消えた面影


地がうねる音を感じる。大戦へ向けての小手調べ。遠くで聞こえた大砲の、余韻。一体何処へ向けて居るのか。
何れ、此の地も他国からの攻撃を受ける。其れがどんな事を表すか。男の姿が乏しい街を歩いてみる。
「此れは。時恵様ではありませんか。」
擦れ違った軍人。私は詰まらぬ色を目に宿し、向けた。
「嗚呼、大佐殿。御機嫌よう。」
名前も顔も知らないが、服と章で此の人物が兄の右腕と判る。嫌味の如く付いた其の章に、唾を吐き捨てたい。
「元帥に。」
「いいえ、本郷中尉に。」
敢えて主人と云わず、こう云った。
「本郷中尉、か。」
大佐は笑い、其の蓄えた髭を触る。何と醜い老いた姿なのだろう。
「彼は今、出払っていますよ。」
益々萎え、軽く会釈をし、無言で踵を返した。そうして聞こえた靴音。其の見えた姿に心臓が鳴る。
「元帥。」
其の目を、強く見詰めた。
「時恵か。」
冷たい声色に、少しばかりたじろぎ、俯いた。無表情の顔は、容易く私を強張らせる。其れを知ってか知らぬか、兄の口は動く。
「何故、居る。」
「御兄様には、関係の。」
ぞくりと、冷たい其の目に、言葉が詰まる。
「女がこんな場所に来るんじゃない。邪魔だ。」
触れもせず、擦れ違い様に放たれた。其れが、無性に胸を締め付けた。
一体如何して、こんな人間になってしまったのか。昔に戻って欲しいと願った処で、叶う筈が無い事を知る。
遠去かる靴音に、悲しみが背中を触る。
「御兄様。」
息の様に薄い自分の声。其れでも耳に届いたのは、未だ心があるからと、思っても良いのだろうか。
「俺に用は無いんだろう。」
矢張り、息と共に零れる兄の声。胸が痛い。
私は振り返り、背中を見た。
主人より小さい其の背中に、一体何を背負っているのか。指先で突けば、不安感に積み上げられた積木みたく容易く崩れてしまいそうだ。
「笑って、下さいませ。」
絞り出した懇願は、瞬間足音に壊され、私を突き落とす。
「笑え、か。何故笑う必要がある。」
「其れは………」
理由は無い。阿呆でも間抜けでも、昔に戻って欲しい陳腐なエゴイズム。
無言の私に、兄は鼻で笑う。
何時からこんな笑い方を覚え、し始めたのだろう。張り付いた笑顔の何処に、昔の愛らしい面影があるのか。何処にも無いのに、探してしまう。面と向かってみれば見る程、私の心を抉る。
「用が無いのなら、帰れ。」
冷たい言葉を、何故向けるのか。昔の兄なら、絶対にそんな事はしなかった。もう一度、もう一度笑って、名前を読んで欲しい。
「御兄様。」
懇願を託した言葉と共に、涙が溢れる。兄が笑わなくなり、私は一層泣き虫になった。
そんな私を疎ましそうに、兄は息を吐き、視線を逸らす。
「泣いて何になるんだ。」
「判りません。判りませんが、勝手に。」
心が未だあるのなら、修羅に成り下がる前に、もう一度、笑って。
しかし、私の心とは間逆に天秤は傾く。そうして、兄が、人でない事を、痛感した。
「目障りだ。二度と俺の前に現れるな。」
冷えた言葉に、心が壊れる。
目障り。
此れはもう、私の知っている、私の愛した兄では無い。そう思うと、自然と涙が止まった。
強く唇を噛み、兄の黒い瞳を映す。
「御機嫌よう、木島元帥。繁栄と栄光を。」
今度は私が背を向け、崩れてしまわない様に、何時も以上に背筋を伸ばした。


*****


消えた妹の背中。
此れで良い。心を邪魔するものは、消せば良い。
此れが自分にとっても、此の国にとっても最良策。
なのに、地に落ちる自分を止めてくれと云わんばかりに涙が出る。
「糞。」
壁を殴っても、如何仕様も無いのに、せずにはいられない。
「元帥。」
「何をしている。優雅に見物か。」
「失礼を。」
「全くだ。貴様の立場という物を、知れ。」
もう、良いんだ。俺には何も無い。愛も絆も無い。あるのは地に落ちる自分を誘う修羅の笑う、其の声だけだ。




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