兄弟喧嘩への羨望


兄が一人、此の家に居るだけで、家の中は丸で戦下の如く喧しく為る。大概は何時も一人で何かに向かって不満爆発させて居る、一寸アレでカーアイソーな兄だが、今日は明らかに口論をして居た。兄の声が大き過ぎ、相手の声が聞き取れない。兄と口論をするの等、父と相場が決まって居るので、今日もそうだろうと耳栓を持ち入った。
然し。
父にしては“大人し”過ぎた。
兄と口論する時、父の声は兄以上に大きく、「バカーッ」の最後の一言で兄は怯む。
だから嵌め様として居た耳栓を机に起き、肘を突いた。
「誰…?」
まさか姉では無いだろう。此の二人の喧嘩は、とも云え無いが、喧嘩は、姉が一方的に兄に喚き散らして終わる。変態だの何だの兄を貶すだけ貶し、終わる。
今日のは、兄が喚いて居る。
「本当に、誰…」
兄は等々、頭がイカレたのであろうか。見えない相手では有るまいと、部屋から少し覗いた。
するとドアーの前に姉が頭抱え前方を見て居た。
「姉上…」
声を掛けると手を払われ、一緒に部屋に入って来た。水を飲みたいらしいのだが、階段の所で兄が喚いて居るので、飲みに行けなく為ったとの事。丸テーブルにある水差しから姉は一杯飲み、息を吐いた。
「御兄様もね…」
血気盛んで、と姉は首を振り、相手は?と聞いた瞬間、兄の「逃げるなよ」の声に続き、手伝い達の悲鳴が聞こえた。
「もう本当に…止めて下さいませ…」
姉は頭を抱え、決して部屋から出様とはしなかった。父の所為でか、姉は極端に怒鳴り声と云う物を嫌い、聞こえた兄の声はまさに其れであった。
「離せやっ」
「逃げんなって云ってんのっ。髪引っ張んなよっ」
「逃げてへんわっ。相手にせぇへんゆうてるだっきゃろっ。自分こそ離せやっ」
姉が蒼白する様に、部屋から覗き見た光景に、血の気が引いた。
此れが、“兄弟喧嘩”…。
兄の喧嘩相手は、信じられない事に、在の何があっても笑って居るだけの温厚兄上であった。手伝い達の悲鳴も当然で、二人は取っ組み合いの喧嘩をして居た。
兄上より少し背の低い兄は、兄上の胴にしがみ付き、兄上は其れを引き剥がそうと兄の髪やら何やらを掴んで居た。皺一つ無い軍服、其れが兄の型だと思って居た為、ぐしゃぐしゃにされる軍服に唖然とした。
「宗一様っ、御止め下さいっ。旦那様に知れたら大事に為りますよっ」
「坊ちゃま、坊ちゃまっ。相手は御兄様に御座居ますっ」
兄上を男の手伝い二人が、兄を女中四人で必死に止め、間を裂いて居た。
「離せやっ、此の餓鬼一発殴ったらな気ぃ済まんわっ。親父が何やっ、ゆえやっ。ゆうたらええや無いかっ」
固定されて居ない兄の足が兄上に伸び、強烈な蹴りを足に食らわした。完全に憤慨したのか手伝いを振り払った兄上は顔面を殴り付けた。手伝いは悲鳴を上げ手を離し、御蔭で兄は、頭から床に落ちた。瞬間兄は、兄上から目茶苦茶に殴られ、然し兄も兄で殴り返して居た。
「糞がっ、死ねっ。ヴァイオリン壊して於いて無視かっ」
「自分が死ねやっ、鬱陶しいやっちゃなっ。ヴァイオリン如きでしつこいなあっ」
「如きっ?」
其の言葉で兄の怒りは又湧いたのか、今度は兄上が床に叩き付けられ、兄は楽譜で兄上を叩き始めた。
「そない大事なもんやったらなあっ、あないなとこに剥き出しで置いとくなやっ。ケース入れて壁に飾っとけやっ」
「一寸置いてただけだろうっ?楽器がっ、ヴァイオリンがどれだけ繊細か知ってるでしょうっ」
「大体なあっ、壊した壊したゆうてるけど、壊れてへんやんけっ」
「調律が狂うんだよっ、ボケがっ」
「何やあっアホンダラがっ。悪いん自分ちゃうんかっ、嗚呼っ?」
「嗚呼っ?兄さんだろうがっ」
此れが本当に兄上の声であろうか信じられない。おっとりゆったり流れる様に話す兄上とは真逆の、チンピラ紛いにだみ声の巻き舌でがなり立てる姿。姉で無くとも衝撃で言葉が出ない。
「姉上…。在れは一体…」
幻覚でも見せられて居る気分だった。
「時一…、見ては…駄目よ…」
駄目よと云われても、脳裏に完全に焼き付いた。兄上は、もっと静かに怒る人格者だと信じて居た。見事に裏切られ、然し、此れが“木島宗一郎”の血なのかと納得もした。手伝い達はもう如何仕様も無いのか、二人の怒鳴り声だけ響いた。
何時迄続く事かと思った其の時だ。
二人は同時に声を窄め、「嫌だなあ兄さん」「堪忍なあ」と態とらしい声が聞こえた。
「何を、して居るんだ、御前達。」
此処迄振動が伝わりそうな、地鳴りの様な声。姉は安心したのか、一度溜息を吐き、そして耳を塞いだ。
「嗚呼…っ、愛しの御父様…っ。御帰り為さいませっ」
何でも無いのよ、と兄の猫撫で声。
「いやあ、な?なあんも?遊んでたんや、なあ?なあ和臣ぃ…?」
音の様に流れるゆったりおっとりとした声は、兄も然り、数秒前迄チンピラ化して居た人間と同一人物とか思えない口調である。
兄達二人がチンピラである為ら、父は名の通り“親父”である。
「喧嘩するのは、構わんが。」
「喧嘩じゃ無いって…」
「そうそう、遊び…」
「汚い言葉は、頂けんなあ…?」
見ても居ないのに、其の眼光が判る。此処に居ても身震い起こす程怖いのだから、兄達は恐怖死寸前であろう。
「違う…っ、在れは…。兄…さん…。そう先に兄さんが云ったっ」
「はあ?何やて?逃げんなゆうて殴って来たん自分やろう?」
「先に殴った…の…は…俺っ。其れは認め…るけど…っ」
「糞が死ね、先にゆうたん自分やん。」
暫くの無言。父は手伝いに視線流し、正確な事情を把握して居るのだろう。部屋に居て判るのは、凄い。
「嘘は吐くなよ、和臣。」
「嘘…じゃ無いよ…」
「そうか…」
噴火。其れが来る。
姉がして居る様に耳を塞ぎ、其れでも聞こえた兄の絶叫に、姉と二人で強張った。
「痛い痛い痛い痛いっ」
「発端は宗一だとしても、其れを肥大させたのは御前だ。」
「だからってっ、何でっ。俺ばっかっ」
「旦那様…」
「糞がっ、御前の所為だっ。馬鹿っ」
又絶叫が聞こえ、近く足音。此れだけでも充分恐怖を与えられたのに、事もあろうかドアーは開いた。片手でドアー開き、もう片手で兄の頭を鷲掴み引き擦って居た。
「邪魔したな。煩かっただろう。」
「いえ…」
「何時もの事ですわ…」
閉じるドアーから見えた兄の姿。涙目で父の手を掴み、御免為さいと喚き乍ら廊下を引き擦られて居た。
「兄さん助けてっ」
「親父っ、ちょぉ待ってっ」
数分前迄死ねや何や口汚く罵り合い喧嘩をして居た筈が、助けを求め、そして助け様として居た。兄を引き擦る父の後に兄上は付き、「和臣は悪無い、許してな」と悲痛な声を漏らした。
結局、仲が良いのか悪いのか、良く判らない。
姉に云わせれば、成長しない唯の阿呆、らしい。
本気で殴り合い、本気で罵り合い、本気で助けに行く…。
そんな事をした事も、此れから先もするとは思えない僕は、少しだけ、兄達を羨ましく感じた。
だって其れは、本気に為る程の相手では無いと、兄達から云われて居る様な気分だったから。




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