First
Anniversary



お手軽くらやみきみのとなり


少し前から目が覚めていたけど起き上がるのは億劫で、ぬかるみにしばらく体を預けて、それから体を起こした。日はもう十分高く昇っていた。
横にはホップがベッドに突っ伏して寝ていた。上手く寝付けないおれが睡眠剤と抗不安薬を飲み、ようやく眠った後もホップは世話をしてくれたんだろう。少し癖のある紫の髪を撫でた。太いが指通りのいいこの髪がおれは大好きだ。
ワンルームのこの部屋には、テーブルに読まれていない論文が高く積まれていた。どれもポケモンに関するものだ。ホップの大好きな研究が手につかない理由は勿論おれだ。枷になるならば、おれなんか捨ててくれて構わないのに。心臓に異常はないのだから、おれは生かされただけ長く生きてしまう。
手を避けるように身動ぎしたあとホップは目を覚ました。シワがよった白衣を椅子の背に掛けてホップはひとつ伸びをした。

「ごめんね、起こしちゃった?」
「うぅん……大丈夫。おはよう」
「おはよう。身体痛いでしょ、場所代わるからホップが寝なよ」
「いや、大丈夫だぞ。それよりご飯にしよう、何がいい?」
「ホップが作ってくれるなら、なんでも」

少しキッチンで作業をした後、ホップがおれの身体の下に腕を差し込んで持ち上げた。おれも相当筋肉が落ちたとはいえ、普通の男なのによく持ち上げられるものだといつも感心する。以前お見舞いに来てくれたホップのお兄さんに、おれのために身体を鍛えているのだとこっそり教えてもらってから、おれは食べる量を減らした。
洗面台まで運ばれて、顔を洗って、渡されたタオルで顔を拭いた。車椅子に下ろされ、後ろを押されて少し高さの合わないテーブルにつく。手際のいいホップはいつの間にかトーストを焼いていた。黒い焦げなんてどこにもない美味しいトーストを褒めると、嬉しそうに笑った。ホップはテーブルの上の空の瓶から櫛を抜き取って、髪を梳かし始める。毎日やってくれるおかげでおれの髪はどんどん艶が良くなっている。

「今日はちょっと外に出よう。ずっと中にいるんじゃ身体に悪いから」
「うん」
「……顔色が良くないな。やっぱりやめておこうか。また寝る?」

質問に答えず、おれからホップに問いかける。

「ホップはどうしてこんなにおれに良くしてくれるの?」
「どうしてって、好きだからだろ」

眉を下げておれを見るその顔は、子どもの頃から変わらない綺麗なまま。おれが大好きな金色の目は逸らされない。ホップの言葉は本当だった。

それならば尚のこと、おれは言わなければならない。ホップの手を取る。彼の手が、彼のために動かされたのはどれくらい前になるのだろうか。

「置いていって。おれのこと」
「…………なんでそんなこと言うんだ?」

おれは筋肉が落ちて細くなった手を太腿に置く。自分の意思では動かないこの脚は、枷だ。おれにとっても、ホップにとっても。
でもこの枷は、ホップのものではないのだ。

「研究、全然手についてないでしょ」

おれは数年前にホップと学会で出会い、その快活さと科学者に重要な真面目さや頭の良さを兼ね備えた頭脳に惹かれて共に活動するようになった。いつの間にか人としても好きになって、ホップにも同じ気持ちを向けてもらえた。そこでおれは自分の研究をやめ、ホップの研究を手伝うことに決めた。ホップには反対されたけど、おれはホップの研究に共感してのことだったから全く後悔はしていない。
そして去年の夏、おれはフィールドワーク中に事故に遭い、治療が遅れたことで臍から下が動かなくなってしまった。ホップと一緒にいたが、お互い見たいものがあって離れてしまった時におれが怪我をしていたものだからきっと責任を感じているのだ。だから自分の研究を放ったらかしておれのために手を尽くしてくれている。
顔に出やすいホップが、図星をつかれたと目を開いたあと目を泳がせて言った。

「……ちゃんとやれてるから、大丈夫だぞ」
「嘘ばっかり。ポケモンの世話しておれの相手もして、時間余ってないでしょう。ただでさえおれは寝つきが悪くて、ホップはおれに付きっきりになっちゃうんだからさ」

おれの睡眠剤と抗不安薬の量は増え続けている。昔からの癖が怪我のせいで悪化したからだ。別に怪我がつらいわけではない。この状況がおれを苦しめているのだ。どうしておれがこんな目に。どうしてホップをこんな目に。

怪我があってから、ホップはおれに過保護だ。髪を梳かすのだって、腕は動くのだからおれにだってできるのに。

「ばかだなぁホップは」

大きめの櫛が後頭部を撫ぜる感覚。心地はいいが、手つきがどこか覚束無い。一度引っかかって、また流れた。

「どうせ一人だってどうとでもできるんだから」

保険金も下りるし町からの支援金もある。それでヘルパーを雇えば一人でも生きていける。ホップはおれを手放すことができる。
手の動きがゆっくりになっていって、とうとう止まった。

「おれなんて捨てちまいなよ」
「やめてくれ」

櫛が床に落ちる音がした直後、後ろから抱きつかれる。

「そんなこと言わないでくれ……オレは、なまえの力になりたい」
「でもおれは迷惑になりたくないよ」
「それでも、オレは……」

途切れた言葉の代わりに強く抱きしめられる。痛いぐらいの抱擁をどうしようもなく嬉しく感じてしまう自分が疎ましい。これだからおれは駄目なのだ。怪我やホップの優しさのせいにして、諦められない自分から目を逸らしている。

「おれだってね、ホップが好きだよ」
「……うん」

どうすればいいかわからない。行く末も帰り方もわからない。ここは柔らかな暗闇だ。

「今日は、何もしないで寝よう。ホップが一緒なら、きっとよく眠れる」

でも暗闇こそが安楽であると、おれはもう知ってしまっている。そしてホップは簡単におれの手を取るから、二人で沈むほかないのだ。
ホップは頷いて、静かに微笑んだ。







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