退廃的フィロソフィア


其の瞬間、やけに周りがスローモーションに見えた。先刻まで激昂していた自分が嘘みたいに、目の前が鮮明に見えた。手を引くのにも力が入らなくて、そのまま突き飛ばしたら、其奴は抵抗もなく倒れて床に仰向けになった。其の顔はどんどん青白くなっていて僕の心臓の鼓動を早めていく。跳ね回る心臓が痛くて、胸に手を当てるとぬるりとした感触があり、見ると手は血に塗れ、其れがシャツにべっとりとついていた。
視界は鮮明なのに次何をすればいいのか判らない。どうして殺したんだっけ。そうだ、酒を飲んで口論になって、ついカッとなって包丁を持ち出したんだった。初めは刺す気なんか少しも無かったのに、此奴のどうせ刺せないだろうと嘲笑する顔にどうしようもなく腹が立ったから思い切り突き刺した。彼奴も下手な挑発をするぐらい酔っていたから簡単だった。初めて感じる肉の感覚と彼奴の呻き声がまだ手に残っている。あの絶望したような目をもう一度思い出してしまって手が震える。隠さなければと強く思った。彼奴はまだ息がある。気を失っているみたいだから、殺してしまうなら今だ。あぁ、でも度胸がない。どうしよう。

「……そうだ、電話」

ひとつ、思い当たる人がいた。大学を卒業したぐらいにできた友人で、年下だが武装探偵社という荒事を請負う会社に勤めているから、きっとこういうことにも詳しいはずだ。血塗れで滑る手で携帯を取り出して、間違えながら釦を押した。一つ目のコォル、二つ目、三つ目が鳴り終わる前に電話が取られた。

『──はい』
「治くん、助けてくれないか。人を、人を刺してしまった」
『判った。家に居るよね?』
「うん」
『良し。では手を洗って、暖房は消しておいて。包丁に触ってはいけないよ』
「うん、うん、判った」

電話し終わってすぐに治くんの指示通りに動いた。暖房を消した。携帯はもう触りたくなくてゴミ箱に投げ捨てた。石鹸で何度手を洗えどまとわりつく血の感覚が離れない。そうしてずっと洗い続けていると治くんに相談して得られた安堵感が薄まってきて、又不安と手の震えが襲いかかってきた。
僕は今なにをした?知り合いからこんな電話が掛かってきたら、普通は警察に通報するだろう。あんなに、すんなりと人を刺したことを受け入れるだろうか。ああ、きっと、これから人殺しとなった僕を殺しにくるのだ。
横浜の中心街から此処までは大体三十分ぐらいだ。治くんが来るまでに何かできないか。否、もう電話もしてしまった。彼奴の腹には包丁が刺さったままだし、血の匂いが部屋に充満している、言い逃れもできない。
ピンポン、と来客を知らせるベルが静まり返った部屋に鳴り響いた。時計を見るが、まだ三十分も経っていない。開けなければ。開けてもいいのか。ひょっとしたら、警官を大勢連れて来ているかも。
否、もうその時はその時だ。息も絶え絶えの彼奴を跨いで玄関へ向かう。僕は意を決して玄関扉を開いた。

「やぁ」

寒い外の風を浴び、怯えながら見たそこには治くんしか居なかった。まだ油断は出来ぬと慌てて家の中に引き込み辺りを見回すが特に変わった様子は見られない。閉めて治くんに向き直れば治くんはいつも通りの顔をして、今日の昼食の内容でも訊くように云った。

「人を刺したんだって?」
「あ、あぁ……済まない。急にあんな電話を……」
「気にしないでいいよ。何があったか教えてくれ」
「酒の勢いで、口論になってしまって……」

治くんは何も変わったことは起きていないと云うように鉄が錆びたような最早それよりも不快な臭いが溜まった部屋に歩いていく。「窓を開けてくれるかい」云われた通りに家中の窓を開けると冷たい風が吹き込んで澱んだ空気を動かしてくれた。やっとまともに息が出来るような気がする。窓の外に顔を突き出して深呼吸をして漸く頭が回り始めて、自分のした事の大きさと罪深さににやっと気がついた。

「嗚呼、治くん。どうしよう。僕はどうすれば」
「大丈夫。大丈夫だから落ち着いてごらん」
「そうだ、これは犯罪なのだから警察にいかないと」
「落ち着いて」

もう一度強く云われた言葉に、やっと舌が止まった。でも落ち着くなんてどうすればいいんだ。僕はついさっきこの世で最も重い罪を犯し、人を殺し───そうだ、彼奴はまだ生きてるのでは。

「彼奴はまだ助かるんじゃないだろうか……!」
「無理だ。彼は既に死んでる」

血も止まった彼奴の首を触りながら云われた冷静な治くんの言葉に、少し見えた希望が地に叩き落とされた。じゃあどうしろっていいんだ。

「やはり、自首しなければならないよな」
「そんなことはしなくていい。安心して、全て私に任せてくれたまえ」
「……どうして、僕は人を殺したのに」
「だって、捕まりたくないから私を呼んだのだろう?」

僕は息が出来なくなった。図星だったからだ。
そうだ、僕は初めから救急車を呼ぼうともせず治くんに電話を掛けた。勿論どうしたらいいのか彼なら知っていると思ったからだ。だが、この年まで生きて、救急車の呼び方も知らないわけがない。結局僕は保身にしか興味のない屑だったという訳だ。己を納得させ、治くんと目を合わせる。柴染色は穏やかに僕を見つめ返した。覚悟を決めて、僕は問いかけた。

「……僕は、どうしたらいい?」
「では、私の云う通りにしてくれたまえ」

にっこり笑って治くんは指示を出し始める。これで、本当にいいのだろうか。子供の頃から沢山の善い事を教えられてきたのに、どうして僕はこんなことをしたんだろう。違和感を覚えたが、僕は口に出すことはしなかった。きっと頭がおかしくなっただけだ。



血濡れのスマートフォンの代わりに新しい携帯電話を渡され、夜は必要な荷物だけを纏めて治くんの云う通りに近くのビジネスホテルに泊まった。暫くは此処から仕事に向かった方が良いと云われたが、こんな精神状態で仕事ができるのだろうか。否、僕は随分と薄情みたいだし、意外と出来てしまうんだろうな。



朝が来た。周りの音に耳を澄ませる。誰も居ないはずだ。大丈夫。大丈夫。自分に言い聞かせて、家から持ってきたスーツに着替える。
駅までの道、電車の中、職場、全て恐ろしかった。誰が僕を殺しに来るのだ。誰が僕の罪を白日の元に晒そうとしているのだ。否、治くんの云う通りにしたのだから、バレるはずが無いだろう。
足音だって話し声だって、何もおかしいことはないのに。それでも社長の僕を呼ぶ声、昼休憩の同僚の噂話、退社後の予定を立てる女性社員、全て敵に見えてしまうのだ。




誰かに腹を刺されて死ぬ夢を見た。目覚めた時には汗だくで、シャツを捲って傷がないことを確かめるまで生きた心地がしなかった。
最近足音が付き纏ってくる。後ろを振り返っても誰も居ないのに。僕を責める声がする。当然のことだ。受け止めなければいけないのに。何度謝っても、彼奴の声が頭に響く。ごめん、お前のことが嫌いなわけじゃなかったのに。どうしてあんなことをしたんだろう。許して欲しい。解放して欲しい。身勝手な願いだ。嗚呼、僕の名前を呼ぶ声がいつまで経っても消えない。





もう限界だ。
僕は治くんから渡された携帯電話の電源を入れた。其れには何かあった時のために治くんの番号しか入っていない。縋ることに迷いはなかった。早く解放されたかった。一つ目のコォル、ふたつめ、みっつめの途中で治くんが電話をとった。

『もしもし』
「治くん、助けてくれ」

食い気味な僕の声は掠れていたが、咳払いひとつする余裕はない。一秒の間も惜しい。早く、早く僕を救って欲しい。あの時のように。

『勿論』

その声が随分甘ったるく聞こえたのは、もはや彼が僕にとって唯一の救世主となったからだろうか。






「僕は今まで刃物ひとつ持ったことがなかったのに、酒を飲むだけでこんなになってしまうものなんだな」
「ふふ、私に毒されてしまったんじゃない?」
「君は優しいじゃないか。僕が元来罪深かったのだろう」
「……そんなことはないよ」

治くんに電話を掛けてから幾日か経った。僕は治くんの家に転がり込んで、今は二人で一つのベッドに寝ている。狭いだろうが、少しでも"一人である"と感じると震えが止まらなくなる僕を治くんが気遣ってくれたのだ。申し訳ないが、その優しさにつけ込むしか出来ない自分に吐き気がする。
結局ニュースに彼奴の名前も僕の名前も出ることは無かった。僕が殺して死体を隠したのはバレていないようだ。行方不明というだけではテレビには載せないらしい。人殺し以外には要らない知識だ。
治くんは僕を見ずに話した。こちらに背を向けている乃くんの首に巻かれた包帯が苦しそうで一度解こうとしたらやんわりと止められた。隠したいならば無理に見ようとは思わないが、なんだか不公平な気がした。僕は彼が居なければ生きられないところまで来てしまっているのに。
治くん。そう呼び掛けをして、彼が振り向いても僕は暫く喋れなかった。云いたいこともまとまらないのに先に呼びかけてしまうのは悪い癖だ。「ゆっくりでいい」と云ってくれたから、もう少し悩んで、そして口を開いた。

「君には感謝してもしきれないよ。君が僕を守ってくれるおかげで僕は罪に問われることもなく生活を送れる。だが、これでいいのだろうか。僕は本当に人を殺してしまったんだ。そんな人間が、のうのうと生きていることは、良いことではないと思うんだ」

彼はウンウン頷きながら聞いてくれた。云い終わった頃には又震えが出始めていた僕の手を取り摩って、そして極めて穏やかな声で僕に語りかける。

「君は優しいからね。そう思ってしまうのも無理はないよ」
「……では、これは罪ではないのか」
「勿論さ。君は正しいことをしたんだよ。君を侵したのはあの男だ」
「そう、か。君がそう云うのなら、そうなのだろう」
「ああ、そうさ」

彼の目にかかった髪を払ってやる。髪より少し薄い色の瞳に、この距離になって初めて気づいた。微笑む神の造りたもうた芸術品に、僕はすくわれた。

「僕は君がいないと駄目みたいだ」

こんなことを云うのは何だか恋人のようで恥ずかしいと思ったが、実際そうだった。彼がいないと死体の処理も、死体を棄てる場所も、何も知らないのだから。一人で生きるなんてことが出来なくなっている。秘密の共有者がいるということは、こんなにも息がしやすいと知ってしまったから。怯えなくていい日々が貴いものだと知ってしまったから。誰にも侵食されない彼とだけの日々を失いたくないと強く思う。
治くんはゆっくり瞬きし、僕の額に口付けをひとつ落とした。スキンシップが好きらしい彼に、僕は最近どうも虜になってしまったようで淡い熱が心地いい。幾度も僕をすくってくれた声が云う。

「私はずっとそうだったよ」





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