御友人


ベルが鳴った。私は手伝いよりも早く玄関に向かい、居た人物に驚いた。軍服姿しか見た事無いが、此の顔は確かに。
「井上、様。」
私は唯々驚き、目を見開く。彼が此の家に来たのは、実は初めてである。そしてこうして言葉を交わしたのも、実際此れが初めてである。
「よう、御嬢さん。」
其の声に、眩暈が起きるのを知った。何て、何て悲しい声色か。
「あの、今主人は。」
「嗚呼、知ってる。待たせて貰っても良いかな。」
私は頷き、彼を中へと入れた。決して、媚び諂う事の無い彼。私が木島の娘だろうが、妹だろうが、彼には全く関係が無く、親友の妻、本郷時恵として、接する。其れが頗る、心地良い。人間なのだな、と再確認出来る。
家で一番広い第一応接間に通したが、彼は嫌そうな顔をし、一番狭い応接室に移す様云った。
「宜しいんですか。こんな、狭い部屋で。」
「構わねぇよ。俺が用なのは、龍太だけだ。部屋じゃない。」
そう云って彼はソファーに座り、寛ぎ始めた。テーブルに置かれた灰皿に目を遣り、じっと見る。
「嗚呼、構いませんわよ。」
彼の方に灰皿を近付け、促す。
「良く判っていらっしゃる。」
彼は笑って、煙草に火を点けた。私は此処に居て良いのか迷うが、彼が何も云わない所を見ると居ても不愉快ではないのだろう。私も、向かいのソファーに座った。
「時恵様、珈琲を御持ち致しました。」
かちゃりとカップが置かれ、彼は興味無さそうに其れを見た。
しかし。
如何やら、手伝いの方には、興味を持った様だ。
「美人だな。」
手伝いは一瞬止まり、彼の顔を見、其の目に、手伝いは頬を赤くする。私は其れを、唯見ていた。
彼の噂は、良く聞く。私はそんな彼を止めもせず、珈琲に口を付けた。手伝いが彼に手を出され様と、私には関係無いのだ。
「あの、井上様。」
此処に来た理由を聞こうとする。しかし。
「あのさ、其の、井上様って、止めてくんねぇか。」
彼は長い髪を荒く掻き上げ、其の侭の状態で私を見た。
「では、何て御呼びすれば。」
彼は云ったもの考えは無かった様で、視線を逸らし手を解いた。羽の様に落ちる髪。
「ほら、矢張り、井上様ですわ。」
笑った私に負けたのか、彼は小さく笑った。彼も、笑うのだなと、張り付いた笑顔だが、そう思った。
其れから程なくして、主人が帰って来た。
「御帰り為さいませ。」
「御帰り為すったか。干物になる所だった。」
居る彼に対し、一瞬困惑した様な表情を浮かべ、そして考えた。
「何で、御前が居るんだ。」
「なーに云ってんのよ。呼んだのそっちだろう。」
主人は更に考え込み、彼の横に座った。
「そんな事、云ったか―――。」
「おいおい、痴呆にゃ未だ早いぜ。」
「云った記憶もあるが、あれ、今日だったか。」
「もう、勘弁してくれよ。御前最近、忘れっぽいぞ。」
主人は恥ずかしそうに俯き、彼の手から煙草を取り上げ、そして吸った。
「あー、思い出した。云った。」
彼に人差し指を向ける。
「云ったろう。」
彼も又、同じく人差し指を向ける。
「云った云った。」
主人は手を叩き、思い出した様に、部屋から出て行く。直ぐ戻ってくるのかと思ったが、何時迄経っても戻ってこない。其れも其の筈。着替えていた。其の手には、見慣れない瓶を持っていた。私は怪訝な顔をし、其れを覗き込む。
「酒だよ。」
「まあ。」
其れを見た彼は手を叩き喜んだ。
「此れ此れ。会いたかった、俺の可愛子ちゃん。」
渡された瓶を受け取るや否や、頬擦りを始めた。酒好きとは主人から聞いていたが、此処迄好きとは思わなかった。私は其れを見、暫く考えた。
「一寸、御待ち頂けますか。」
私は腰を上げ、台所に向かう。
確か、私の記憶が正しければ、誰も飲まない酒があった筈。私も、飲むけれど、そうは飲まない。ましてや主人。下戸の主人が飲む訳は無く、棚の中にしまった侭になっていた。
「あった。」
私は其れを掴み、応接間に戻った。中では、瓶を愛しそうに眺める彼の姿。其れに笑った。
「井上様。」
私は掴んでいた、主人が渡した瓶よりも大きな瓶を、テーブルに置いた。銘柄を見た瞬間、彼は絶句し、ぽかんと口を開けた侭口を閉じる気配は無かった。
「何処にあったんだ、そんな物。」
私でも忘れていたのだから、主人が知る筈は無い。私は小さく笑い、グラスを三つ、置いた。
「さあ、飲みましょう。」
其の言葉に、彼はにやりと、笑った。
「良いね、御嬢さん。嫌いじゃねぇ。」
寂しそうな彼の目が、楽しそうに揺らいだ気がした。
彼は、主人と違う、魅力がある。
憂いを帯びた其の目は、母性本能を擽る。
そうして私は、彼の此の目を、いや、彼に似た目を、遠い昔、何処かで見た事がある気がした。




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