狼の調べ
此処に来たのは、何れ位振りだろうか。初めて此の邸に来た時肝を抜かれ、其れは今でも変わらない。初めて来たのは、木島に呼ばれた時だ。
在の時は確か、外門の呼び鈴を鳴らした。しかし今は、勝手に開く。馬車から下りる事無くすんなりと入れる門構えは、相も変わらず、私を腹立たせる。
馬車から降り、足を地に着けた。不愉快な程迄に鳴る砂利道。変わっていなかった。
「帰りは歩いて帰るから、良いぞ。」
そう発し、馬車を見送る。
音に気付いたのか、ドアーが開き、愛妻の愛弟が姿を現す。愛妻より低い背は、目を離すと消えてしまいそうだ。
屋敷の中に靴音が響く。其れに紛れ、美しい調が、聞こえた。ヴァイオリンの、優しい音。
「此れは。」
私の声に時一は、顔を動かした。微かに口元を歪ませ、笑う。
「兄さんでしょう。」
「木島さんか。」
驚き、足を止めた。此の美しい調。到底、在の男からとは思えない。
「真か。」
「此の家で、ヴァイオリンを弾けるのは、兄さんしか居ませんから。」
此処に来た目的を忘れ、私は、聞き入った。唯単に、上手い、という訳ではなく、繊細な、悲しい音色。酷く、涙を誘う。
私の心を察したのか、時一は、笑った。
「兄さんが弾く時は、酷く悲しい時だけです。後は何か、女性に頼まれた時だけ。兄さん、頼まれたら嫌と云えない体質で…。自分の意思で弾くのは、本当、悲しい時だけです。」
だから、此の音は、酷く切なく、涙を誘うのだろう。
「でも、久し振りだな。兄さんが弾くの。何かあったのかな。」
心配を見せるが大して興味が無いのか、私を置いて時一は足を進めた。其れに置いて行かれない様、後を追う。
案内されたのは、前と同じ、応接間だった。獣の臭いに、噎せる。
しかし其れは、長年に渡り染み付いた獣達の最期の足掻きで、在の趣味の悪い剥製達は姿を消していた。
在の、狼以外は。
私は再会の意も込め、其の狼の前に、膝を屈した。
「元気だったか。」
其れは笑い、鈍く瞳を光らせた。
「そうか、其れは良かった。」
頭を撫で、立ち上がると其処に時一の姿はもう無かった。特に気にも止めず、広い応接間を見渡した。
寂しい。
そう、思った。
冷たい空気が唯流れている。
「一人で、寂しくないか。」
私は其れに聞き、笑った。
「そうか、御前は俺と同じで、結局は一人何だな。」
―――ソウサ。
そう、聞こえた。
座って良い物か考えてたが、立っているのも何だか疲れ、真新しいソファーに座った。今度は皮ではなく、布で、柔らかく、音はしなかった。沈む様に、腰が下がる。背凭れに頭を乗せ、聞こえる調に、目を閉じ、耳を傾けた。
何て、何て、悲しい音。
活気良く弾けとは云わないが、切な過ぎる。
此の曲事態は知らないが半端な所で、音が止まった。其れ位は判る。私は目を開け、天井を見た。
何れ位経っただろうか、今度は、違う音色が混ざり、新しい調を作った。
ピアノ。
此処に人間は、何でも出来るのだな、と、鼻で笑った。心成しか、先刻の音とは違い、切なさが少ない。瞬きもせず、天井の一点を見詰めた。
ふと、視界が暗くなり、程無くして馴染みの顔が現れた。
「よう。」
井上だ。
相変わらず退屈そうな顔に、笑みを浮かべている。私は頭を上げ、井上の顔を見た。
「御前も、呼ばれたのか。」
「嗚呼、断ったら、後が怖いからね。」
井上は鼻で笑い、剥製を見た。興味をそそられたのか近寄り、じっと見、そして私の横に座った。
「龍太そっくり。」
「俺も、そう思っている。」
二人で剥製を見詰め、調に耳を傾ける。すると、段々、可笑しな事が起きてきた。何か、音色とは違う何かが、聞こえる。
私は不審に思い、辺りを見渡した。
まるで、此れは。
「遠吠えが、聞こえないか。」
私の発言に、井上は顔を崩し、首を振った。
「幻聴だ、幻聴。」
井上には聞こえないと云う事は、当然そうなる。しかし、私には、そう思えば思う程、はっきりと聞こえる。
私を見詰めた其れが、確かに、唸っている。
普段の私なら、怖い筈なのだが、不思議と怖くなかった。誘われる様に、沈んだ腰を上げ、其れに近寄った。
「如何した。」
あやす様に云う私に、井上は、勘弁してくれ、と嘆いた。頭を撫で、私の体は、強張った。
此の狼の感情が、身体に流れ込んできた気がしたのだ。主人に対する忠誠。其れに愛。音色と同じ様な悲しさを持っていた。
小さく笑う声。
私達は其の声の方に顔を向け、すると其処には愛妻が静かに笑い、壁に凭れていた。
「龍太郎様は、本当に、其の子が御好きな様ですわね。」
くすりと笑い、近寄る。
「此の子は、御兄様が飼っていた狼ですわ。」
愛妻が頭を触ると、ぴたりと声が止んだ。
怖く感じなかったのは、私が、同じだからだろうか。
「此処に居た剥製達は、父が趣味で集めていた物でしたけど、此の子は、御兄様の可愛い子。死んで剥製にしたんです。」
其の説明に、納得した。私は其れを触り、静かに微笑んだ。
「主人の音色に、誘われたか。」
美しい調べに誘われ、私も、其れも、ナかずには、居られなかった。
其れに額を付け、調に、声を預けた。
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