き、思わず名前を呼んでしまった。せめて人違いであれとさえ思ったのだが、振り向いた彼女は間違いなく、俺の知っている彼女だった。
すぐさま目の前に陣取り、なれない笑顔を浮かべ、思い出話に花を咲かせる。目の前の彼女は気まずそうにカレーライスを食べていたが知ったこっちゃない。予備校をやめた時にはもう会えなくなるのかと散々落ち込んだのだからこれくらいのボヤキは許してほしいものだ。
「まあ若いなとは思っていたが、あんたがまさか学生だとは。」
「学生ではないよ、院生。」
たまに頼まれるんだ、と言ってのける彼女は院に行くくらいだから相当優秀なのだろう。講師を務めながら院でも研究をするなんて、ギリギリ引っかかって合格した俺には想像できないことだった。
「とりあえず我が校へ入学おめでとう…?」
ともあれあの時のようなパッと花が咲いたような笑顔を再び見れたのだからよしとしよう。
あの時、心が跳ねるのを感じた。
「じゃあ授業始めるねー。」
そう言ってホワイトボードに問題を書き始めたのはこのクラスの数学を担当している講師。数学の講師で女というのは今でも中々珍しく、最初は酷く驚いたものだった。
片親の自分が進学するのは想像が出来なくて、高校二年の進路調査表を就職と書いたら、母親からこっ酷く怒られた。何をするにも自分で決めたことならと言う母が怒るなんて驚いた。てっきり顔も知らない父親がいい所の大学を出ているからかと思ったら、「百之助は頭良いんだから、大学まで出て就職した方がいい。今より視野が広くなった色んな選択肢が出来るでしょう。」と酷く真っ当な理由だったので、再び目を丸くした。
とはいえ、就職するつもりだったのに、進学するとなると、日頃の授業だけでは心許ない。そこで今からでも遅くないからと予備校に通ったらどうだと提案され、体験授業をいくつか受けることになった。
幸いにも大手の予備校が実施している模試を学校で実施していたので、その結果を提出すると自分のレベルに合った講義をいくつか案内された。
どの予備校も生徒獲得に必死なのか、体験した方が分かるだろうと、講義を受けさせられたがどれもしっくり来なかった。
これなら今まで通り、一人で勉強した方がいいのではないかと思った時だった。
そこは大手のはお世辞にも言えないが、それなりに実績も出していて、何より学校からも近いので通うには最適な所だった。
受付で名前を告げると、まずは他と同じように模試の結果を見ながら、合っている講義のレベルやら、希望受験校の確認など今までの同じように面談された。
「あとはー、数学が得意だと思うからこれは強みにした方がいいと思う。あー、ただし、模試の結果を見ると、この単元は苦手意識があるんじゃないかな?」
一つだけ違っていたのは、その面談をしたやつに思いもよらない指摘を受けたこと。確かに指摘されたところは解くのに苦戦をしていたが、結果としては正解だったため、他の所で指摘を受けることはなかった。
「……なんでそう思うんですか?」
「他の解答がスマートなのに、この部分はやたらと回りくどさを答えから感じるから。って言っても私が数学の講師だから講義を進めようとしてるだけなんだけどね。」
ふふふと笑ったその人を、今日初めて真正面からちゃんと見た。短く切り揃えられた髪を耳にかけ、綺麗な指でペンをクルクル回しながら目尻を下げて笑っていた。
おそらくそう歳は離れていないだろう。
まるで姉のような雰囲気のその人の講義が気になり、どの講義をやるのかと思わず尋ねてしまった。
「ん、興味持ってもらえたようで嬉しいよ。」
そう言い、用意してあったスケジュール表にいくつか丸をつけていった。
都合がつく日を指差し、ここを体験してみたいと言うと、すぐさま手続きをし、教材などのコピーを手渡された。そのあまりのスムーズさにしてやられた感は否めないが、それでも彼女がどんな講義をするのか気になってニヤケそうになっているのがわかる。
「じゃ、楽しみに待ってるよ〜。」
ひらひらと手を振りながら見送ってくれた彼女にペコリと軽くお辞儀をし、家路へと帰った。
「ただいま。」
「あれ?百、今日体験授業じゃなかったっけ?」
「今日は話聞いてきただけ。また今度授業受けてくる。」
「そうなの?」
予想していた時間よりもだいぶ早く帰ってきた息子に驚いた様子の母だったが、すぐさま夕飯を用意してくれ、制服を着替えてリビングへ戻ってきた時にはテーブルに料理が並べられていた。
「今日の所はどうだった?」
「まだ話しか聞いてないから。」
「それでも感じ良さそうとかあるでしょうが。」
そう言われて考えてみたら、今日行った所が一番自分に合ってそうな気はする。けれどやはり講義の合う合わないがあるだろうから雰囲気だけでは何とも言えない。
「あんたって本当に色々考える子だね〜…。」
私は何も考えず直感で生きてきたからね、と訳のわからない自慢をしてきた母親を見て、だから俺がこんな色々と考えなきゃいけないんだよと突っ込みたくもなる気持ちを察してほしい。
けれど出された料理はどれも俺の好物で、どれも美味かったから何も言わないことにした。
数日後、学校帰りにこの間予約をした講義を受けに再び予備校へとやってきた。
思ったよりも広い教室に案内され、適当な場所に陣取る。思った以上に人がいる様子を見ると、中々に期待ができる。
しばらくすると先日面接をした彼女がやってきた。前に立つとぐるりと教室を一周見渡したとき、一瞬目が合ったような気がした。
思えばあの時、俺は恋とやらをしたのかもしれない。
それからすぐに本申し込みをし、受講講座に丸をつけ、せめて少しでも近付けるようにとがむしゃらに勉強した。
****
「……と言うわけで、この大学に合格したわけですよ。」
偶然、学食で見かけた彼女の姿に驚き、思わず名前を呼んでしまった。せめて人違いであれとさえ思ったのだが、振り向いた彼女は間違いなく、俺の知っている彼女だった。
すぐさま目の前に陣取り、なれない笑顔を浮かべ、思い出話に花を咲かせる。目の前の彼女は気まずそうにカレーライスを食べていたが知ったこっちゃない。予備校をやめた時にはもう会えなくなるのかと散々落ち込んだのだからこれくらいのボヤキは許してほしいものだ。
「まあ若いなとは思っていたが、あんたがまさか学生だとは。」
「学生ではないよ、院生。」
たまに頼まれるんだ、と言ってのける彼女は院に行くくらいだから相当優秀なのだろう。講師を務めながら院でも研究をするなんて、ギリギリ引っかかって合格した俺には想像できないことだった。
「とりあえず我が校へ入学おめでとう…?」
ともあれあの時のようなパッと花が咲いたような笑顔を再び見れたのだからよしとしよう。