「なによんでんの?」
学園の一角、何の変哲も無い場所で妙に憂いを帯びながら書物を広げている鬼を見つけた。恋野春彦。日ノ本出身の鬼人だ。うさんくさい糸目と長髪、加えてうさんくさい喋り方。物書きらしく本を読んでいるところをよく見るけれど、その書物の中身はあんまり見えない。
「昔のひとが残した戯作さ。読んでみるかい?」
「興味なくは無いけど、アンタ読んだなら説明してよ。」
隣にストンと腰を下ろす。頬を春風が撫でていった。揺れる髪の毛が角に当たってほんの少しくすぐったい。
「そうだね……アタシたちが生まれるよりずっと前のことだ」
何でも無いことのように語り始めた春彦の声が妙に心地よくて、風とともに耳をすませていた。物書きだからか、強化魔法の前口上をいつもややこしく喋っているからか、話の内容はすんなりと頭の中に入ってくる。
命を狙われた幼君、忠義を尽くし、命をかけて守ろうとする乳母と、その子供。話の中心は彼らで進んでいく。様々な女や男の陰謀が入り乱れ、やがて乳母の子供は幼君の代わりに死んでしまった。目の前で命を失っていく子供を見つめながら、それでも自分の役目を一切見失わない乳母の悲しみが静かに彼の口から謳われる。
「悲しい話だね」
「そうさね」
なんでもない日の午後だった。
「アタシはこの乳母になるのだけは嫌だよ」
僕はこの話を忘れない気がした。
*
「ねぇ、僕のこと殺してくれない?」
一陣の風が僕たちの間を通り過ぎていく。春彦はいつも通りの表情で僕の言葉を聞いていた。沈黙が訪れる。僕の懇願が溶けていくように。
「死にたいなら一人で死ねって感じだけどね、悲しいことに僕の種族は自殺ができないの」
驚くほど滑らかに僕の口は動く。
「情けないでしょ、自分で何もできない……僕は結局、そういうヤツなんだよ」
ああ、死んでしまいたい。これ以上僕が目の前の男に軽蔑されるのなら、今すぐここで死んでしまいたい。僕は弱音を吐くことすら自制できない情けない忍鬼だった。僕が何かを変えるなんて、僕が何かを守るなんて、結局はできないに等しい。守られてばかりだ。悔しくて、悲しくて、情けなくて、どこにもこの感情をぶつけることもできない。
「アンタ、一体何を聞いてたんだい?」
低く、落ち着いた声が頭上から降る。
「アンタが一人であの化け物に挑んでいたとき、アタシはアタシの言葉に耳を貸してくれたから落ち着いたと思っていたんだよ。それがなんだい? 殺してくれ? 寝言を言うのも大概にしな」
縋るように。
「ここで死んで何になる? 言えるものなら今ここで説明してごらんよ。え? なぁ、茉紘」
僕はゆっくりと俯いていた顔を上げた。
「死んで楽になるのは勝手だよ。けれどアンタが望むようなことには決してならないね。その上アタシの手を汚せ、たァいいご身分になったもんだ」
視線がかち合ったとき、少し前の会話を思い出した。ある春の日、春彦が僕に教えてくれた悲劇を。やりたくない、といっていた唯一のことを、僕がさせようとしてしまっていることに。
「アンタはそんなに幼かったかい。アンタはそんなに弱かったかい。アタシが知ってる茉紘とは大違いだよ」
「……うん」
ごめんね、と僕がそういったのかどうかは、定かではない。ただ先ほどまで感じていた罪悪感も、無力感も、不安も、悲しみも、憎しみも、情けなさも、全部が宙に溶けて消えていったかのように体から抜け出ていった。不思議と軽くなってしまった体を僕は支えることができなくて、そのまま、糸が切れるかのようにその場に倒れこんだ。
ぶつくさと文句の言う声が聞こえたような気がする。僕の体を抱え上げる温もりを、感じたような気がする。