First
Anniversary
溶ける前に飛び出そう
玄関から控えめなドアの音がして、小さな足音が続く。深夜だから気を使っているのだろう彼の気遣いが嬉しくて少し面白くて、おれは気付かないふりでテレビに顔を向けていた。テレビには今日のリーグ戦の結果が流れている。
「なまえさん」
「あれ、いつの間に帰ってたの。おかえりなさい」
「ただいま」
振り返ると、疲れを浮かべながらも笑顔を浮かべてみせるマサルがいた。チャンピオンのユニフォームを着たまま帰ってきたらしい彼はたしかにかっこいいが、バトル中の自信に溢れた表情がなくなると少し幼く見える。そのままふらふらとおれの隣に腰を下ろした。最近ジムで鍛えているらしく薄く筋肉のつきはじめた脚がまるで役に立っておらず、おれに弱々しく寄りかかってきた。
チャンピオンの威厳とか、プライドとか、大切なものを賭けなければならない試合に身を投じているのだから疲れ果ててしまうのは当然だ。たとえそれが自分の望んだものだとしても。今日のところは休んでもらうとしようか。そう思って立ち上がったおれの袖をマサルが掴んだ。
「だめ、行かないで」
「いいの? ご飯とかお風呂とか、」
「いいから。お願いだからここにいてください」
何でも持っているその指先が縋りついたのがおれの安い部屋着であることに、胸の奥底が溶け出すような心地になるが、それを表に出さないようできるだけやわらかく笑みを作った。
それでもまだ不安げな顔をするから軽くハグをしたら、背に回した手にざらりとした感触が伝わった。彼のスポンサーについている企業のロゴマークだ。彼を金に変えようと必死な企業達が名を連ねるマントが不快で、コートを脱がせる貞淑な妻の振りをして彼の肩から外してソファの向こう側に投げた。彼は何も言わなかった。
まだ幼さの残る薄いその肩を重圧に晒し続けるのは相当なストレスだろう。極力甘い声で、親が子にハッピーエンドの絵本を読み聞かせるような声色を作った。
「何かおれにできることはあるかな」
「……じゃあ、ほめてください」
「わかった……けど、どうしたの。きつくなった?」
「ううん」
「昨日のテレビも、この前のバトル雑誌もあんなに褒めていたじゃない」
「あれじゃダメなんです。なまえさんがいい」
素直で、努力家で、才能もある彼の口に所望される自分の名前がひどく心地いい。
「ほめて、おねがい」
「仰せのままに。おれの王子さま」
おれたちは結局どんな関係なんだろう。互いなくしては生きられない程弱くはないが、互いがいなければ安らぎはない。おれは彼のことが大好きだけど、多分彼はおれのことを疑っている。まあ、彼の自業自得ではあるんだけど。
おれがここに居るのはもはやおれの意思だが、初めは彼による我儘のせいだった。意外にも束縛が激しい彼はおれが他人と関わるのを嫌がったのだ。自分は数え切れないほどの人と関わっているのにと思わないこともなかったが、まぁいいだろうと極力他との接触を避けた。元からそんなに交流を持っていたわけでもないし、恋人の願いは叶えたい。でもそれはどんどんエスカレートして、いつの間にかほとんど家から出られないほどになっていた。
「外に出たいな。一緒にキルクスで温泉に入ろうよ」
「……ダメ」
「どうして?」
「だって、もしも……」
最後まで言わなかったのが何故かはわからないし、何を言いたかったのかおれは今も知らない。
彼らしくない弱気さに絆されてしまったおれにも少し責任があるとは思っている。でも彼のファイトマネーで購入されたとんでもなく高いマンションに居れば彼が甘えてくれるのだから、おれはなんの不満もない。夢と希望を与えるチャンピオンの弱々しい姿を見られるのも役得というやつだ。
そう、幸せだけでつくられているこの生活におれはなんの異論もない。おれの世界はこの部屋だけでいい。マサルもそれを望んでいる訳だし。
「ねえ、マサル」
「なんですか」
「もしも全部嫌になったら、一緒に逃げようね」
「……いいんですか?」
「もちろん。もうちょっとかっこいいマサルを見ていたいけどね」
今日のマサルは外の話をしても悲しそうにしないな。余程疲れているのか、彼の考えが変わったのか。
「おれはシンオウ地方に行ってみたいなあ。貴重な遺跡があるらしいよ」
「俺はなまえさんが行きたいところならどこでもいいです」
「嬉しいこと言ってくれるね。あれ、眠くなってきた?」
マサルはぐずるように首を振ったが、瞼はもうすでに落ちそうだった。
「もう寝ちゃいな。疲れてるんだから」
「じゃあ、なまえさんも、一緒に……」
「はいはい」
マサルを抱えて寝室に向かう。調度品はどれも高級品だ。そんなにおれを大切にしてくれる人を、どうして嫌いになれるだろうか。まあ、外に未練が無いわけではないし、もうちょっと悩んでもらおうかな。どうせ死ぬまで一緒にいるので。