あなたが幸せに眠れますように
襖が開け放たれた部屋は風をよく通し、柔い光が室内を温める。春の空気に目を閉じていれば小さな足音が聞こえた。片目だけで確認するとそこにはなまえがいて、静かに私へ近寄り、そっと横に座った。
「申し訳ありません。起こしましたか?」
「いいや、寝ていなかったから気にしないでくれ。どうしたんだい?」
「恋人のもとに行くのに、理由が必要ですか?」
「必要ないねぇ」
なまえとは元服前からの付き合いで、主従でありながら友人よりもずっと近くて、家族とは違う親しい関係だ。彼がそれに恋と名を付けたことに異論はなかったが、それのせいで彼が傷ついているのも知っていた。でも撤回はしなかったのは、たしかに彼の想いを独占したかったからだ。彼は知らないだろう。私がわざと彼に縁談を回さなかったのを。
ゆっくりと話し出すなまえの目には静かに燃える嫉妬が見えた。
「あなたに妻ができてお子が生まれた時は、本当に腸がちぎれそうでした」
「……すまないね」
「よいのです。あなたは家を守らねばなりませんから。でも、もうおれのものだ」
すり、と寄せられた頭を撫でればなまえが微笑む。そう、私たちは随分歳をとって、互いの見目も変わって、あの頃と同じものなど何一つないだろう。本当はもう私を好いていないのではと懸念していたが、妻を迎えてもなお私を愛した男に失礼な憶測だったようだ。
「こんな隠居した爺に、何も残っていないよ」
「あなたさえいれば十分ですよ。といっても、おれもすでに爺なんですがね」
「私よりも十も若いくせに……」
顔を見合わせて笑えばゆっくりと風が吹き抜けて、部屋の隅の書をパラパラと捲った。
「あ、そうそう。書を書く時間も増やせるだろうし、たくさん読んで欲しいな」
「…………まぁ、いいでしょう。立花様の言葉をちゃんと活かしてくださいね 」
「厳しいなぁ」
二人で昼寝でもしようとしたところで息子たちの走り回る音が遠くから聞こえた。どうやら眠れるのはまだ先のことらしい。
Top