素敵な支配だね


ふいに集中が途切れ、亮は小説から時計へと目を動かした。寝るための支度を済ませ、本を読んで丁度一時間が経過したところだった。もう深夜と呼ぶに相応しい時間にも関わらず仕事から戻らない恋人に苦笑して、ソファから立ち上がった。カジノの支配人という大それた役目を背負う恋人に、一緒に休もうと声をかけるためだ。今日こそ同じベッドで寝てやるのだ。
万が一何かあった時だけ使えと抽斗に仕舞われた鍵を使うのは初めてだった。設備と質のいい家具が揃ったこの部屋は高級なホテルのようで居心地も良い。欲しいものがあったときはシグマに頼めば直ぐに届けられる。部屋にいてシグマの言うことを聞いておけば衣食住は保証するという約束だった。少々息苦しいとも思える生活に亮は満足していた。
でもこの状況は頂けない。恋人がいるから空虚な生活でも満たされていたのであって、三日も恋人に会えないなんて約束が違うだろうと思う。
長い廊下の先、金持ちばかりの客の中で軽装の亮は悪目立ちしていたが気にもとめず歩いた。記憶の中のシグマの部屋を探していると不意に強い力で腕を引かれた。「うわっ!」突然バランスを崩した原因はなんだと後ろを振り返った亮は犯人の顔を見て驚きも怒りも鎮めざるを得なかった。自分よりも余程酷い顔をしていたからだ。慌ててそこらの管理室へ飛び込んだ亮は初めて見るシグマの表情に、自分がやったことへの罪悪感で胸が締め付けられていた。
怒っていて、それでいて悲壮に満ちた顔をしたシグマはぎゅっと眉根を寄せて泣きそうだとも形容できる震え声で言った。「何をしていた」その声に、亮は言い訳も弁明もできずただ謝り続けた。その度にシグマの眉間の皺が深くなっていく。

「勝手に動くなと云った筈だ」
「ごめん、少しだけだから良いかと思っちゃって」

不服そうな顔を隠しもせず、しかしシグマは頷いた。亮に悪気がないことなど初めから判っていた。それに、悪気があったとしてもどうせシグマには大した罰も与えられない。自分の思い通りにならない亮のことも、そこまで亮に惚れ込んだ自分のこともシグマは憎んでいた。

「此処に何の用だ」
「……シグマに会いたくなっちゃって。でもシグマに迷惑かける心算なんて本当になくて」
「うるさい」

ぎゅ、と強く抱き締められた亮はシグマに見せないように困った顔をして、微かに震える背をぽんぽんと叩いてやった。亮は母親にあやしてもらった子どもの頃の記憶を思い出し、きわめて穏やかな声をつくりシグマの耳元で囁いた。

「ねえ、もう仕事終わりにできないかな? この前シグマに買ってくれた紅茶なんだけど、すごく美味しかったよ。シグマも一緒に飲もう。ノンカフェインだし」
「……今日はまだ業務が残っている」
「でもシグマにしかできないものじゃないでしょ? そろそろちゃんと寝ないとさ」

シグマには自分が凡人であるとの自覚がある。成金から政府の要人まで利用し、一度の会釈すらも大きな意味を持つ天空カジノで情報に漏れがあってはその損害は計り知れない。だから凡人のシグマはこれまでずっと睡眠を犠牲にして全ての客の顔と名前、それに賭事のことを頭に詰め込んできた。
それに、眠ることは恐ろしかった。記憶のない空っぽの頭ではどうにも据わりが悪かったのだ。ただの白い空間にひとり佇む夢は正しく悪夢だった。
だが、今のシグマは伽藍堂ではない。白い空間は二人の寝室になり、其処で亮がシグマを傷つけ、一人置いていく……其の姿を見ることが悪夢となった。一度その夢を見てから、シグマは変わった。亮もカジノも掌から零れ落ちないように、亮をカジノに閉じ込めたのだ。だから亮は外に出られないし、亮の耳には常にGPS装置の付いたピアスが着けられている。
亮は以前シグマにやりたくもない仕事を無理矢理継がされ、天空カジノには付き合いで来たと話した。亮がシグマに興味を持つのが先だったとはいえ、そんなことシグマにとっては一時の気休めでしかない。カジノの総資産は目も眩む額であるが、金銭に興味のない亮には魅力ではない。凡人であるシグマが出せる一番強い手札が潰れているのに、安心していられるはずもなかった。閉じ込めるのが悪手だなんて知っている。それでもやめようとは思えなかった。
亮は監禁も束縛も容認しているが、シグマがどれほど喪失を恐れているかまでは理解が至っていない。だから部屋から出るなと云われてもこうして外へ出るという選択ができた。
ここで怒りに任せて亮を傷つけたり部屋に鍵をかけて閉じ込めたりできないのはシグマの弱さだった。勿論シグマは何度も部屋に錠前を取り付けてやろうと考えた。しかしシグマに愛されたせいで二度と地に戻ることはできない亮をこれ以上束縛して、嫌われたくなかったのだ。又、心の奥底では自らの意思で部屋に留まりシグマに愛を示して欲しいと求めていたが、深層の欲求などシグマ本人も知る由もないことだった。
考えては泣きそうになるのを堪えるシグマの目尻に口をつけ、亮はもう一度シグマに強請る。

「……亮、もう部屋に、」
「ねえ、今日は一緒に寝ようよ。寂しいんだ。おれにはシグマしかいないから」

亮に誰も近づかないよう、客や従業員が一切近づかないようなところに亮とシグマの部屋は作られた。亮にはシグマしかいない。そうなるように仕向けたシグマは相応の責任を取れと亮は云っている。のんびり生きているように見せて、亮はきちんと大人だった。しかしこうも自分が軽んじられては、罪悪感も反転してしまう。おれは全部捨てたのに?シグマはおれが大事じゃないの?
そして、亮はいい加減大人でいることに疲れた。

「だが、私は支配人で……」
「知ってるよ。ねえ、ほんとうに其れでいいの」

まるで思考を読み取ったような言葉に、シグマの息が詰まった。もうやめてくれと名前を呼んでも亮は止まらない。

「おれがカジノにも金にも興味ないことなんて知ってるでしょ。それでも此処にいる理由、本当に判らないの?」
「……亮」
「可愛いおれの恋人。お願い聞いてくれないなら、おれ家に帰っちゃうよ」

亮はシグマといるために継いだ会社を放り出した。きっと亮の家も会社もとんでもないことになっているだろう。亮は人当たりの良い性格をしていることもあり、皆が亮の帰りを待ち望んでいるはずだ。おどけた口調で繰り出された脅しは、亮が思っているよりもシグマに効いてしまった。優位に立たなければいけないのに、亮を引き留めるにはそれしかないのに。シグマの脳は上手く働かない。酸素が足りていないような心地になりながらシグマは亮が望む言葉を吐く。

「どこにもいかないでくれ」

か細い声に、亮はやっとシグマが云う事を聞いてくれたとにっこり笑ってシグマの青ざめた頬を撫でた。空に浮かぶ箱庭とその主人はどこまでも不安定だ。そのことを知らないまま、主人の愛鳥は冷たい手を引いてやる。すべては温かいベッドで共に眠りにつくために。

「大丈夫。ずっと一緒だからね」

頷いたシグマに、今度は亮から抱きしめてやる。シグマは最早何よりも大切な家のことを考えられない。ただの人間の熱を只管に握りしめていた。





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