First
Anniversary
君の住む街は遠い
日本でのラップの歴史はそれほど長くない。言語的に日本語がラップに向いてないとか、いかにも“ワル”そうな海外のストリート文化が受け入れられづらいとか色々理由はあるそうだが、詳しいことはおれには言えない。日本もアメリカみたいに、もっとヒップホップが盛り上がればいいのにと思う。
これはおれがこっちに来るまで思っていたことだ。こっちに来てから、おれの考えは少し変わってしまった。
三十路に入ったぐらいからおれは訳の分からん夢を見続けている。ライターの仕事も借りてる部屋もそのままなのに、常識がなにもかも違う世界にひとり放り出される夢。第三次世界大戦とかあって人がめちゃくちゃ少なくなってる世界の夢。政治家が軒並み女で、男というだけで下に見られる世界に、いつの間にか生きているという夢。男同士が命懸けでラップバトルをする世界の夢。
荒唐無稽な設定の癖に死ぬほどリアルで、熱も痛みもある。ありえないほど高い税もある。
法制度とかそういうのを除けばこの世界と現実は大して違わないが、それでも夢の中だ。浮いてしまいかねないおれが今まで生き延びられたのはサイファーとたまの現場で培ったラップスキルのおかけだった。学生の頃から仲間内で鍛えたラップスキルは小さな大会なら優勝できる程には上達した。ラップだけを生業にする度胸はなかったけど、それでもまあまあ上手い方だった。それは夢の中の基準でも相違なく、街のヤンキーに絡まれた時もおれはボコボコにできた。それには、何故か持っていたマイクのおかげもあるけど。
「いやそもそも、ラップって平和なんだよ。武器なく怪我なく相手と戦う訳だからさ。それを変なマイク持ち出して……」
そのマイクはどういう仕組みか、精神に影響を与えるとかなんとかで、心じゃなく肉体をも傷つけられるらしい。おれとしてはそんなマイク反対だ。現実ならば、ラップバトルは韻やリズムやフロウの美しさを比べるだけで済んでいたのに。マイクが兵器になればそれは果たして芸術なのか。
こんなことを愚痴っていたら──夢とか現実とかは伏せて──横で聞いていた左馬刻がうざったそうに舌打ちをした。
「高説垂れる暇あんなら練習付き合えよ」
「語彙を身につけるのはいい事だが、あんまり日常でもディスられるとおじさん泣いちゃう」
「キモいんだよ。オラ、立て」
十年前にちょっと可愛がっていたガキに雑な動作でソファから立たされる。このガキは頭の回転が早くて、聞かれるままにラップについて話していたらめちゃくちゃラップが上手くなっていた。どんどんラップが上手くなってそのうちヤンキーになり、知らないうちにヤクザになっていた。この過程は正直よく分からん。足を洗えと言い続けてるのに鼻で笑うだけなので、もう諦めようと思う。反社会的勢力が一応政治的なイベントに出ているのは、果たしていいのだろうか。ディヴィジョンラップバトル、これもよくわからん制度だ。
夢を見始めてかれこれ十年経っているのに未だ目覚められない。もう現実のおれは死んでるのでは、とも考えるが、確かめる術はない。痛みもおれに寄りかかる左馬刻の熱も本物としか思えないのが恐ろしくてしょうがない。
十年も夢を見て変わった考えとしては───ラップが流行りすぎるのも考えものだな、といった感じである。あぁ、一刻も早く目覚めたい。
その男は平凡でありながら、どこか浮世離れした雰囲気も持ち合わせる、奇妙な男だった。これは成長した左馬刻によるなまえに対する印象で、幼い左馬刻には普通より少しイケてる父親の知り合いのおじさんといった具合だった。
「オッサン、ラップできんの?」
「……? ああ、碧棺さんとこの子か。多少はできるよ」
「見たい。見せて」
「……まぁ、いいけど。一緒にサイファーするか?」
才能があるとはいえ、幼い左馬刻はラップに興味があっただけのただの子どもだった。たどたどしく語彙も少ない左馬刻のラップを笑いながら、優しい顔でリズムに乗り言葉を重ねてくれるなまえはいつのまにか左馬刻の憧れになっていた。少しずつ荒れる家庭の中で拠り所にもなっていた。
「近々新宿に移るからこれが最後な」
だから簡単に告げられた別れの言葉に驚いて憤慨したのも仕方のないことだった。
「なんで」
「おれずっとフリーだったんだけどさ、社員にならないかって誘われて。迷ったけど給料も結構良いし、断る理由もないかなって」
「なんでシンジュクなんだよ。ヨコハマにいろよ」
「それは会社に言ってよ。おれにはどうしようもできないって」
なまえは左馬刻と離れることにちっとも未練がない様子で、左馬刻は泣き出しそうだった。左馬刻の目の縁でギリギリ決壊しなかった涙に気づいたなまえが慌てて「でも会おうと思えば会えるから」なんて慰めようとしてきたが、左馬刻の機嫌は治らなかった。まだラップについて全部話してもらってないし、まだ一回も勝ってない。
しかし大人の事情は左馬刻にはどうしようもできないことで、なまえはシンジュクに移り、左馬刻は正とされている道から外れていった。左馬刻が大人になってもなまえは会いに来なかったが、左馬刻の身の上を考えると仕方のないことでもあった。誰もいない部屋でうそつき、と少し詰って、それがなまえに届かないことに当たり前ながら落胆して、左馬刻はなまえを見つけ出すことを決めた。会えないならば、会いに行けばいい。
そう決めてからの左馬刻の行動は早かった。ネットでなまえの名前を検索にかけ、会社を特定し舎弟に車を走らせるのに半日も要さず、丁度家路に着こうとしていたなまえを拉致同然に車に乗せた。
「よぉ、調子はどうだ」
「…………左馬刻、だよな?」
「なんだよ。まさか、俺様の顔を忘れるわけねぇよな…………おい、車出せ」
「へい」
見覚えのない黒塗りの車の中で見覚えのある男にじっと見つめられて、なまえは内心冷や汗が止まらなかった。自分がどこに連れていかれるか分からない不安の中、なまえは左馬刻に恐る恐る話しかけた。
「あの……左馬刻……さん?」
「キモイ呼び方すんな」
「あぁ、ごめん、左馬刻……うん……それで、今どこに向かってるの?」
「ヨコハマ」
「……あー、えっと、なんで?」
左馬刻はちらりとなまえを一瞥しただけで何も言わなかったため、なまえは気が気ではなかった。周りのどの建物よりも高いタワーマンションに到着した時、白目になりそうなのを必死に耐えていたなまえの首根っこを捕まえた左馬刻は嬉しそうで、なまえは逃げられないことを悟った。
生活に必要な道具を揃え終えた頃にはなまえも慣れていた。元々生活に頓着するタイプではなかった為、仕事ができればどうということはないといった風に毎日のルーティーンを既に確立していた。左馬刻はそれに安心しながらも、許される行為の線引きがどこにあるか試すように甘えていた。
「そういや、ビートメイカーもしてたんだろ。俺様のために一曲作れや」
「どこで聞いたのそれ……間違ってないけど、最近作ってないからな……できるかな」
パソコンに向かうなまえの背にのしかかる左馬刻を、なまえは文句を言いながらも退けようとはしなかった。それだけのことが嬉しく感じてしまうのは、あの時置いていかれたと思っているからだろうか。
なまえに対して抱いていた諦念を燃やすことができるのは、きっと今だけだと左馬刻は心を決めた。
「なァ、なまえ」
「んー?」
「お前、ずっと俺んとこにいろよ」
なまえは突然の言葉に目を丸くして、続きを待った。
「金なら心配すんな」
断られることを恐れているせいで、左馬刻は付き合ってくれとかそういう色っぽい言葉を最後まで言うことはなかった。告白にしてはムードがなく、ただの命令にしては情がありすぎる。しばらく目を瞬かせていたなまえが、信じられないと言ったように訊いた。
「それ、どういう意味?」
「何が」
「ずっと俺のとこいろよって。告白?」
「……そうだよ」
不本意そうに認めた左馬刻を、なまえは一頻り笑い者にした後目尻の涙を親指で拭いながら言った。
「お前なんか引く手数多だろ。こんな草臥れたおじさん捕まえなくてもいいんじゃない」
「うるせえな。俺が言ってんだからさっさと頷けや」
「しょうがないなぁ……いいよ。いつまでいられるかわかんないけど、一緒にいるよ」
"いつまで左馬刻といられるかわからない"の意味を左馬刻が問うことは終ぞ無かったが、左馬刻はそれでも幸福だった。その"いつか"が来るまで、なまえは左馬刻の横にあるのだから。
なまえがどこに行くつもりなのか、左馬刻は知らない。す、と浅く息を吸ってから左馬刻は問いかけた。
「いつかになったら、どこ行くんだよ」
「ここじゃないところ。遠くだけど、左馬刻のことはずっと応援してるよ」
「……まァ、いいわ」
今は、それでいい。恐らく今の左馬刻には知り得ないことだし、記憶よりも歳を喰ったなまえが左馬刻を振り切れるとは思えない。
例えなまえがもっと歳を重ねてジジイになっても、左馬刻がなまえを手放しはしないから、結局そんな日は訪れはしない。十年の執着が、そう簡単には消えるわけがないのだ。
なまえがなにか感じ取ったようでふるりと身を震わせた。