如何し様も無い


龍太郎に出会い、三ヶ月が経とうとしていた。ふと、金木犀の、在の懐かしい匂いがした。勿論此れは幻臭であって、現実では無い。時恵は、髪に滑らせていた櫛を机に置き、窓の外を見た。
深々と、冷たい綿が降っている。窓からは見事な白銀が広がっていた。ぽつりとある紅は、牡丹。
「何時迄、雪かすら。」
正直、雪は嫌いである。理由は、良く判らない。唯、何と無く。小さく溜息を吐き、煙管に葉を入れ、火を点けた。ゆっくりと上がる煙を左右に揺らし、ゆっくりと、息を吐いた。
「龍太郎様。」
ぽつりと出た言葉に、自嘲した。良い加減諦め様と思う物、そう簡単には出来無い。
初めて恋をした。役者では無い男に、初めて心を奪われた。奪われ、欲した。
美しい、気高い狼。
「龍太郎様。」
目を瞑り、再度呟く。こつりと、廊下に靴音が響いたのには気が付か無かった。煙管を置き、白い腕を高く上げ、さも其処に居るかの様に、手を動かす。其れを、細い目が、見詰めていた。獲物を見付けた、狼の様に。
足を伸ばす。
気付かれぬ様、静かに歩き、其の手の前に、立った。
流石。
手の位置は、狂いも無く、丁度両頬の高さにあった。目の細め、両手に触れ様とした時、時恵の両頬が濡れた。震えた唇は、厚さを増していた。
「龍太郎、様。」
震えた細い声に、胸が痛んだ。
愛おしい、貴女が愛おしい。
素直にそう思った。
「龍太郎様。嗚呼、龍太郎様…」
噛んだ下唇から歯を放し、触れるか触れ無いかの、もどかしい両手に手を伸ばし、包んだ。
「御嬢、さん…」
優しい其の、間違い様の無い声に、体温に、目が、開いた。
「龍太郎、様。」
漏らした声と共に、涙が流れた。
「此処に…」
優しく笑った。無意識に、抱き締めた龍太郎の身体は、冷たかった。
「嗚呼、龍太郎様。龍太郎様。」
「此処に、居りますよ。御嬢さん。」
「龍太郎様。龍太郎様。」
縋り付く時恵が、愛おしいと、素直に感じた。暖かい体温に、冷えた身体が反応する。
「御慕い、申し上げて居りますわ。心より。」
腕に力が入る。
「嗚呼、貴方が好きで堪らない…っ」
「御嬢さん。」
「貴方の事を考えると、如何仕様も無いんですの。」
「御嬢、さん。」
「龍太郎様。」
頬に触れる時恵の指は熱く、全身が雪の様に溶けそうだった。
「嗚呼、御願い。口付けを。そうしたらワタクシは、貴方を、忘れますわ…」
「御、嬢、さん。」
忘れ様……。
時恵の言葉に、目を瞑った。
忘れられ様か。
気付いた。
時恵を、愛してゐると。
「苦、しい。」
無意識に抱き締めていた。気付かせたのは、時恵の声。甘い匂いが、鼻を擽る。気が触れそうになる。抱き締めた腕に力が入る。
「我が君。」
そして出た言葉は、偽りでは無い。証拠に、声が低い。余所行きの、作った高い声では無く、普段の、そう、飾りの無い声。時恵は又、頬を濡らした。
「龍、太郎、様。」
「愛している。」
「そんな。嗚呼っ嬉しいっ」
小さく漏れた声。
「…………時恵。」
時恵の目が大きく開いた。震える指が、龍太郎の唇を触る。
「嗚呼。龍太郎様。初めて、初めて、名前を呼んで下さった。」
云われ、名前を呼んだ事が無いのを、知った。龍太郎は名を呼ばれているのにも関わらず何時も、御嬢さん、其れで済ませていた。名前を知らない訳では無いのだが、名前を呼ぶのは躊躇われた。
「何時でも、呼んでやる。好きなだけ。時恵。」
「嗚呼、もっと。」
「時恵。」
外は、雪が降って、積もっている。寒さ等消す様に熱いキッスをした。




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