掴めない男


煙草を消し、首に手を置き、少し伸びをした。開けた窓から、冬の匂いが入る。冷たい、其れでいて、嫌いでは無い匂い。肺の奥深くに入れると、気持が良くなり、気が少し紛れた。
最近如何も、時恵の事が頭から離れ無い。未だ子供じゃないか、と云い聞かせてはみる物、身体は聞いてはくれない。
先日等、考えただけで、自然の摂理に従って仕舞った。男とは何とも情けない生き物である。
ゆっくりと目を閉じた。
甘い匂い、厚みのある何とも柔らかそうな唇、小さい身体。目を閉じただけで、自然と浮かぶ。
「重症だ。」
「全くだな。」
突然聞こえた井上の声に、勢い良く目を開いた。
「来たのか。給料泥棒。」
「昼間っから、はしたない恰好してる奴に云われたかねぇな。」
眉間に皺を寄せると、井上は、人差し指を下に向けた。其れに従い、視線を落とす。不自然に膨れた、足の付け根。顔が痙攣した。
「此れは、違う。」
「何が違うんだね、本郷君。」
井上の目付きも嫌だが、部下の目が痛い。うわぁ、と、小さな声さえ聞こえてきそうだ。龍太郎は一咳きし、井上を見た。
井上は、中々掴めない男である。表情が無いと云うか、感情が無いと云うか、何時も何を考えているか判らない。何時も、唯、薄い笑みを溢しているだけである。幼い頃から連れている龍太郎でさえ、井上の心は判っていなかった。
「何か、用か。井上さん。」
「仕事。」
三枚の書類を、気怠そうに渡し、机に置いてある龍太郎の煙草に手を伸ばした。龍太郎は一瞥するだけで、決して何も云わない。云った処で、云う事を聞く奴では無いと知っている。決して信念を曲げない。其れだけは、判る。芯が強い、では無く、傍若無人。
書類に目を通し、井上を見た。
「赤線外…。其れで、俺達か。」
「そう。」
小さく溜息が出た。
「何で俺達が、訳の判らん娼館の取締りをせなならん。」
「訳が判らんから、取り締まるんだろうが。」
阿呆、と小さく呟き、煙を吐いた。実は、此の手の類の仕事が、龍太郎は苦手だった。井上の様に、女を抱く事も、娼館に行く事もしない。真面目、では無く、嫌悪している。男女の関係を。何故なのか自分でも判らないが、昔から。
「良い事教えてやろうか。」
薄い笑いが、厭らしい笑いに変わる。
「其処の一番さん、某レイディにそっくりだそうよ。」
「某レイディ?」
煙草を消し、ゆっくりと視線を下にやる。其の目付きさえ、感情は無かった。唯黒い、鉛玉。
「龍太が考えて、おっ立ててる方かな。」
「そうか。」
「そうさ。」
楽しそうに笑い、又何時もの顔に井上は戻った。
「だったら尚更、御断りするよ。」
「ほうほう。成程ね。」
「何だ。」
「触れも出来ねぇ、囁きも出来ねぇ、だけど然りと反応はする。」
「何が云いたい。」
二人の声が、大きく、そして強くなってゆく。其の様子を部下達が心配そうに見ていた。此れは、挑発。感情を高ぶらせ、意の侭にするのは、戦法。
「御前の挑発には、乗らん。」
「乗らん、そうかい。の割には、一層眉間に皺寄ってるぜ、龍太郎様。」
「良い加減にしろ。」
掴み上げた襟にさえ、井上は笑う。其の態度が、気に食わない。
「返事はしたかい、本郷龍太郎。愛しい愛しい御嬢さんの父上に。」
「御前には関係の無い事だ。」
「関係無い、ね。迷惑してんのはこっちなんだよ、阿呆。御前の過去を散々聞かれ、知らん存ぜぬ、どれだけ云った事か。」
手が離れると、薄い笑みを浮べた侭、襟を正した。龍太郎は、再度溜息を吐き、書類に目を戻した。
「判った。引き受けよう。が。俺は行かん。」
「構やしねえよ。御前が行こうが行かまいが、摘発さえしてくれりゃ。」
戦略。
龍太郎が行く事は決して無いと、初めから判っていた。
知っていた。
こうして、井上は人を操る。自分とは異なる頭の良さに、嫌悪と共に、羨望があった。
「御前が。」
「ん。」
「御前が、此の国の一番になったら凄いだろうな。」
世辞等では無く、本心。だから、こうして、気に食わない処がある乍らも、今も一緒に居る。
「ふ。興味無いな。」
加えて、無欲と来る。龍太郎には無い、薄い笑いから来る、絶対的な自信。媚もせず、今日が楽しければ良い、明日死のうが、知った事ではない。厭らしく、そして、良い男だ。
無言の龍太郎に首を傾げ、無言で煙草を咥えた。
「良い男だな。」
「嗚呼?気持悪ぃ男だな。」
「俺の野心を少し分けてやりたい。」
「絶対要らねえ。」
「本当に欲の無い男だ。」
「欲は。」
咥えていた煙草を離し、箱に戻した。
「限りが無い。次に次にと、欲する。煙草と同じだ。中毒になる。だから、要らねえ。けど煙草は貰って行くぜ。」
「好きにしろ。」
「…御前もな。」
口角を少し上げ、下に目をやる。
「如何にかしろよ。変態に間違えられるぞ。」
「用が済んだら、さっさと帰れ。」
「嗚呼、はいはい。帰りますよ。」
軽く肩を叩き、書類に目をやった。黒い、光の見えない、目。本人は、死んだ魚の眼と笑うが、此れは違う。
全てを飲み込む、穴。
何処迄も黒い、底の無い穴だ。
「期待してるよ。」
そうして、井上は、全てを、意の侭に操る。
其の晩、此の町から、一つの娼館が、暗い闇の中に葬り去られた。




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