第二夫人


不安が、現実になり、襲い掛かる。
和臣の言葉に、時恵は目を見開き、兄が一体何を云っているか、其れさえも判らなくなる。ぼわりと反響し、和臣の声が上手く聞き取れない。時一は放心状態で机を見て居た。
「我が国家は、何れ戦争を始める。」
其の言葉は、兄としてでは無く、元帥としての言葉だった。やっと状態が飲み込めた時恵は、軽く頭を振った。
「父上は、何と。」
「俺に任せるそうだ。」
口を閉じていた時一が、小さく呟いた。
「陛下は…、何と…、仰っているの、ですか………」
どきりと心臓が鳴る。
「陛下は…」
暫くの無言は、反対を意味している。
「陛下の許可も無く、貴方の一存で…。」
「無論。だから、何れ、だ。陛下が受け入れて下されば、即準備に取り掛かる。」
不安が、黒い塊となり、時恵達に覆い被さる。我慢出来なくなった時一は、大粒の涙を一つだけ落とした。
時恵とて同じ事。今直ぐにでも泣き喚き、止めてくれと懇願したい。しかし其れが出来ない。出来ない程、衝撃が強い。
「話は、其れだけだ。呼び出てて済まなかった。」
帽子を深く被ると、無言で腰を上げた。


――本気で人を愛した事がねえんだろう。


――関係の無い人間の命を何とも思わないのが、貴方の仰る戦争でしょう。


龍太郎と拓也の言葉が頭を締め付ける。

誰が好き好んで、戦争等始めるか。

足音を響かせ、無言で歩く。そうして、ずるりと座り込んだ。痛む頭を抱え、膝に乗せた。
「だったら、俺に如何しろと云うんだ…」
戦いもせず、易々と他国に国を渡せと云うのか。貪られる様を、指を咥えて見ていろと云うのか。
代償は人の命。判っている。其れがどんなに恨まれ、残忍である事か。和臣自身、龍太郎等にああは云ったが、本心では無い。
判っているのに、心の何処かで、其れで国が守れるなら、安いとも思う。
「誰も、判ってくれないだろうけど。」
鼻で笑う。
響くヒールの音。聞こえた靴音に和臣は顔を上げた。
「雪子。」
「如何したの。こんな処に座り込んで。」
愛妻の雪子の顔に、和臣は思わず腕を伸ばし、其の侭抱き締めた。
「和、臣さん。」
照れと動揺が交ざり合い、抱き締めて良いものかと躊躇う。
「如何、思う。」
「何がかしら。」
和臣は力を込め、きつく締め付ける。
「和臣、さん。」
苦しくなり息を漏らすが、和臣には察知しては貰え無かった。
「東洋最強と謳われる我が国家が、如何して逃げれ様か。」
其の言葉に雪子は目を開く。
「戦争を…」
「何れ。必ずする。そうしなければ。」
言葉を詰まらせ、唇を噛み締めた。
「滅びる。培った歴史が、全て、葬り去られる。其れを、唯見ていろというのか…」
人形の様に精気を無くした和臣は、戦争の事でも考えていなければ、狂ってしまうのだろう。其の心情が痛い程判る雪子は、そっと頭を撫でた。
「どんな事があろうと、私は和臣さんに、付いて行きます。」
其の言葉に、和臣は身体を離した。
「済まない、愚痴を云ってしまった。雪子は子の事だけを考えておけ。」
ふらりと立ち上がり、玄関に向かう。
痛々しい背中に、雪子は腹を擦り、涙を流した。
聞こえた足音に涙を拭き、立ち上がる。時恵達が、じっと雪子を見ていた。
「もう、御帰りに…」
自分は嫌われていると判っていても、笑ってしまう。性格か、怯えか。良くは判らない。
「ええ。御兄様に宜しく御伝え下さいませね。」
「又、いらして…」
柔らかい時恵の笑みとは真逆の冷たい時一の目に、雪子は黙った。
「誰の家だと、思っているんでしょうね。姉上の生家でもあるのに。尤も、僕の家では、もう無いですけど。」
「御免為さい…」
其れしか云え無かった。自分の所為で、此の家庭が崩壊した。自分さえ、孕まなければ。
そう思うと、ちくりと痛みが走る。
「本当に、御免為さい。」
俯いた雪子の肩を、時恵が触った。叩かれた時の恐怖が、未だ体に残り、無意識に身体が強張る。其の姿に、時恵は息を吐いた。
「そんなに、怯えないで下さいませ。叩いてしまって、ワタクシの方こそ御免為さい。」
「時恵さん…其の、宗一さんの…」
「もう、御気に為さらないで。兄上は、何時かこうする御積りでしたのよ。其れが、偶然重なっただけですわ。」
そう時恵は笑うが、時一の目に雪子は居た堪れなかった。
「本当に、御免為さい。時一さん。」
前髪と、包帯で隠れた、無い筈の左目で睨まれている様に感じた。
「僕は、結果的には問題無いんですけどね。僕に気を使うより、兄さんと、御子さんの事を考えたら如何ですか。」
今の和臣には、母である夫人も手を焼いていた。時一は其の事を云ったのだ。廃人同様の其れでいて狂気を孕んだ、全く変わってしまった和臣を、元に戻す事を考えろ、と。
「其れでは、御機嫌よう。雪子夫人。」
時一の言葉に、時恵も同じ言葉を云い、小走り気味に後ろから付いて行った。


*****


無言で歩く時一に、息を切らして云った。
「足速いわよ、全く。」
「済みません。何時も兄上の歩幅に合わせて居るもので。」
「あら、ワタクシとは逆なのね。」
笑って、時一は時恵の歩幅に合わせた。其れにしても、何て歩幅の短い姉上なんだろうと、少し呆れた。
「処で姉上。御時間ありますか。」
「あるわよ。暇だもの。」
「そうですか。」
笑って時一は、門とは逆の方向に足を進めた。
「一寸、何処に行くのよ。」
「夫人の処です。最近御会いしていないもので。」
其の言葉に息を吐いた。
時一自ら夫人の処に足を向ける等、珍しい事だ。
丸みを帯びた造りの建物。第二夫人の邸。其の邸のベルを躊躇いも無く時一は鳴らした。
「いらっしゃいますかね。」
押しておいて何を云うのだろうと、笑う時一に時恵は呆れた。
しかし社交的なあの夫人の事だ。出掛けているかも知れないと二人は不安を募らせたがドアーは開き、明るい笑顔の夫人が顔を出した。
「…如何したの。珍しい。」
大きな猫目を更に見開き驚く。ゆるりと口角を緩ますと八重歯を覗かせ、二人を招き入れた。
「突然、済みません。」
「構わないよ、暇人だからさ。」
笑って時恵と同じ事を云い、少し時一は笑えた。
招き入れられた邸には、数人の使用人が機械の様に働いて居た。床掃除をして居たり、アイロンを掛けて居る。
「御免ね。折角来て貰った所悪いんだけど、うち何も無いも無いんだよねぇ。」
使用人と夫人が棚を漁り、何か出せるものは無いかと探すが、何も無かったらしく、本当に、木島の愛人なのだろうかと、時一は不安になった。
「夫人、此方しか…」
「あー…、良いか…。駄目かな…、嫡子様には…」
結局、漁りに漁って見付かった物は、少しばかりのくたびれたカステヰラだった。
「腐ってたら御免。」
くたびれたカステヰラには似つかわしく無い洒落た食器。奇麗な白百合が描かれている。
「何時のですか、此れ。」
見た侭時恵は絶句し、時一は口角の引き攣りを見せた。
「…三日前に貰った奴かな。で、其の日に半分食べて…。まぁ、良いじゃない。」
あははと笑う夫人に、二人は何も云えなく、出されたカステヰラを頬ばった。
「なぁんか、シュールな、口当たりですね…」
乾燥し、バサバサしている。時一は何とか食べれるとフォークを動かすが時恵は元から甘い物が苦手で、一口だけ食べ、終わった。
そんな時恵の表情に思い出したのか、珈琲を淹れる様頼んだ。何処迄も自由奔放な人だなぁ、と時一は遠い目で見た。
「其れで。」
珈琲は、旨かった。時恵は其れに満足し、息を吐いた。
「用があるのは坊ちゃんだろう。」
人差し指の腹を見せ、時一を指す。見透かす其の黒目は和臣と同じだった。
「はい。あの、兄さんの事なんですけど。」
小さく呟いた時一に、やっぱりね、と云った感じの目を向けた。
「如何しちまったんだろうねぇ、馬鹿息子は。そら、判らんでもないけどさぁ。」
宗一との件を知っている夫人は、初めて寂しそうな目を向けた。
生まれた時既に居た宗一の存在は、和臣にとって大事なものだった。其の大事なものが消えた和臣の心中は、夫人でさえ判らない。
「生まれた時には既に居たからね。何時も、兄さん兄さん。尻ばっかり追い掛けてた。和臣にとって、宗一は神様なんだろうね。絶対的な存在で、何があっても側に居てくれる。そう、思ってたんだ。けど。」
目を伏せ、寂しく笑う。
「そんな宗一に捨てられたんだ。あたしには判らないよ。坊ちゃんなら、判るだろうけど。」
夫人の言葉が、胸に突き刺さった。
初めて宗一と会った日。彼は真っ先に、時恵ではなく和臣の所に向かった。其の時の二人の笑顔。今でも忘れない。
「御兄様は、変わられましたわ。」
無言で珈琲を飲み乍ら会話を聞いて居た時恵はカップの中身を見た。
「嗚呼、変わっちまった。在れは木島だ。在の目は木島以外の何者でもない。息子なんだなって思う。」
渇いた笑いで必死に場を和ませ様と夫人はするが、時恵はカップから目が上げれなかった。
茶目っ気があり、何処かが抜け、常に笑っていた和臣。其れが今では、眉を吊り上げ、見て居る此方が頭痛を覚えそうな程眉間に深い皺を刻み、父親と同じ冷たい目をしている。
そんな想像も付かなかった息子の姿に、夫人は首を擡げた。
「坊ちゃん。」
時一の手を握り、俯いた侭口を動かした。
「もう一度、宗一に云ってくれ。戻って来てくれって…」
微かに光落ちる物が見えた。其れが、夫人の初めて流した涙だと知るのには、余り時間は掛からなかった。
「でも、夫人。」
「判ってる。宗一は本気で和臣を殺そうとした。其れでも宗一は、あたし達の可愛い息子なんだよ。」
縋る夫人に胸が締め付けられた。
あたし達。
其れは第三夫人の事を指していた。
夫人越しに見える、四人が映る沢山並んだ写真。どれも皆笑っている。其の写真を時一は唯見詰めていた。
壊れた砂城を、又作り直すのに、一体どれ程の時間が要るのだろう。
時一は、カステラを口に含み、湿らせた。
仄かな甘みは四人の思い出の様で、味が無くなった事に心が痛んだ。




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