欲望と試練


深夜になっても男が帰らない事に少年は不貞腐れて居た。頭に入りもしない本を捲り、内容等全く把握して居ないのに、誰が何時死んで誰が生きて居て、一体誰が犯人なのかも判らないのに本は終わってしまった。時折ふっと、男を待って居るのを忘れて本に集中するが、行き成り出て来た名前に「此奴誰だ?」「何時死んだの?」「え?…嗚呼、此の人警察か」全く話に付いてゆけず、頁を戻しては進め、進めは戻しを繰り返し、結局、男を待つ事に集中した。
やがて日付が変わろうとしているのに男の気配は無い。夜の静寂した空気が少年を囲んで居た。何処にも無い気配、ある気配は、夜だけだった。
「結局犯人と理由は何だったんだろう…」
又読み直そうと云う気は全く無く、読み終えた本を仕舞う本に其の本を仕舞った。斜めに本が姿勢を保ち、矢張り読み直すべきか暫く考えた。
「気になるよなぁ…」
序盤が面白かった分、結末が非常に気になる。
「僕の読みは、在の使用人頭何だけどなぁ…」
少年の指も、本も、疲れ始めた。矢張り此処は机に置いておこうと引き抜いた。
「犯人は、三男。理由は、自分が結婚する筈だった女を、長兄が自分の妻にしたから。次の次兄は同じ毒殺で、殺害した理由は、兄弟が居なくなれば爵位が自分に移るから。女中は共犯者、口封じで井戸に落とされた。若旦那の妻は、自分を裏切った報復で、彼女の一番好きなシャンデリアを頭上から落とした。…未だ死んでた?嗚呼、犯人は猟銃で父親に殺されたわな。」
ごどん、と本の角が足を直撃し、貫通した様な余りの痛さに少年はのた打ち回り悶絶した。男が行き成り霧の様に現れ、風の様に結末を云った事より、少年は足の痛みの方に苛立った。
床でのた打ち回る少年に男は慌て、打った箇所を掴む手をやんわり解いた。
「嗚呼っ痛いっ」
「嗚呼、どないしょ…。氷氷…」
ぷっくりと腫れ、其の回りは紫色を帯びる。酒の入るグラスから氷を取り、袂から取り出した手拭いで包み箇所に固定した。
痛みに冷たさが加わり一層強くなる鈍痛に少年は頭を抱え唸り、自由な足を床に叩き付け痛みを拡散した。
「堪忍な…」
「構いません…、ベッドに運んで頂けますか…」
云われた本の内容を完全に忘れてる程少年は痛みに悶え、片足で飛び乍らベッドに座った。鬱血に男は顔を顰め、立てた膝に小さな少年の足を乗せた。箇所に息を掛け、氷を乗せ、何とか引かないかと男は在れ此れ施した。けれど益々腫れ上がる箇所に息を吐いた。
「明日見て、腫れが酷ぅなってたら、皹入てるわ。」
少年が持っていた分厚い本に視線を向け、此れが直撃したのかと又足を見た。
済まない済まないと男は繰り返し少年の足を撫で、スポンジの様に柔らかい其の感触に多分そうだろうと項垂れた。
「うちが話掛けたばっかしに…」
「ぼうっとして居た、僕も悪いので。」
如何か自分を責めないで欲しいと少年は笑う。気休めにしかならないが、男は少年の額に強く口付けた。
離れた男の口に少年は寂しそうな目を向け、又薄く笑うとベッドに寝た。布団を掛けた男は横に腰掛け少年の髪を撫でたが、一緒に、と袂を引かれ、少年と共に枕に頭を乗せた。見合わせる顔を互いに撫で合い、少年の小さな身体は、男の少し曲げる身体の中に簡単に収まってしまう。そんな小さな愛らしい少年に男は笑う事しか出来無い。
時刻は零時半、そろそろ寝ろと男は少年に云うが、待って居た男が漸く傍に居る事と、足を覆う鈍痛に眠気は無かった。
少年は笑い乍ら息を吐き、男にそっと口付けた。鳥達がする様な、少年には似合いな可愛らしい口付けで男も笑う。
「今日は何方に?」
小さな少年の指先に口付け、上目で見た。
「会合や、帝國医大の。其処に空きがあるて。」
「では帝國医大に?」
「いや。」
「何故?」
折角の良い話だが、男に其の気は無い。男は町医者になりたく日本に帰国したが、かと云って大学病院に興味が無い訳でも無い。
待遇が途轍も無く良いのだ。
助教授の地位で、二三ヶ月働けば男の望む開業資金が貯まる。父親に開業したいと云えば金は出してくれるだろうが、男の自尊心が許しはしなかった。
もう二つ、男が首を縦に振らない理由がある。帰国した男の噂を聞いた、神と呼ばれる外科医が自分の病院に来いと云って居る。
――帝國大程給料も地位も出せんが、御前の為にはなる。御前の力が本物なら、看板も分けてやろう。
帝國医大との会合が終わった後返事を聞かせろと云う。
もう一つ、帝國大に頷かない理由は、要因と云っても良い。男を独逸に連れて行った医者が、其処に腰を落とす。其の医者は精神科医であるが、同じ場所に居ると思うと、男は呼吸が出来無くなる感覚を知る。
大学病院の待遇に魂を売り自分の力を枯渇するか、自分の力を長い時間掛けて在の医者に示すか。
険しい顔で男は少年の手を無意識に握り締め、痛いと云う声にはっとした。
「やっぱ、今から病院行こか。近衛医師(センセイ)なら、診てくれはるわ。」
「手です。」
云われた男は慌てて手を離し、作った笑顔で額に口付けた。
「握てんの、忘れてたわ。」
「如何されました…?」
不安な目で自分を見る少年の目に男は身体を離し、離れた手に少年は息を吸った。
「何方に…」
「さっきの本、講読したるわ。そうしとる内に、寝るで。」
床に落ちる本を拾い、俯せで頁を捲った。
「何処?」
「ええと、確か長男が。」
「長男長男……、嗚呼此処や。」
男は大袈裟に喉を鳴らし、暫く無言で文字を追って居た。何時迄経っても男が読み始めない事に少年は無言で瞬きを繰り返し、声を掛け様とした時聞いた事の無い文章を聞いた。正確には言語である。
「兄上…?」
「何?」
「何処を…」
「“京子の声に政宗は浮遊感を知った。川のせせらぎを連想さる声で、又其れをはっきり頭に表現出来た”の場所。」
「日本語で、御願い出来ますか…?」
「Nein.」
云って男は、険しい顔をする少年等気に止めず話を進めた。全く話が見えない少年は段々と混乱し始め、しかし男の思惑通り目をしば付かせ始めた。
話の内容は判らないが、呪文の様に繰り返される独逸語と男のテノールは少年を優しく包み、頭に心地好い靄を掛けた。
三十分した所で少年の寝息が聞こえ、丸めた手を顔に寄せる寝顔に男は上体を起こした。
「此れからだったんだけどな。」

――彼は私を見るとそっと笑った。其れは昔くれた純粋な笑顔で、シャンデリアの隙間から見えた彼の口の動きに私は笑った――

「Ich liebe dich...」
「I love you, too...」
聞こえた少年の寝言に男は驚いた顔で本を閉じた。
「愛してるよ、時一…」
桜ん坊の様な少年の唇を撫で、ベッドから離れ様とした男の背中を少年が掴んだ。寝て居るとは思えない程少年の力は強く、男は項垂れ片手で顔を覆った。
「勘弁してくれ…」
理性と性欲が限界だと、男は其れを振り払う様に少年の手を背中から剥がした。
男が性欲を持て余す様に少年も、剥がされた手を持て余し、ベッドを弄った。シーツで遊ぶ少年の小さな手は男を誘って居る様に艶めかしく、少しなら良いだろうと、誘われる侭口を寄せた。
噛み付き、骨と歯が擦れ合う音が口内に響く。薄い手の甲を舐め、指をむしゃぶり、男は少年の手を愛した。少年のくぐもった声に一旦口を離し、唾液で濡れた手を見た男は自分自身を哀れんだ。そんな馬鹿な男を戒める様に少年は男の顔を平手打ち、数回シーツで拭くと布団の中に仕舞った。
「人を愛するって、辛い…。欲望見せたら無意識の平手打ちだ…」
男は生まれて始めて試練を知った。就職先を如何するよりずっと頭を使う事で、人生を決める事だと思った。




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