「出てきて。お願い」
ニーナの声がする。目は開いていないはずなのに不思議とニーナの気配を感じることができた。
「君は何を恨んでるの? アタシにはわかんないよ」
何も恨んでないよ、と言いたいのに口は勝手に震えだす。俺の感情じゃない、この不安や恐れは。
「裏切られたの? 誰か……ロザリオが関係している女性に?」
「……ぁ、が……」
「教えて、ゆっくりでいい。でも、今日でここから出て行って」
これは誰の叫び声だろう。随分と遠くに聞こえる。ニーナは、大丈夫だろうか。彼女に何かあったら。
「手を、握るから。話して」
ニーナの手の温もりがじんわりと指先から広がっていく。それと同時に、自分の手の冷たさに驚いた。手の甲をニーナがゆっくりと撫でている。体温が伸びて、また収縮する。いつまでも俺の手は冷たい。
「……なんとなく、わかったよ。2年前の婦女ロザリオ刻印事件の犯人は君だね」
息がつまる。その事件は。俺の動揺と、違う誰かの悲しみ、憎しみ、恐怖が一気に押し寄せてわからなくなった。何が、何が起きているのかわからない。自分が今どんな感情でいるのかもわからない。どうすればいい。俺は、今何を……?
「お願い。ダニーから出てって。私の除霊能力じゃあなたをちゃんと成仏させられない」
ニーナ。
「今はまだダニーが頑張ってるから君は表に出てこない。でももし、ダニーに何かあったら君はまた出てきてダニーを苦しめちゃうでしょ」
何を、言ってるんだ。
「君が憎んでる彼女はもう、ここにはいないよ。どこにも、いないよ」
意識が遠のく。ニーナの気配も消えていく。手の温もりだけがずっとほのかに残っている。
「……うん、ありがと……た……せつ……から……」
*
「……さん、おじさん……おじさーん! おーきーてー!」
いつも通りの甲高いニーナの声に目を覚ました。オフィスの中は陽の光で溢れている。暗いオフィスの景色の中にニーナを見た気がするのに、それが夢なのか現実なのか思い出せない。
「もう、みんな出勤してきちゃうよ。おじさん、お風呂はいってないでしょ。早くシャワー室行ったほうがいいよ」
「ん……ていうか、なんでニーナがここにいるんだ?」
「おじさん、いくら電話しても出ないんだもん。どうせまた泊まってると思ってきちゃった」
「わざわざどーも……。で? なんか用あったんじゃないのか?」
ふと、夢の中のニーナの温もりを思い出した。あれがニーナだったのかも曖昧な夢だったが、手の甲の暖かさはまだ残っていた。
「んー……あれ? なんだっけな」
あははははと笑うニーナの笑顔が眩しい。ニーナとバディを組むようになって数ヶ月が経つが、いつの間に俺はこの子にほだされたのだろう。
「ほらほら、早くシャワー室行く! しょうがないからおじさんのデスクちょっとだけ整理しといてあげる」
無理矢理起こされ、ニーナに背中をぐいぐいと押される。こんなお節介な小娘がバディであることに慣れつつあった。頬に笑みを浮かべながら少し嬉しいため息をつく。
*
部屋を出て行ったダニーの背中を見送った。もうその背中には何もついていない。
出会った頃からずっと気になっていた、モヤのようなものは彼と捜査を進めるにつれてどんどん人の形を増していった。これは、ダメなやつだ。そう思ってなんとか彼から引き剥がそうとしたのが昨日の夜のこと。なんとか霊はダニーから離れてくれた。
ダニーがこの特別心霊捜査課に移動されてきたきっかけになった事件、「婦女ロザリオ刻印事件」の話をダニーから聞いた時、あああの霊の仕業だったんだと気付いた。
霊は意外と誰にでも憑いている。除霊能力のある霊能者は霊の方が敬遠するから例外だが、ほとんどの人の背後に霊はいるのだ。それが悪霊だったり守護霊だったり、は人によってそれぞれだ。どちらにせよ、その霊が表にでてきて体を乗っ取ろうとするかどうかはその人の精神力次第だったりする。ダニーは普段から気を張っている分、何かでその芯の部分が揺らいでしまったら一気に崩れて行く。本人さえ気づかないうちに。
そっと未解決事件ファイルから「婦女ロザリオ刻印事件」の資料を取り出す。解決済みのスタンプを思いっきり押した。
多分、このフロアにいた霊能力者が気付いたのだろう。ダニーがこの事件の犯人の依代になっていることを。だから彼を異動させた。実際には、彼の中のれいが犯人であること隠すためなのか、霊に関わりのある人間だからなのかはわからないけれど。
倉庫に移すための段ボール箱の中に「婦女ロザリオ刻印事件」のファイルを紛れ込ませた。具体的な解決はどこにも明記してないけれど、これだけある事件ファイルの中では気づかれないだろう。
ぐっと伸びをした。霊能力を使うときは本当に体力を使う。昨晩は、ダニーの中から霊を追い出した瞬間気絶するように眠ってしまったくらいだ。なんとかダニーより早く起きれてよかった。この事実はダニーにも、他の誰にも知られたくない。知られてはいけない。
ダニーは私が守る。バディだから。
お気に入りの鼻歌が自然と口から漏れていた。捜査資料に埋もれたバディの机の上に手を伸ばす。
婦女ロザリオ暴行事件
ダニエルとニーナのはなし。