思い
時一の部屋から一冊の書物を手に取ってみた。緑色のヴェルベットの背表紙に魅入られた為だ。出したは良いが見慣れない横文字に時恵は顔を歪ませ、ぱらぱらと頁を捲った。
全く判らない。
こんな物を十五歳の弟が読んでいるのかと思うと、複雑な気持を持つ。
「其れ、仏蘭西語ですよ。」
聞こえた愛らしい声に、時恵は振り返り本を直した。
「御免為さい、勝手に。」
「良いですよ、差し上げます。」
笑った時一に、時恵も笑った。
「でも姉上は。そうだな、此れが良い。」
大きく背伸びをし、うんうんと唸り、漸く本棚から、今度は紺色の本を一冊抜いた。其の姿が愛らしく、時恵は小さく笑うが時一は悔しい。くしゃくしゃと顔を歪ませ本棚を見上げた。
身長と本の量が追い付いていない。本は増える一方で本棚は横にも縦にも増大し、しかし其の本人は変わらない。兄が出し入れをするから兄にして見れば問題は無いのだが、所有者の時一には大変な問題である。そろそろ踏み台でも要るかな、と笑い、やっとこさ引き抜いた本を時恵に渡した。しかし、渡されたは良いが、此れも矢張り、横文字である。
「悪いけど、ワタクシ、横文字は読めないの。」
「そうでしたね、済みません。」
泣きそうな時一の顔に、時恵は頭を撫で慰めた。そうして考えた。
「兄上は。」
こんなに頑張ら無く共、此れを調達した本人に取って貰えば済んだ話では無いか。
「嫌だなぁ、仕事ですよ。」
二人は笑う。
そうであった。兄は自分達とは違い、酷く多忙なのである。
引き抜いた本を捲り、時一は座った。どの頁に何が書かれているのか覚えているらしく、視線を文字に滑らす。態とらしく咳払いし、ちろりと時恵を見る。釣られて時恵も笑った。
「彼は私の手を取り、優しく微笑んだ。そして云った。ジュテームと。」
読む声は小鳥の囀りに聞こえ、時恵は目を瞑ると深く息を吸った。優しい其の声。
「ジュテーム。」
聞き慣れない言葉を時恵は復唱した。呪文の様で、何だか面白い。
「仏蘭西語で、愛してる、です。」
「素敵な言葉ね。」
時一は笑う。
「思っても見なかった彼の言葉に、私は声を無くし、涙が零れた。…嗚呼、素敵ですね。」
「ええ、とても。」
自分以外が、愛おしい。そんな感情が、又、愛おしい。
「兄上は、貴方を愛して下さって。」
優しい目で時恵は聞いた。
「ええ、申し訳無い程。とても。情熱的に。」
「素敵な事ね。」
「姉上こそ。」
時恵は笑った。其の顔は一瞬で、陰りを見せると椅子から立ち上がった。窓に近付き、時一に背を見せる。
「戦争が始まるかも知れないわ。」
時恵の背中を見ていた時一は俯き、無言で本を閉じた。
「そうなれば矢張り、兄上も、軍医として、行くのでしょうか。」
「如何かしら。木島の人間だから、周りが反対すると思うけれど、兄上は。」
「医者として、選ぶでしょうね。」
無言。
「時一…。泣かないで頂戴。」
「嫌だ…。戦争何て、嫌だ…。」
切実な願い。
「兄上が、死ぬかもしれないなんて…。」
窓から手を離し、脆く壊れそうな時一を強く抱き締めた。
「行かせはしないわ。大切な、人等…。」
「戦争が、憎い。」
時一は、云った。
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