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 放課後の図書館は、世界の音から切り離されたような場所だった。
 高い窓から差し込む西陽が、木製の机や本棚に長い影を落とし、ページの上をやわらかく照らしている。空調の音すら聞こえないような静寂のなかで、私は一人、文学の棚の前に立っていた。
 図書館は好きだった。人と話す必要もないし、考えを整理するにはちょうどいい。本を読むと、心の中のざわつきが少しずつ静かになっていく。
 だからこそ、私はここにいた。
 けれど、その静けさを破る声が、今日に限っては心地よかった。

「夢野、何を探してるんだ?」

 その声に、私は驚いて振り返った。振り返った先には常に成績上位で部活でも大活躍という、クラスメイトの柳くんがいた。
 今の時間は部活のはずだ。彼がなぜここに? という戸惑いと同時に、まさか柳くんから声を掛けられるとは思わず、心がほんの少しだけ浮いた。

「なんか面白い本ないかな?と思って探しているところ。柳くんこそ、この時間に珍しいね。」
「今日は部活が休みでな。手持ちの本を読み切ってしまって、俺も本を探してる。」

 私は努めて冷静な声で答えた。けれど柳くんが近づいてきて、私の隣に並んだとき、内心では鼓動が跳ね上がっていた。

 ――距離、近い……。

 図書館の棚の前という、限られた空間。肩が触れそうなほどの近さ。その近さにこちらは心臓が口から出そうになるくらい緊張しているのに、柳くんはそれをまったく気にする様子もなく、静かに本を一冊手に取った。

「……これ、面白いぞ。」

 見せられたのは、海外ミステリーの翻訳小説。  重ためのタイトルに少し戸惑いながらも、私は素直に受け取り、表紙を眺めた。

「へぇ、知らなかった。意外と、こういうの読むんだ。」
「まあな。雰囲気がいいだろ?静かに読めるし、頭の中で映像が動くのが好きなんだ。」

 その言葉に、私は小さく笑った。まさか柳くんの口から「雰囲気がいい」となんて言葉が出るとは思っていなかった。何事にもデータで計っている彼が雰囲気なんて曖昧なものを口にするなんて意外にも程がある。

 そんな私の様子に苦笑しながらも、柳くんはそのまま棚を指でなぞりながら言った。

「……夢野は、よくここに来るのか?」
「うん。授業終わって、ちょっと静かにしたいときとか。考えごとしたいときとか。」
「考えごと?」
「……うん、まぁ。」

 そんな曖昧な返事をしながら、私は柳を横目で見た。
 本当は最近ずっと、柳くんのことを考えていた。クラスで話すときよりも、部活をしているときよりも、本当の彼はどこか違うところにある気がして、何を見ているのか知りたくなった。柳くんが何を見て、何を感じて、今何を思っているのか気になって……。
 そうか、これが人を好きになるってことなのだなとこの図書館で一人ただぼんやりと考えていた。
 しかし当の本人にそんなこと言えるはずもなく、私は曖昧な返事を返しただけだった。
 柳くんは私の気持ちを知ってか知らずか、再び口を開いた。

「今度はお前のお勧めの本が知りたいのだが、教えてくれるか?」

 彼の声は変わらず落ち着いていて、私の心にストンと入ってくる。
 ああ、そう言うところも好きなんだと、そう思えば同時にちくりと胸が痛む。

「……いいよ。最近読んだ本でおもしろいのは、これかな。このミステリのトリックが秀逸でね。」
「ほう。お前はミステリを好むのか。」
「そうだね」

 ではこれを借りて行こうと、私がお勧めした本をカウンターに持って行き、あっという間に借りる手続きをして去っていった。
 ほんの短いやり取りだったが、柳くんと何かを共有することが出来て嬉しかった。
 



 それから、私たちはよく図書館で会うようになった。
 静かに本を探し、お勧めの本を一冊ずつ教え合う。ときどき感想を言い合いながら、笑い合う。  周囲からは静かな交流にしか見えなかったかもしれない。けれど、私の中では、その時間が少しずつ特別になっていった。
 柳くんは本の話をするとき、少し嬉しそうな表情になり、そして饒舌になる。そうした小さな表情の変化に嬉しくなって、次は何を勧めようか考えるのだった。

 私は私で彼のおすすめを読むことで、今まで読まなかったジャンルの世界に触れた。それは柳くんからお勧めされなかったら全く手にすることのなかった新しい世界ばかりで、ページをめくるたびに、彼のことをもっと知れる気がした。




 ある日、いつものように図書館に行くが、柳くんの姿がなかった。
 あれだけ会えていたのに、いつも彼が座っている席は空いていて、置かれた本もなかった。その日はついに彼の姿を見ることはなく、それどころかその日から一ヶ月以上、彼と図書館で会うことは無かった。

 部活に生徒会にと忙しい柳くんが、結構な頻度で図書室に来ていた方があり得ない状態だったのだ。そうは思っていても、少し前まではこれが普通だったのに、想像以上に動揺している自分がいた。




 私はただ柳くんのことを知りたいだけだった。
 知れたらそれで満たされると思っていた。
 けれど彼と静かな時間を共有することで、私はさらに彼のことを知りたいと思うようになってしまった。そんな私の気持ちがあの柳くんにバレないはずがない。
 もしかしたらそれが嫌でここに来なくなってしまったのではないか。今まで優しくしてくれたけれど、本当は私と関わりを持ちたくなかったのかも知れない。
 考えれば考えるほどどんどん悪いことを考えしまう。
 昔は静かな図書館が好きでしょうがなかったのに、今はただただ動かない空気の中で、本の匂いが充満し、本という本で私を押し潰そうとしているように感じた。




 さらに一ヶ月後、もはや嫌われたのは確実だなと思っていた頃、柳くんは何事もなかったかのように再び図書館に現れた。

「前に読んでみたいと言っていた小説を見つけたぞ。」

 見つけるのが遅くなってすまないと謝られ、私は目を見開いた。
 まさか何気なく言った言葉を覚えてくれるなんて思ってもみなかった。さらに柳くんが自分のために本を探してきてくれるなんて、たったそれだけのことなのに鼻の奥がツンと痛くなる。

「読んでも?」
「ああ、もちろん。」

 ページをめくると、ふと一枚の紙切れが挟まっているのが分かった。綺麗に畳まれたそれを恐る恐るそれを開くと、そこにはこう書かれていた。

“読んだら感想、ちゃんと聞かせてくれ。”
“あと、そろそろ本以外の話もしよう。”

 柳くんらしい綺麗な字で書かれたそれの意味を理解して、顔が熱くなる。
 耐えられずその手紙から目を逸らして顔を上げると、柳くんはいつも閉じている瞳を薄ら開けて、私のことをまっすぐ見ていた。

「……感想は?」
「まだ読んでない。」
「そうか。」

 私の言いたいことなんて本当は分かっているくせに、そう思ったがこれは私の口からちゃんと伝えたい。伝えなければいけない。

「でも、私も本以外の話もしたいと思ってた。」

 彼の目を見て、静かに微笑んだ。
 そのとき、柳くんの表情が少しだけ変わった気がした。

「では手始めにここを出るとしよう。話すのはそれからだ。」

 その一言に、私は頷いて、彼の手にそっと触れた。
 まさかそんな行動をとるとは思わなかったのか、いつも余裕そうにしている柳くんの顔にさっと赤みが走ったのを見逃さなかった。

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