一歩先の幸せ 虎の少年が遠ざかっていく。唯一の救いだったカジノが手から滑り落ちていく感覚。結局何も残らなかったと目を閉じて、ただ風だけを感じていた。 ───── 何故か私は生きていた。落ちて地面に叩きつけられる感覚もなく、ただ地面に立っていた。傷は塞がっていたが、汚れた服があの痛みを思い出させる。もう二日、何も食べていない。大嫌いな空腹も体を動かす原動力にはならなかった。 そこそこの人通りの街で、此処が横浜出ないことと、テロリストがいないということがわかった。そして、恐らく異能がないということも。すれ違いざまに肩をぶつけて触れた男からは何も読み取れなかったからだ。唯一の能力も失って、何もない自分に、最早なんの感情も無かった。 どうして今生きているのか判らないが、どうせ此処でも野垂れ死ぬ運命なのだ。ビルヂングの影に凭れて目を瞑った。いつの間にか雨が降り出していた。 「あれ、オニーサン。随分汚れてんね」 目を開けると、そこには傘を差した青年がいた。青年は私に傘を差し出しニコリと笑った。 暇つぶしに街を歩いていたらビルとビルの間から人の足が見えていて、野次馬のつもりでそこを覗き込んだ。そこには白くて長い髪の男の人がいて、覗き込んだその顔は整っていた。声に反応したのか開けられた目は髪と同じ色で、とても透き通っている。でもどこか悲しそうで、寂しそうだ。今日はもう予定はないし、この人と過ごしてみようか。どこか放っておけない雰囲気があるし。 「ホームレス?よかったらウチくる?」 「…金は無いぞ」 「見たらわかるよ。家無しでしょ?ウチ狭いけど、此処よりはマシでしょ」 彼はポカンと口を開けておれを見ている。普通じゃない見た目なのに、ごくごく普通なリアクションでちょっと笑ってしまった。 笑われたことにちょっとムッとした彼に手を差し出す。少し迷って手を取った彼はおれよりも背が低いようだが、モデルのようなスタイルだ。 「おれは亮。よろしくね」 「…シグマだ。よろしく頼む」 一緒におれのアパートへ帰る。風呂はまだ沸いてなかったからシャワーだけ浴びてもらうことにした。あの髪ならシャンプーが大量にいるだろうなと稚拙な感情を抱く。 「あがったぞ」 「そこに置いてるから着替えてー」 風呂場から出てきたシグマさんは言われた通りおれの服を着ていてくれたが、おれの安物のパーカーはあんまり似合っていなかった。服を早く返してあげなきゃ。服のタグが見当たらなかったからそのまま洗濯機に入れたけど、高級そうだったしクリーニングのほうが良かったかな。でもあの赤は多分血なんだよな…やっぱりクリーニングじゃなくて良かったかも。 「シグマさんは何が好き?何も言わないなら肉野菜炒めになるよ」 「…好きな食べ物はクッキーだ」 「んー…。とりあえず晩ご飯は肉野菜炒めだね」 そういえば昨日買ったクッキーがまだ残っていた気がする。後であげよう。 パパっとおかずを作って、お茶碗にご飯を盛って肉野菜炒めとだし巻き玉子を出した。だし巻き玉子はただおれが好きなだけだけど。お茶碗はひとつしかないから今日は彼に譲ることにした。空腹には慣れているから一食抜いてもそんなにきつくないし。 箸を少し使いづらそうにしていたからフォークとスプーンを渡したらちょっと悔しそうな顔で箸で食べ進めていく。少し面白かった。 向かいに座ってずっとシグマさんを見つめる。箸には慣れていないようだけど、所々の仕草はとてもきれいだから、いいとこの出身なのかな、とかぼんやり考える。おれの視線に居心地悪そうにした彼がおれに問う。 「お前は…何も聞かないんだな」 「聞いて欲しいの?」 「否、だが、普通は気になるだろう」 「聞いてほしくないんじゃないのかなって。教えてくれるなら聞きたいな」 これは本心だ。誰にでも知られたくないことの一つや二つあるのだから、無理に聞こうとは思わなかった。彼は特にワケありっぽいし、こういうのはトラウマに直結してるから土足で踏み込むと痛い目に合うのだ。お互いのために一線は守らねば。 「家族を守るために戦って、負けた。守れたかは判らない」 「…そっか」 「唯一の救いだったのに」 シグマさんの握った手がぎちりと鳴る。悔しさと寂しさが噛み締められた唇に現れていた。 「私は平凡だ。だからこそ努力したのに、あんな、あんな想いを二度としないように、帰る場所を守るために、なのに」 シグマさんが俯いて前髪が顔を隠す。泣いているような声だった。彼ほどの重さをもって自らを平凡と言うにはそれなりの過程が必要なはずだ。きっと辛い思いをしたんだろうなぁ。他人だが、彼には同情する。何をしてやることもできないのだろうけど。まぁ、言葉を返すぐらいはおれにだってできるから、できるだけ優しい言葉をかけてやろう。 「つらかったねぇ、頑張ったね」 「…理解したような口をきくな」 「辛辣だなぁ…」 冷たく振る舞う癖に、水気のある声に苦笑する。 しかし、一晩の拠り所に自ら名乗り出たからには優しくしてやりたいのだ。立ち上がって普段使いのリュックから個包装のクッキーを取り出す。 はい、とクッキーを差し出すと怒り顔がきょとんとした顔に早変わりした。その表情の豊かさについ笑ってしまう。 「面白そうだったから拾ったけど、正解だったよ。でもシグマさんって結構普通だね」 「…五月蝿いな。受け取らんぞ」 「まぁまぁ、貰ってよ」 半ば押し付けるようにクッキーを渡す。有名なメーカーのだから、ハズレは無いはずだ。シグマさんが気に入るといいな。 「何かあったら、またウチに来なよ。家みたいに、軽い感じでさ」 「…あぁ」 「ちょっと、今適当に返事したね?」 それからも少し喋って、シグマさんにベッドを貸してあげた。おれはソファに寝転んで目を閉じる。 今日は中々珍しい体験をした。明日は何をしようかな。日本食に慣れてないみたいだし、回転寿司にでも連れていこうか。 朝起きたらシグマさんはいなかった。狐にでも化かされた気分だったが、野菜もクッキーも無くなっていたからあれはきっと現実だろう。おれがいつの間にか食べてただけかもしれないけど。寿司を一緒に食べられないのは残念だ。また会えるだろうか。 ───── 気がつくと私が寝ている場所は安物のベッドから硬い地面に変わっていた。嗚呼あの三日間の出来事は、カジノから落ちる時にみた幻想だったのだと気づいた。少し残念な気がしたが、よくもまぁ、落下の最中にあんな腑抜けた顔が出てきたものだ。ふと服の違和感に気づきポケットに手を入れる。服も亮のパーカーだったのに。 ポケットから出てきたのは、二つに割れたクッキーだった。包装に見知らぬロゴが描かれたそれは確かに向こうで亮にもらったものだった。 「ドス君を殺す。その為に君の異能で『ドス君の能力が何か』を読み取って欲しい」 天人五衰の中で最も苦手な男ゴーゴリに助けられ、そしてまた利用される。訳の判らない思想に冷や汗が流れた。何を信じれば良いのか。手のなかのビニール包装の感触だけをやけにはっきりと感じていた。 Top |