好きだと謂ってるぢゃないの


何時の間にか転寝をしていたのか、気が付けば、彼の姿は其処には無かった。
無意味に辺りを見渡し、彼の姿を探す。
居ないと判っているのに、そうするのは、矢張り、心の何処かで期待をしているから。
静かな部屋なのに、聞こえる彼の声。其れも、とても楽しそうな。
私は読んでいた、閉じられた本を置き、腰を上げる。
到底本等読む気になれず、其の声のする方に、足を向ける。
そうして、見た光景に、心が痛んだ。
私にしか向けられないと思っていた笑顔は、他の誰かに向いていた。
其れがどんなに、腹立たしい事か。彼は、知らない。
声無く見ていた私に、気付いた彼は振り返り、そうして、其の笑顔を向ける。
其の優しい笑顔は、私だけの物なのに。
出掛かった言葉を飲み込み、笑った。
「済みません、御一人と思ったもので。」
私は、少し乱れた襟を正し、頭を下げた。
厭らしく感じる男の視線。
私は其れに嫌悪し、視線を逸らす。
「君が、時一君か。初めまして。」
笑っていない目元を、私は然りと見た。
警戒している私に構わず、男は手を差し出し、握手を求めたが、どうも手を伸ばす気にはなれなかった。
そんな私を、彼が叱咤した。
「時一。」
「済みません。」
云われるが侭に握手をし、湿った男の手を感じた。
しかし、離される気配が無く、困惑する。
「握り過ぎ。」
「此れは失礼。」
漸く離れた手から逃げる様に、慌てて手を引っ込める。
男の手の感触が残り、不快、其処から切り落としたくなる衝動に駆られた。
彼は小さく息を吐き、私の頭を触った。
「堪忍な、人見知り激しいんや。」
「構わんよ。」
私の身長に合わせ屈み、じとりと舐める様に私の顔を覗く男。
一体何だと云うのだろうか。
他人に顔を見られるのが余り好きではない私は、終始俯き、男の靴を見ていた。
成程ね、と小さく笑う声。
男の口から出た言葉に、更に嫌悪を抱く。
「御前の稚児なだけある。流石に容姿端麗だ。」
稚児。
下唇を噛んだ。
こうした周りの嫌悪に慣れてはいるが、どうも好きではない。そして、面と向かって、稚児と云われたのは、自身初めてだった。
「御前も良くやる。」
出た言葉。
私ならず、彼迄も侮辱し始めた男に、嫌悪ではなく、怒りが出てくる。
しかし、彼は気に留めた様子は無く、唯笑っていた。
私は、俯いた侭彼の袖を握り、早く行こう、と合図したが、判っては貰えなかった。
皮肉にも、気付いたのは、男の方だった。
私をじっと見、そして笑う。
「御稚児さんが寂しそうなので、俺は帰るよ。」
其処で漸く彼は気付き、私を見た。
「嗚呼。」
其れだけ云い、私の手は袖から離れた。
彼が、私の手を遠ざけたのだ。
其の行動は、私を抉り、眩暈を起こさせた。
「送ってくるから、待っててな。」
男と並ぶ彼の背中に、私は小さく、馬鹿、そう云った。
挨拶も碌にせず、彼に恥を掻かせた事等、私には関係無かった。
あの男に対する、嫌悪、怒りの方が勝っていた。そして、彼が私にした行動。
私は自室に向かい、ソファーに座り、再度本を開く。彼が、あの態度は何だ、と私を叱りに来るのも時間の問題だ。
私は其れを待つ様に、頭に入らない文字を追っていた。
「時一。」
柔らかの声と、ドアーの音に視線を上げ、一瞥して、文字に目を遣る。
困った様な溜息が聞こえ、見なくとも判る彼の、困った時にする頭を掻く癖を、感じた。
何も云わず私の横に座り、一向に私が話し掛けない事に業を煮やし、そうして本を取り上げた。
あの方は誰です、失礼な方ですね、大方そんな言葉を期待していたのだろう。
私は、本を持った侭の状態の手を下ろし、静かに彼を見た。
「何です。」
「何怒ってんの。」
「別に何も、怒って等居ませんよ。」
「じゃあ、何やの。」
何時に無く厳しい彼の声に、私は冷たい目を向けた。
「怒っていらっしゃるのは、兄上の方でしょう。」
「うちが。何でやの。」
嫌な空気が流れ、互いに視線を逸らした。
喧嘩等、今迄一度もした事無い私達は、此れが喧嘩という物か、と私は知った。
肘を突き、組んだ長い足は裾を揺らし、前後に動く。知ってはいたが、初めて見る、彼が怒った時にする癖を、横目で見ていた。
私は、彼が云う様に怒っていた。唯、其れを認めたくないだけ。
認めてしまえば、私ばかり彼を好きな気がして、ならないから。
手持ち無沙汰の私は、取り上げられた本が目に付き、取り返そうと手を伸ばした。
しかし、彼に手首を掴まれ、其れは出来なかった。
「うちより、本の方が、大事か。」
怒りを孕んだ彼の目を一瞥し、再度試みるが、どうやっても出来なかった。
彼が怒っている理由は、私が彼の友人に対して取った態度だけでは無さそうだ。
其れが本当だとしたら、謝罪さえ面倒に思えてくる。
勝手に怒っていれば良いと、そんな事も考え始めた。
「先程のは謝ります。けれど、其れと本は関係無いでしょう。返して下さい。」
彼が先程した様に、私も、彼の腕を振り払い、本を手に取った。
視線を合わせず、伝わる怒りを感じながら、頁を捲る。
そんな私の態度が、矢張り気に食わないのか、彼は乱暴に本を投げ捨てた。流石に、此処迄来たら、私も黙ってはいない。私が本を、何よりも大事にしている事を、彼は知っているのだから。
「何するんですか。」
少しばかり声を張り上げ、彼を睨み付ける。
しかし、彼も負けては居ない。
「そない本が大事か。」
「ええ、大事ですよ。取って来て下さい。」
投げ捨てられた本を指し、嫌そうに舌打ちする彼。其の態度に、腹が立った。
「御自分が投げ捨てたんでしょう。嫌そうにするのなら、そんな事しないで下さい。」
又舌打ちが聞こえ、そう思ったら、私の体は大きく揺れ、彼の顔越しに天井が見えた。
「退いて下さい。」
しかし動く気配は無く、掴まれた腕に、痺れが来る。
彼の匂いを感じ、首に生暖かい感触が来る。其れが、彼の舌だという事を、私は良く知っている。
私は、圧し掛かる彼に抵抗し、声を張り上げた。
「何考えてるんですか。体を繋げば、許されると思っているんですか。僕は其処迄愚かじゃない。」
そんな事、絶対にさせはしない。
私は、力の限り抵抗するが、子供の私が大人の彼に敵う訳無く、彼の手は私の体を弄り始めた。
「止めて下さい。いい加減にしないと、本気で怒りますよ。」
「―――怒ってみぃ。」
彼の低い声に、私は抵抗を止めた。この低さは、知っている。
彼が、傷付いた時に発する低さだと。
私は彼の顔を見、頬に手を当てた。
「兄上。」
其処で見た彼の目に怒りは無く、唯、寂しそうに光っていた。
何て、何て馬鹿な事をしてしまったのだろう。
何故、気付いてあげれなかったのだろう。
彼の怒りは、寂しさから来ているという事を。
友人に、私を稚児呼ばわりされ、一番傷付いているのは彼なのに、私はそんな事にさえ気付かず、邪険にされた事に怒っていた。
「御免な、時一。」
云われた謝罪に、私は何も云えず、彼の優しい、寂しく濡れた目を見詰めていた。
私は彼を抱き締め、肩に顔を埋めた。
「御免為さい。」
私は何度も謝り、彼の言葉を待った。
けれど、彼は何も云わず、抱き締める事もせず、唯唯、私の言葉を聞いていた。
「御免為さい。僕が子供だったんです。貴方の立場も考えず、あんな態度を取って。御免為さい。」
小さく彼が笑ったのが判り、私は、そっと腕を離した。
「好きです、兄上。だから、嫌わないで下さい。」
「残念。うちの方が、愛してる。自分ばかり、愛してる思たら、大間違いやで。」
唇が触れた侭、彼は云った。
「惚れたが負け、よぅ云うわ。」
息を吸い込む様に、彼の唇は、意図も簡単に私の中に入り込む。
其れが、好き。




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