結婚報告
家に来た時一から、驚く事を聞き、私は声帯が潰れる程叫んだ。龍太郎様も、聞かされた事に驚かれた様だけれど、私の声の方が大きく、其れに驚いた御様子。耳を塞ぎ、音量を調節する。
「な、なん、な…」
私は動揺し、上手く言葉が繋げないでいた。
「へぇ、そうか。」
龍太郎様はニヤニヤと笑い、喜んでいる。正に、鬼の首を取ったり。
「此れで在の変態兄じゃとも、御去らば。ハッハッハッハッハ。」
高らかと勝利の笑いをする龍太郎様。しかし私は其れより、其の事実に眩暈が起き、力が抜け、ふらふらと座った。
「御兄様が…御兄様が…」
結婚する。
私は混乱し、笑う。笑う事しか出来無い。
御兄様が結婚するからショックなのではない。寧ろしてくれた方が、其の歪んだ変態テヰストな愛情の限りを見なくて済む。
何が衝撃か。
其の変態と結婚する人間が居た事に対してだ。
今迄御兄様が結婚しなかったのは、其の変態加減に呆れられ、女の方が逃げたからだ。そして御兄様自体、誰かに縛られる事を酷く嫌う。だから結婚をしていなかった。
妹の私が云うのもなんだけれど、顔は良い。其れに加え、元帥の称号、木島の倅、少し抜けている所が又母性本能を擽る。
嗚呼嫌だ、褒めてしまった。
容姿端麗、頭脳明晰、肩書き家柄全て甲。そんな拍子の揃った御兄様を、世の女が放っておく訳は無い。なのに今迄結婚しなかったのは、最後の壁、変態という壁が高く聳えていたから。
其の壁を難無く崩壊させた女が居る。そして其れを眺めて居ただけの御兄様。
私は、尊敬さえする。
「御兄様がっ。御結婚っ。あっはっはっはっは。」
等々私は声を出して笑った。此れが笑わずに居られ様か。其れに、龍太郎様も時一も引いている。引かれても良い。笑わずには居られない。
「今日は嘘を付いて良い日かしら?時一。」
時一に凄み、怯えさせた。
「い、いいえ…。今日は、何も無い日です…」
怖さに泣きそうになる時一。
「嘘は万死に当たってよ、時一。」
「嘘では…無いです…」
「時恵、落ち着き為さい。時一君、怯えているではないか…」
龍太郎様に窘められ、私は平常心を取り戻した。
「こほん。御免為さい。」
「いいえ…」
笑顔で云うが、時一の怯えは収まらなかった。がたがたと震え、兄上を呼んでいる。そんな姿さえ、可愛らしくて、食べてしまいたい。嗚呼、兄上が羨ましい。
「其れでですね、姉上。」
珈琲を飲み、震えを止める。
「婚礼の日和ですけれど、此方側で勝手に決めて良いですか?」
「…何故、ワタクシに聞くのかしら。」
結婚する相手は私ではないのに何故聞く。勝手にしろ。
そう云えば、私が結婚をする時、何故か御兄様が日和を決めた。其れが癪に障ったものだ。
「…一寸、良いか。」
龍太郎様は小さく手を上げ、時一に質問をした。
「俺は、どっちで出れば良いんだ?」
「はい?」
時一は、何の質問か判らず、首を傾げた。
「中尉としてなのか、義弟としてなのか…」
そうだ。忘れていたけれど、御兄様は、龍太郎様の義兄でもある。本当に、忘れていた。
「…さあ…。僕に聞かれましても…」
困る時一。確かに時一に聞いても判らないけれど、大事な気がする。
「そうね…。此れは、困ったわ…」
御兄様の事だから、身内とするのは嫌だろう。腸煮え繰り返る程嫌であろう。しかし龍太郎様が居ない部隊も、何だか拍が無い。矢張り中尉の立場を重んじるべきか。
そうなった時、困るのは私だ。
夫が居るのに其れに参加しない夫。そんなのは所詮御兄様の式なので如何でも良いが、一人は嫌だ。惨めな気がしてならない。
中尉の立場か、夫の立場か。
「困ったな…」
ええ、全く以って。
「仰、行きたくない。」
「其れですわ。」
私は龍太郎様の顔を見、手を叩いた。
「何故あんな変態を祝福しなければ為らない。」
「そうですわ。勝手に結婚すれば宜しいのよ。ワタクシ達の式をぶち壊し、婚姻生活をも破壊し尽くして、何が祝福よ。」
私達の式を思い出し、怒りが現れる。其れは龍太郎様も同じに違い無い。
「一番大事な時、在の変態何したと思う?」
「ええ、見事に破壊して下さいましたわっ。ええもう本当に有難いっ」
時一も思い出し、嗚呼、と怒りを孕んだ声を出した。
「在の時ですね。」
「そうっ。在の時だっ。俺の両親顔引き攣ってたぞっ」
「そうですわっ」
怒りで声が大きくなる。
在の時。在の時とは、私が龍太郎様の元に行く時、詰まり、木島家から本郷家に移り変わる時。木島の席から、本郷の席に移る、誰もが涙を浮かべ、一番美しい時。其れを在の御兄様は見事に破壊した。
雅楽が響く其の神秘的な雰囲気を、御兄様は豪快なくしゃみで、全てを滑稽な雰囲気に変えた。演奏していた人間も、何事かと演奏を止めた位だ。怒りや羞恥で震えた父に、式の最中だと云うのに怒号を浴びせられた。そして出た言い分けが、だって風邪引いてるんだもん、だ。風邪を引いている、だと。誰が今日すると云った、御前だろうと私は御兄様を睨んだ。兄上は頭を抱え、時一は放心した。井上様に至っては、余程面白かったのか、狂った様に笑っていた。そして私は、余りの不甲斐無さに泣いたのを覚えている。
其の後、どんなに素敵に事が運ぼうが、祝福の大砲が鳴ろうが、一件のくしゃみの所為で、どれも陳腐に見えた。父が人に頭を下げているのを見たのも、在れが最初で最後だった。
「人の式を滅茶苦茶にしておいて、何が祝福だっ」
「そうですわよっ。御祝儀なんて、びた一文差し上げるもんですかっ。生ごみを差し出して、生卵ぶつけて差し上げてよっ」
「在の鳴り響く大砲を、木島に向けろと何度云いたかったかっ」
「在れ以来雅楽が嫌いになりましたのよっワタクシっ」
そんな御兄様が、結婚。一人だけ幸せに式に望もう等、神が許そうと私が絶対に許しません。
「何だか波乱の予感ですね。」
楽しそうに、笑顔で云う時一でした。
*****
抑、何故行き成り結婚を考え始めたのか。時恵は其れが不思議だった。今迄散々女を取っ替え引っ替え、挙げ句に孕ませ無数の水子に憑かれ、其れでも結婚をしなかった。同時に、時恵に異常な迄に執着を見せる以上其れは無いと周りも考えていた。
「何故でしょう、兄上。」
珍しく家に居た宗一に聞いた。年が近い為考えが似ていると時恵は思ったのだが、宗一は、うーん、と唸り、広げていた本を閉じた。
「何でやろな。うちにも、よう判らへんねや。」
「良く判らない御兄様ですわね。」
散々結婚から逃げていた癖に、行き成り。
「せやなぁ…」
同性愛者の宗一に、結婚の事を聞いたのが間違いだったのか、結婚という物に和臣同様全く興味が無いのか。何方にしろ、此れと云った答えは貰え無かった。
「うちは男が好きやし、結婚でける何ぞ考えた事もあらへんけど、結婚したいなぁ、思う時はあんで?」
其の発言に時恵は食い付いた。
「其れは、どんな時ですの?」
「…時恵にも、あったと違うか?」
「ワタクシに?」
時恵は首を傾げ、龍太郎との事を思い出す。
龍太郎と結婚したいと思った時、確か、自分の内の独占欲が開花した時だ。
此の人間を自分だけの物にしたい。心も身体も人生も。本郷龍太郎という人間を、手に入れたかった。そう、醜くも美しい独占欲で、龍太郎を縛り付けた。
宗一は笑う。
「な?うちも同じ考え。」
「どんな考えです?」
ひょっこりと、家庭教師が帰ったのか、暇を持て余した時一が現れ、興味深そうに目を輝かせていた。
「是非、御聞きしたいですねぇ。兄上が結婚したい相手。」
にやにやと笑う時一に宗一は手を伸ばした。
「そないなもん、今小悪魔笑顔を浮かべてはる人間以外、誰が居てはりますの?」
笑い、時一の顔を覆う包帯を触った。
「嬉しい事を仰る。」
其の手に誘われる様に時一は顔を近付け、宗一の頬にキッスをした。互いに笑い合い、時恵が全く見えて居ない様子だったが、時一は時恵にも笑い掛けると横に座った。
時恵は苦笑い、話を戻す。
「兄さんですか。確かに、誰とも結婚為さらないと思っていましたらね。僕も正直、驚きを隠せません。」
「うちかてそうや。正か、な。」
「在の変態に見合う御方がいらっしゃるとわ…」
三人は同時に溜息を吐いた。
「弱み、握られたんでしょうか。」
時一の発言に宗一は笑い乍ら手を振り、其れは無いと断言した。
「在れでも頭は切れるんや。」
「では、何故かすら…」
考え、無い知恵を搾り出し頭を捻る。其の時、時恵は思い付いた。
「父上に聞けば早くないかすら。」
此処で考えても、和臣の心中は誰にも判らない。だったら結婚を承諾した父に聞けば良いのではないか、そう考え付いた。
「…教えて貰えますかね。」
「どやろな。親父、在れでも、口堅いからな。」
「でも、家族ですのよ?」
其れもそうだ、と三人は腰を上げ、木島の部屋へと向かった。
「居てるん?」
「今日は居ます。先程見ました。」
時一の言葉を聞き、時恵はドアーを叩いた。
「父上。今宜しいかすら。」
くぐもって聞こえた木島の声。そうしてドアーが開いた。其のドアーを開けた人間に、三人は目を丸くし、言葉を失った。
「…え?」
時一の声。宗一は蕁麻疹が出たのか、体のあちこちを掻き始めた。
「御機嫌よう。」
其の声に、時恵は、はぁ、と気の抜けた声を出した。
「第二、夫人?」
時一は聞いた。其れにしては、若い気がする。仮にそうでも、母同然の夫人に対して、宗一が蕁麻疹を出すのはおかしい。
では、此の女は誰だろう。
三人が怪訝に思う中、女は木島に振り返ると信じられない言葉を口にした。
「御義父様。」
出た言葉。瞬間時恵の身体から怒りが吹き出た。怒りで口が震える。
「御義父、様、ですって?」
愛人を作るだけなら未だしも、此の女を養女にでも迎える気なのか。時恵はそう思い、握り締めた拳を震わせた。
「誰に断って父上をっ。無礼者っ」
叫び、腕を振り上げた。しかし、其の腕は木島がきつく掴み、止まった。
「何を勘違いしている。無礼者は御前だ、時恵。」
「父上っ」
「大事な身体なんだ、手を上げる事は許さん。」
時恵は唇を噛み、荒く腕を振り解いた。
「あの、父上。此の方は。」
聞いた時一に女は微笑み、頭を下げた。
「雪子です。」
雪子、と名乗った女は、木島に寄り添った。
「堪忍…」
今迄黙っていた宗一はそう発し、身体を掻き乍ら逃げる様に部屋に戻った。納得いかないのは時恵だ。
「雪子、さん?」
時恵の怪訝な顔。其の雪子が一体何だというのか。何も云わぬ二人に、木島は鼻で笑った。
「そうか、御前達は、知らないのか。」
そうして、楽しそうに笑った。
「覚えておけ。和臣の、妻となる女だ。」
優しく微笑む雪子だが、時恵の険しい顔は収まりはしなかった。
「御兄様の、御正妻。」
ははあ、と唸り、腑に落ちない顔で時恵は頷いた。
「父上。一つ御聞きしたい事があるのですが、宜しいかすら。」
「何だ。」
「何故行き成り御兄様は、此の方と。」
雪子を見た衝撃で完全に目的を忘れていた。漸く思い出し、ぶつけた。時恵の問いに、木島は大きく溜息を吐き、嘆いた。
「腹にな…」
「御腹に…」
「其の腹に、和臣の子供が、居るそうだ。」
木島の告白に、雪子は照れ笑い、時恵と時一は放心した。
「…え?又、ですか…?」
聞き直した時一に、怒りを孕み乍ら木島は同じ事を云う。
「何故今回に限って…。娼婦等…」
時一の予想は的中した。木島の倅で陸軍元帥が娼婦と結婚する。其れが面白く、小走り気味に宗一の部屋へと向かった。
面白くない。
反対に時恵はそう思った。
「本当に、御兄様の御子かすら…。」
くすりと笑う時恵。其れに木島は何も云わなかった。木島とて、確信は無いのだ。雪子の腹に居る子が、和臣の子等。だから、何も云えなかった。其れを良い事に、時恵は、時恵の口は、勝手に動く。
「娼婦で、良くもまあ、そんな事を。…汚らわしい。」
雪子は顔を引き攣らせた。自分が汚い事は自覚しているが、見た目其の侭の純粋無垢な時恵に云われ、反論出来ず居た。
「其れで、御兄様の子…。白々しい。証拠は御座居ますの?」
和臣を庇う訳では無い。雪子が、何故か気に食わないのだ。其の心は、大きく膨らみ、口を勝手に動かした。
「確かに、確かに私は娼婦で御座居ました。ですが、和臣様以外の方とは…」
かっと、血が上るのが判った。
こんな女と、自分が同じ。娼婦をしておいて、一人しか男を知らない。
嘘に決まっている。
木島に寄り添った時の在の態度、目付き、雰囲気。其れは紛れも無く、娼婦其の者だった。
「何処迄も汚らわしい女…っ」
我慢なら無くなった時恵は再度手を振り上げ、今度は確実に雪子の頬に振り落とした。乾いた音が響き、雪子の体がよろめいた。
「時恵っ。」
庇う様に木島が立ち塞がったが、其れでも構わず時恵は雪子に手を上げた。
其の音は時一達の耳にも入り、何事かと戻って来た矢先、目に映った光景に二人は時恵の腕を掴んだ。
「時恵っ、何してんねやっ。止めやぁっ」
「姉上っ、御止め下さいっ」
「離し為さいっ」
藻掻き暴れる時恵に雪子は恐怖を覚え、木島にしがみ付いた。
「御覧為さいっ。其れが貴女の本性なのでしょうっ?男なら誰でも宜しいのだわっ。汚らわしいっ。御兄様だけでは足りず、父上に迄取り繕う気かすらっ?」
叫んだ時恵の頬に激痛が走った。痛みで声は詰まり、顔を上げると木島が怒りに震えていた。
「父上っ、何て事をっ」
座り込んだ時恵に時一は寄り添い、木島を睨み付けた。其れは、宗一も同じだった。木島の腕を掴み上げ、強く捻り込んだ。
「何、してはんの…?」
「離せ…」
「何したんや…え?女庇うだけやのうて、其れだけでもうちは気に食わへんのに…。なのに…時恵に手ぇ上げて良え思てんのか?」
胸倉を掴み上げ、木島を壁に押し付けた。父とは認めたくないが、其れでも父と思っていた。細い、今にも切れそうな脆い糸でしか繋がっていなかった関係が切れたのを宗一は頭で知った。
此れが、父親。吐き気がした。
「宗、一…」
「黙れ…」
「兄上…」
「時一は黙っときぃな…」
怒りに取り巻かれた宗一の目は、木島に嫌な過去を思い出させた。良くもまぁ此処迄母親に似たものだと、背中に冷たい物を感じた。
「時恵に手ぇ上げて、其れでもそっちの女ん方が、大事か。」
「違う…」
「何が違うんや。和臣も和臣や。なんぞ娼婦を。」
雪子を睨み付け、腕を離した。ずるりと木島は座り込み、少し咳払った。
「痛かったなぁ、可哀相に。」
しゃがみ、時恵の赤く腫れ上がる痛々しそうな頬に触った。時恵は大丈夫だと笑うが、泣きそうな顔をしている。
「姉上、大丈夫ですか?こんなに…腫れ上がって…」
時恵が泣きそうな理由が判る時一は無言で立ち上がり、雪子の顔を覗いた。其れに怯える雪子。本の少しばかりしか赤くなっていない頬に、時一は唇を噛んだ。
此れだけしか赤くなっていないのに、此の仕打ちは不公平だと、怒りが沸く。
「失礼、夫人。」
時恵よりも強い音を響かせ平手は飛び、雪子の身体がぐらりと揺れた。
「痛いでしょう?男に殴られたら、子供の僕からでもこんなに痛いんだ。姉上は其れ以上に痛い。肉体的な痛みだけじゃない。実の父親から、貴女を庇う為に叩かれたんだ。其れが、どんなに姉上を痛め付けたか。もう一度叩いて差し上げましょうか?」
再度振り上げた腕を、木島が無言で掴み取った。其れに、又怒りが噴き出す。
「未だ、御庇いになる御積りで?父上。」
何時もの愛らしい在の声は、低く、恐怖さえ感じる。
「良い加減にしろ…」
「良い加減に為さるのは、父上、貴方です。」
掴んだ腕に力を入れ、木島は立ち上がった。
「御前達に、何が判る…」
「ええ。判りません。判りたくありません。」
「儂が、どれ程、子供を望んだか。御前達には、判るまい。なぁ、時一。」
笑った木島の顔に、時一は悪寒が走り、腕を慌てて放した。狂気を孕んだ其の目に、全員が、怯え返った。此れが、木島宗一郎。野心を震えた立たせ、鬼だ鬼畜だと云われ、此の国の一番に上り詰めた男。其れを、改めて知った。
「時恵には子が出来ない…。宗一迄なら未だしも、時一迄…。最後の望みは、和臣しか居ない。やっと、希望が見えた…。木島の血を此処で絶えさす訳にはいかないんだっ。愛だ恋だの現を抜かしている御前達に、儂の気持が判るかっ」
叫ぶ木島に、宗一の身体が動いた。
「せやから、時子はん居てんのに愛人囲って、おかんも、和臣のおかんにも、子供を、木島の血を生ませたんか…?愛や恋や抜かしてはったあんさんが、そんな下らへん理由で…」
怒りを通り越し、呆れるしかない。そんなに、血が大事なのか。宗一には、理解出来なかった。
「時子は、関係無いだろう…」
「関係あらへん訳ないやろ…あんさんのそないな下らん世界に皆振り回されたんか…?」
「御前には判る筈がない。血が途絶える事の恐ろしさを。」
「随分と、勝手な御人やなぁ…せやったら、うち等は、何の為に生まれて来たんや。あんさんのエゴの為か?笑かすわ…ほんに…」
俯いた時一。宗一が云う様に、自分達は生まれた意味が判らない。
妻が居るのに愛人を囲う本当の理由。愛はあるであろうと生温い考えだった三人は愕然とした。
「父上は、母上を、愛していらっしゃらなかったのですか?」
無言の木島。
愛していない筈は無い。其れなのに、其の女は子供が出来難いと判り、どれ程悲観したか。私が不甲斐無い所為よと自分を責め、夫に外で子供を作る様云うのが、どれ程の物か。
「御前達には、判らないんだ…」
妻を愛したからこそ、宗一と和臣を生ませた。そうして、やっと愛した女との間に生まれた時恵、時一。木島の血だけではなく、他の血も繁栄する。其れが、どんなに大事な事か。嬉しい事か。
「雪子の事を反対するなら、御前が為して見ろ。御前達に、子孫を残せるのか?愛だけで、子は生まれんぞ…?」
笑う木島。嫌気も此処迄来れば、憎しみに変わる。
「判りました。」
響いた声。
「そんなに仰るのなら、作って差し上げますよ。父上。」
其の声は、時一だった。
「本当は兄さんではなく、僕の血が、御要り様でしょう?」
「時一、貴方…」
薄く笑う時一。
「天皇家の血を引き、尚且つ父上の子供だ。僕が子供を拵えれば、其の方は、不要でしょう?」
雪子を見、笑う。
「そんな娼婦との子供より、僕が、父上の選んだ方と子供を作れば、問題は無い筈です。違いますか。僕達は普通の人間では無いんです、上層階級何です。父上は、血が血がと仰りますが、其の血統に、こんな…。身分撤廃は大いに結構です。ですが、今現在、父上には位があるんです。其れを一番に御考え下さい。雪子さん、御判りですか?僕が云いたい事が。僕達は友人を作るにしても、品や素行が釣り合う方で無いといけないんです。」
雪子は唇を噛んだ。不要等、何故其処迄云われなければならないのか。惚れた相手の子供を産むと云うだけであるのに、娼婦だから駄目なのか。娼婦でなければ皆祝ってくれると云うのか。時一が云う、其の上層階級とやらの令嬢であれば、和臣の子で無くとも認めてくれるのか。
雪子には判らなかった。
「私は…」
時恵に叩かれてから押し黙った侭だった雪子の声。嗚呼、こんな声だったな、と思い出す。
「和臣さんを、御慕いしております。確かに娼婦ですけれど、此の子は、本当に、和臣さんの子です。そして、御義父様の血を引いております。」
鼻で笑う時恵。証拠を見せろと云っても何かある訳ではなく、雪子の、母親の勘にしか、頼る術は無かった。其れきり皆押し黙り、風の音だけが聞こえる。
そうしてどれ位時間が経っただろうか。熱く熱を持った時恵の頬は、熱を沈めていた。
響く靴音。其れが誰の物か、見なくても判る。此処に居ない、揉め事の元凶、和臣の物でしかない。
廊下に座り込む呆けた五人に、和臣は首を傾げた。
「何、してるんだ?皆して。」
暢気な明るい癪に触る声。宗一の目が動き、一瞬に和臣の背中は廊下に叩き付けられた。
「御前の、所為や…御前が…」
「何?」
五人が廊下で放心しているのだけでも不気味で理解し難かったのだが、宗一と目が合うや否や床に叩き付けられた和臣は、奇妙な宗一の行動に眉間に皺を寄せた。
「娼婦は孕ます、親父は其れを庇う、時恵は殴られるし、時一は子を作る云うし。散々やんなぁ…」
上から降った呻きに和臣は漸く口を開いた。
「待ってよ。全く話が見えない…」
喉元を締め上げる宗一の腕に雪子は触れ、勢い良く弾き飛ばされた。
「触るなやっ、吐き気するわっ」
汚い物を見る目で雪子を睨み、腕を掻いた。其れでも怯まず雪子は宗一に云った。
「此の手を、御放し下さい。」
「煩いわ…」
汚い娼婦が触るなと雪子を突き飛ばし、和臣の喉元に手を掛けた。
「兄さん…?」
怖い。自分を見下ろす其の目が怖いと素直に思った。薄く笑う其の顔は、在の時の宗一の母親と同じだった。
昔の記憶が頭に流れる。
狂気を孕んだ女の顔、沸騰した紅茶、左半分を濡らした憎悪の結果。そして白衣に白い包帯。
「本気、な訳…」
そう思うのに口は震えた。
「和臣。知ってるやないの。うちが、誰の子か。時一を殺そうとした女の子供や。簡単に人を殺せるんや。其の遺伝子が、うちには染み付いてるんやっ、親父の云う血がなあっ」
首を覆う両手に力が入り、和臣の口は大きく開き、腰が浮いた。手首を掴み力を込めるが宗一の力は本気なのかびくともしない。余りの苦しさに片足を床に叩き付け、漸く其処で木島が声を漏らした。
「止めろ…」
弱々しく吐き、其の声に反発する様に宗一は体重を掛けた。力強く床を蹴っていた足が弱くなり、慌てて止めに入る木島だが、其れ以上に宗一の力は強く、びくともしなかった。
「止め…、止めてくれっ、宗一っ」
懇願する木島の声は聞こえていないのか宗一は笑う。笑い、力を緩め無かった。
「止めて下さいっ、宗一さんっ。和臣さんが…」
突き飛ばされ、背中を打った雪子は蹲った侭宗一に叫び、其の声はきちんと宗一に届いた。
「死んだら宜しいわっ。全部、全部此奴の所為やっ。嫌でも生まれてきたらあかんかった事思い出したやないのっ」
両手を離そうとする木島を足蹴りに飛ばし、其の姿に時一は首を傾げた。
此の狂気は何であろうかと。
「痛い。」
包帯を時一は触り、誰にも聞こえない声で呟いた。
顔の左半分が、燃える様に痛い。
視界の端に映り込む、無心に包帯を掻き毟る時一に、時恵は目を見開いた。
「時一…?」
向いた時恵は時一の肩に触れ、俯く其の顔は口と目を開き、うわぁうわぁ、と獣の様な唸り声を繰り返していた。
「時一っ」
大きく身体が揺れた瞬間、右目から涙を大量に流し、時一はのた打ち回った。宗一の狂気と、其の母親から受けた狂気が全く重なり、身体を支配した。必死に止める時恵だが、如何する事も出来ず、唸り喚き狂い叫ぶ時一の身体を押さえる事しか出来なかった。
其の時時恵は、もう終わりだと悟った。
此の家庭は、崩壊した。
奇妙乍らも必死保っていた砂の城は、簡単に流された。
崩れる其の様子を時恵は遠い場所で眺めていた。
呻き声。在の時と同じ、張り叫ぶ声。時一の声に宗一の思考は止まり、石像の様に固まった。
「時一…」
ふっと、和臣の首から手を離し、自分が何をしていたのか気付き、和臣の体温を知る両手が勝手に震えた。
「うち…あ…」
「兄上…」
時恵の消えそうな声に宗一は振り向き、のた打ち回る時一の元にふらふらと寄った。身体が軽くなり、開放された喉元に手を遣り、和臣は身体を反転させ呼吸を繰り返した。未だ酸素の行かない頭はぼやけ、三人の声を聞いた。
「あかん…」
短く息を繰り返す時一に、宗一は呟いた。過呼吸の発作を起こし、床を叩く姿を初めて見た時恵は、時一が如何なっているのか理解出来ず居た。時恵を退かせ、大丈夫だからと時一の口元を手で覆い、背中を擦った。
「ふ…じ…」
漏れた時一の声に二人は安堵し、宗一は背中を時恵は包帯を撫でた。
「居らへんよ…うちが、此処に居るから…そう、ゆっくりな…」
見開かれていた目が段々と窄まり、半開きで天井を見た。
「ええこ、ええこ…うちの大事な時一…御免な。怖かったやろう。」
其の声に涙が止まり、時一は首を擡げ、規則正しい胸の動きを始めた。其れを確認し、宗一は時一を抱えると、木島を見下ろした。
「出て行くわ。」
静かに云った。
「時一を連れて、此処から出て行く。うちは木島の籍から抜ける。時一もや。うちの籍に入れる。」
和臣を睨み、其の目は、昔見た優しい兄の目ではなかった。
「兄さん…」
薄目の和臣は首を振り、腕を伸ばした。
「御免な…。御免な、和臣…」
優しい目に戻り、寂しそうに笑い踵を返した宗一の背中に、和臣は涙を流した。
たった一人の兄。母は違えど、確かに兄弟だった。時恵が生まれる迄、どれ程長い時間を兄弟として、家族として過ごしただろうか。
其れが、脆く崩れ落ちた。
「兄さん…兄さんっ、嫌だっ」
無理矢理身体を上げ、宗一の後を追おうとした和臣は床に倒れ、其れでも和臣は宗一を止め様と必死に叫んだ。
「嫌だっ。兄さんは、俺の、俺のっ…」
座る時恵の肩に手を起き、立ち上がろうとした和臣の手を時恵は引いた。
「御兄様…」
「時恵、止めてくれ…兄さんを止めてくれ…」
泣いて縋る和臣に、時恵は首を振った。何をし様が、宗一は戻らないと判る。
「俺が…悪いんだ…。だから兄さんは…俺を捨てるんだ…」
其の言葉に宗一は足を止め、少しだけ振り返った。
「御免な。」
「ねぇ…」
「本気で和臣を殺そうとした。ずっと一緒に居った和臣を、此の手で殺そうとした。其れが、もう、あかんのや。」
笑った宗一の顔に和臣は思った。
全て、壊れてしまえ。
何もかも。
其の日を境に、和臣の顔から笑顔が消えた。
〔
*prev|1/1|
next#〕
T-ss