No one saw the night.


亮が歩くその度にスリッパがパタパタと音を立てる。亮の住む家は広く人間が亮ともう一人しか住んでいないせいで音が良く響き、何をしようにももう一人に亮の居場所がバレてしまうのだ。早速亮が自室を出たことに気づいたらしい亮の倍は大きな足音が亮のいる書斎に迫ってきた。荒々しく開かれた扉から飛び出して来た男が叫ぶ。

「亮! 何処に行くのであるか!?」
「なんて?」

然し男の声は全力でありながら亮の耳には届かず、自分の焦りも何も伝わらないまま聞き返されたことに男はショックを受けた。亮に悪気はない。ただ、亮にとって男のこの行動は最早日常となってしまっただけなのだ。
一拍置いて、そんなことは関係ないとばかりに自分よりも背の低い亮の体を強く掻き抱いた男は、自らの声が漏れなく聴こえるよう亮の耳元で囁いた。

「亮の足音が聴こえて、何処かへ行ってしまうかと……」
「逃げないよ。今だって新しい本を取りに来ただけだし。エドってば心配性なんだから」

困ったふうに眉を下げる亮に、ポオは何も云わなかった。いつだってポオは不安で仕方ない。如何して判ってくれないのか。
ポオの声がくすぐったかったらしく亮が身を捩らせたが、ポオは腕の力を弱めることはなかった。逃がしはしないと雄弁に語るポオの腕を軽く叩いて、亮は今晩の夕食の提案をした。



夕食を腹に収めた後、ポオは風呂から上がった亮と共に自分のベッドに潜り込んで内緒話が出来そうな程顔を近づけて向かい合った。その癖ベッドという場所で照れてしまったポオは亮の日本人然とした黒い目を直視出来ないでいた。

「ねェ、エドはいつおれのことが好きになったの」
「な、なんであるか、突然」
「ずっと気になってたんだよ。おれが此処に来てもう三ヶ月も経つんだから、教えてくれたっていいでしょ」

別に何が変わる訳でもなし。亮が付け加えた。対してポオは気難しそうに、ぐっと口をへの形にして黙り込んでしまう。気にした様子もなく亮はポオの癖毛を指に巻き付けて、ポオの目を前髪越しに見詰めた。

「……あれは、八ヶ月前の話である」
「長くなりそうなら簡潔にね」
「……」

ポオにとっては人生を変えるような出会いを、事細かに説明してやろうと思っていた矢先の一言に出鼻を挫かれたポオはまた黙った。そして亮の首元に鼻先を埋めて、ようやくそろそろと話し始める。

「乱歩君に会う前に、一度日本に行った。そこで迷ってしまったときに、亮に助けてもらったのだ。その時の亮はまるで天使であった」
「はは、天使って。でも何となく覚えてるよ。めちゃくちゃ背の高い外人が困ってたからつい声掛けたんだ」

おれも丁度休憩してたし。ポオはその言葉が嘘だと知っている。
あの時の、拙い英語でどうにか自分を助けようとした亮は本当に天使で、不器用な笑みに心臓を撃ち抜かれてしまった。どうしようもなく亮のことが気になって、調べてみるとポオには都合の良過ぎる事実があった。
亮が日本で勤めていた会社は基準法に合わない労働量にすぐ怒鳴り散らす上司に、働く場所として最悪であった。亮には身内もおらず過労で健康状態も悪い。組合設計長の財力を惜しみなく使い亮と会ってから五ヶ月間で準備を整え、殆ど拐うように亜米利加に連れてきた。最悪な環境から助け出すという大義名分に、もしかすれば感謝すらされるかもしれない。自信たっぷりだったポオだったが、いざ対面したら目に怯えを浮かべる亮に手段を間違えたと大変な動揺を見せてしまった。
亮も初め、それはそれは戸惑っていたが、仕事からの解放されたことやポオに敵意がないことに気づき、ひと月も経てばポオの横に馴染んでいた。いつの間にかポオの分まで珈琲を淹れている亮に、ポオはなんだか上手く事が運び過ぎているような気がしてならなかったが、其れもどうでも良くなるほどだった。亮は相変わらず天使のようで、八ヶ月前にはなかった柔らかな笑顔すら見せてくれる。
一通り聞き終わった亮は相槌をやめ、長い前髪を分けてポオと目を合わせた。

「じゃあやっぱりエドが助けてくれたんだね。でも、それを教えてくれないと、エドが悪い人なのかと思っちゃったよ」
「う……だが、余計なことだと怒られでもしたら我輩は……」
「そんなこと云わないよ。あれを当たり前だと感じるぐらい拙い所にいたんだ。エドにはすごく感謝してる」

面と向かって伝えられたポオは顔が熱くなる。

「でも、一緒にベッドに入るのも珈琲を淹れるのも、ちゃんと恋人になってからが良かったな」

慥かにそうだ。初め寝付きの悪い亮をベッドに引きずり込もうとした時はとても抵抗されたし、ポオの少々不規則な食事に毎度付き合わされるのだって嫌な筈だ。嫌な想像に、つい亮の手を払いのけた。身を縮めるポオを優しく宥めるその口が、柔らかく云った。

「だからね、まずは恋人になろうよ」
「……ん?」
「おれ、エドガーが好きだよ。助けてくれて、優しいエドが好きだ」
「それは……つまり?」

突然呼ばれた自らの名前にポオが戸惑っている隙に、もう一度亮がポオの頬に手を伸ばす。ポオに抵抗はできなかった。

「返事は判ってる心算だけど、エドガーに云って欲しいな」

天使は知らぬ間に、悪魔のような手管を身につけていた。ポオは少し意地悪なその手口にまんまと引っ掛かり、喜びに詰まる喉を震わせた。





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