秘事


随分と時間が遅いのに、台所には使用人が四人居た。調理人が一人、其の膳を運ぶ使用人が二人、洗い物をする使用人一人、詰まり誰がこんな時間に食事をして居る事に為る。水を飲みに来た僕に使用人達は談笑の口を止め、無言で顔を逸らした。使用人が談笑して居様が僕は父上に報告したりする人間では無い。勝手にして居れば良いと思うが、姉上が酷く其れを嫌う節があり、一瞬見た使用人達は寝巻な為僕と姉上を見間違えてた。
使用人全員が男、必然的に食事をして居る人間が兄上だと判った。兄上は女が傍に居るのは疎か、女が調理した物等絶対口にはしない。家に男の使用人が矢鱈多いのは、此の所為である。兄上の部屋を掃除するのも、洗濯をするのも、アイロンを掛けるのも、膳を運ぶのも絶対に男だった。
「何か。」
種火で煙草に火を付けた使用人が聞いた。
「水を飲みに。」
水差しから曇り一つ無いグラスに水を貰い、半分だけ飲んだ。就寝の挨拶を貰った僕は頭を下げ、自分も早く寝たいと四人は笑った。
「宗一様もね、こんな時間に。」
序でに明日の仕込みをして居た使用人の声を後ろで聞いた。
「こんな時間、だからでしょう。」
クスクスと四人は笑い、足を止め振り向いた僕に又無言に無表情を晒して居た。
薄暗い広間を抜け、階段を登り終えた時、廊下に伸びる部屋から漏れた明かりに足が止まった。使用人がきちんと閉め忘れたのかドアーは指先一つ分開き、中を覗くには充分な幅があった。覗いては駄目だと判って居るが使用人達の「宗一様も、ねえ」が矢鱈頭に残り、そして僕の興味を引いた。こんな時間に一体何をして居るのか、興味を抑え切れ無く為った僕はしゃがんで隙間から中を覗いた。丁度兄上の背中が見え、けれど相手は見えなかった。其れが良かったのか僕の興味は薄れた。
然し―――。
「宗、大好き…」
聞こえた弱々しい声に眠気が吹き飛んだ。男とは判って居たがそんな相手だったのかと、目を凝らした。
「兄上の相手って、どんな人だろう。」
周りから兄上は男が好きだと云う事を聞かされ知っては居るが未知の其の世界は興味を色濃くさせ、良心を薄くさせた。
「もう少しで見えそう何だけどな…」
弱々しく掠れた声は、容易く姿を想像させたが、果たして僕の想像と実像が同じか、自分の想像力を試してみたく為った。
亜麻色の髪を優しく撫でる繊細な指先、矢張り想像通り、第三夫人に似た繊細さを持つ人間だった。
「顔…、顔が見たい…」
兄上の好みとは一体どんなか、どんな顔してそんな事に及ぶのか、活字で無駄に蓄えた知識は時に自分の意思とは関係無く暴挙に踊り出る。
「あーん。」
宙に動く箸先、其処に乗って居た大根は一度兄上の口元に向かったが方向を変えると兄上の笑い声が聞こえた。
「ずっこいなぁ。」
「ん、美味しい。要る?」
要ると云った兄上の後ろ衿に細い指先が入り、肩に掛かった相手の髪を見た。
「相手は長髪か…」
少し動いて呉れれば顔が見える、期待乗せ凝視し続けた。
「ねえ、もう、人は来ない…?」
「来るんちゃう?」
「鍵閉めちゃおうよ。」
「してる事、ばれてまうやん。」
「駄目…?」
「あかん事、無いで…」
二人の笑い声は重なり、少し遅れて唇が重なった。其れに僕の興奮は重なり、小さく息を漏らした。初夏だと云うのに首筋に汗を覚え、兄上の背中に伸びる細い腕を見た。
「何で椅子…。ベッド行こや。」
「だって入って来られても椅子だったら、対応出来るじゃん。」
「そぉんな艶っぽい顔してか?」
相手の小さな悲鳴が聞こえ、片足一つ、肘置きから伸びた。
「あ…………っ」
溜息に似た声、背中を丸め兄上にしがみ付いた、漸く見えた相手の顔。想像ではもう少し女よりの顔をして居たが、男にしては充分過ぎる程の端麗さを持って居た。抑、女嫌いの兄上の性格を考えれば判る事だが、想像と少し外れた事に僕は落胆した。
「其れ、気持良い…」
低く呻いた相手は眉間の皺を深くし、兄上の耳元で溜息を繰り返した。背凭れは少し後ろに動き、ぎちりと相手の快楽を僕に教える様にバネの音は廊下に響いた。
「何で焦らすかな…」
顔を歪ませ相手は笑い、兄上は楽しそう鼻で笑う。椅子で致す事が余程気に食わないのだなと、其の笑い方で判った。
「ううん…、違う…、其処はやだって…」
「膳下げ来る迄入れるわきゃ無いやろう。何で使用人に見られなあかんの。」
肘置きから伸びる足はぶらぶらと揺れ、時偶強い強張りを見せた。
「其れは何?俺のだらし無い顔?其れとも、宗がそんな事してる事?」
「前者に決まてるやないの。」
「だよねぇ、俺がだらし無い顔するって事は詰まり、宗が本性出しちゃうって事だもんねえ。やっだ怖い、菅原先生怖いわ本ト。」
兄上の本性、強い性を見せる姿、一体どんな姿か、使用人が膳を下げに来る前に見せて欲しかった。
「触りなや…」
「菅原先生は人格者振ってらっしゃっても、人並みに性欲は持ち合わせで御出でですぅ。」
「うっわ、鬱陶しいわぁ、此奴…」
兄上は苦笑う顔を逸らし、相手はそんな兄上が嬉しいのか満面の笑みを浮かべて居た。
「回診の御時間です、ふふ。」
耳元で笑い、舐め上げると相手は肘置きから足を抜き、床に付けた。一瞬前迄相手の足が乗って居た肘置きには相手の手が乗り、舌打ちした兄上は観念した様に背凭れに頭を預けた。
「菅原先生、腫瘍が肥大して居ますよ。」
「悪性ちゃうわ、放って於いても構へん。」
「何を暢気な。此れは日常生活に支障を来す恐れがありますよ。」
椅子から微かに見える兄上を見上げる相手の顔、此れは想像通りの顔付きであった。繊細でけれど何処か攻撃的な、悪戯な笑みを浮かべる子供の様な人間。兄上の相手は屹度そんな人だろうと考えた。
最後迄逃げ続けた兄上だが、相手の意地悪い笑みに等々完敗し肘置きに乗る相手の手に手を乗せた。
「内科医は如何すんねや。」
「勿論、こうします。」
肘置きから離れた相手の手は椅子に隠れ、浮いた兄上の手は一瞬で爪を深く布に食い込ませた。
「はあ…」
背凭れに頭を乗せる兄上の口から息が漏れ、其れに合わせる様に椅子は小刻みに揺れ、水を啜る様な音も聞こえた。二人が何をして居るのか皆目検討付かない僕は、見て居ても判らないのだからと一旦隙間から顔を離した。酷使した所為で目は疲れ、何度も強く目を瞑った。
聴覚だけが矢鱈に反応し、両耳は交互に動く。隙間から聞こえる音は色々な音を混ぜ、一つの性を見せて居た。細胞一つ一つが集合し、其れこそ腫瘍に成る様に、僕に強烈な性を教えた。又じっとりと首筋に汗を覚え、不思議な事に、活字でしか知らない筈の熱さを僕は実感した。乏しい知識は素直な興奮に恐怖を重ね、自分の身体を覆う熱に耳鳴りがした。然し其れでも聞こえる性の音は明確で、何故覗いてしまったのか、相手を知りたいだけであったのにと、罰を受けた様な気分だった。微熱に視界が霞み、風邪を引いた様な感覚で入らない足に力を入れた。
「寝様…」
最初から興味等向けず素直に寝て居れば良かった。活字よりも強烈な色香を放つ空気に呼吸は侭為らず、熱い息を無意識に吐く口元を押さえた。内から吹き上がる熱に喉の乾きを知り、足音に注意し乍らドアーから離れた。二回往復した時には足音に等注意向け無かったので今更なのだが、こうも知って仕舞うと人間と云うのは不思議な物である。階段を下り終え、急ぎ足で台所に向かうと案の定使用人達は不思議な顔を向けた。
「何で今日はこんなにも暑いんですか…」
再度姿を現したのは其れの所為だと自分に言い聞かせ、使用人の一人は、首筋に張り付いた髪に触れると困った笑みを向けた。
「寝汗が酷い。此の侭寝て仕舞われたら風邪を引かれるかも知れません。」
冷たいタオルの感触に少し熱さが引いた。
「坊ちゃん、一緒に部屋に参りましょう。水差しに沢山の水を持って、眠る迄団扇で風を送って差し上げます。」
「有難う御座居ます…」
支える様に背中に手を添えられ、部屋迄向かった。水差しとグラスの揺れる音が響き、階段を登り終えた時、少しばかり開いて居たドアーが閉まって居る事に気付いた。廊下は何処迄も暗く、僕を嗤って居る様見えた。
在の人は恋人なのであろうか、そうに違いないと、考えたら何故か、知った性に対する熱の息苦しさでは無い息苦しさを覚えた。
「兄上の客人は、恋人なのでしょうか。」
布団を掛けて居た使用人は一瞬目を見開き、そして伏せた。
「さあ、私共は其処迄関与しておりませんので何とも。特に宗一様は和臣坊ちゃまと違い、昔から謎に満ちて御出でですから。尚且独逸から帰国為さったばかりですので、今現在の宗一様、私共一同模索中に御座居ます。」
くすんと笑う使用人の声に、ちくりと胸が痛んだ。
謎に満ちた兄上、其の謎を全て知って居るであろう相手。目を閉じると闇と共に落ちて来る相手の笑い声。
「中々眠れそうに無いので、もう結構です…。御免為さい。」
寝返りを打ち、背を向けた僕に使用人は何も云わず、頭を一度撫でると静かに部屋から出た。
布団に篭る熱い息は、途轍も無い息苦しさを僕に教えた。そして知れず、涙を零した。
此れが恋敵に対する嫉妬だと、僕は未だ知らなかった。




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