幻想曲風ソナタ


夜も遅いのに、ピアノの音がした。最初は幻聴、或いは聞き間違え、そう思った。けれど彼の部屋の前を通ると、其れが本物で有ると知った。唯、鍵盤を押すだけの音。一つ一つ、確かめる様。けれどきちんとした率に為って居た。
十四番幻想曲風ソナタ――通称“月光”。彼は電気も点けず、月明かりをピアノと自身に浴びた侭、耳を鍵盤に寄せ弾いて居た。
「…寝為さい。」
ふいに音は止まり、彼の視線は月に向いて居ると謂うのに、本の少しドアーを開け、覗いた私を知って居た。
「子供の、起きとる時間とちゃうで。」
「済みません…」
「御休み。」
月明かりを我が物にする、其の髪。私の髪が同じに当たってもこうは為らない。黒では決して無い、だからと謂って、黄や茶でも無い、其の亜麻色。月明かりを含んだ髪は黄金色に輝いて居た。
「兄上の髪って。」
「んー?」
「奇麗ですよね。」
鍵盤から細長い繊細な、音色の様な指は離れ、顔に垂れる髪を見た。
「そうか?」
「何か、ブロンドに似てますよね。」
「此の日本人顔に、な?けったいな話やわ。」
「僕、大好きですよ。」
彼は少し笑い、途中迄剥いたカバーの上に置かれるグラスを持った。彼が出せば、全て音楽に為ると謂うのか。グラスの中で揺れる氷の音さえ、音楽だった。
「寝為さい。」
「兄上は寝ないんですか?」
「寝るよお?弾き終わたらな。」
「じゃあ、僕も。」
「阿呆抜かせ、夜が明けるわ。」
くつくつ笑う、其れに重なる氷の音。声も。一つの音楽を私に聞かせる。
「じぃとでっかい目で見ても駄ぁ目。猫か。」
「…………。」
「時一、こら。戻り為さい。」
本の隙間から私は入り、静かにドアーを締めた。本気で彼が私を部屋から追い出す積もりなら、椅子から立つ。実際私は相遣って何度も追い払われた。彼は、余り聞かれるのが好きでは無いから。駄目駄目と謂い乍ら、薄い唇からも、指先からもグラスは離れない。椅子からも立つ気配は無い。月明かりの様に、動かなかった。
「何で寝るの。」
「寝ろと、仰有いましたよね…?」
「自分の部屋で寝為さい。」
私のベッドとは違う匂い、彼の匂いが染み付いて居た。
薄いタオルケットと一緒に寝る白衣、私は其れを一寸手にした。私がタオルケットを使えば、彼が使うのが無く為る。何て、其れは嘘。
目を閉じ、目から下を白衣で覆った。鼻が丁度衿の所で、彼曰く、フェロモンとやらは、其処から出るらしい。フェロモンが何たるか子供の私は知らず、けれど確かに触発された。病院独特の匂い、煙草の匂い、其れに、彼の微かな体臭が混ざる。此れがフェロモンなのかと知る。
「白衣。止めて。皺ん為る。」
「くしゃくしゃに置いて於いて、ですか?」
私が見付け無ければ、白衣何処や、と朝探す羽目に為る癖に。
「と謂うか。何で白衣が有るんですか?」
白衣を着て街を歩く医者等、後ろに看護婦を連れてない限り見ない。然し彼は何時見ても白衣を着て居る、帰宅し、部屋から出て来る迄。其の後は、白衣の裾の代わりに袂を揺らして居る。
「面倒臭いやん。出掛ける時上着着て、着いたら脱いで、白衣着て…ほんなら始めから白衣着てくわ。夏は流石に暑いからせぇへんけど。冬は其の上からコート着てく。」
「日本の白衣と違いますよね、此れ。」
「在れが一番ええんやけどなあ。」
「割烹着みたいですよね。」
「そうそう。…ええ加減寝為さい…」
鼻の奥一杯に彼の匂いを送り、口から吐いた。此の吸った匂いは、何処に行くのだろう。私の身体に染み付くのだろうか。
「寝ます。」
「御休み。」
椅子から立ち上がった彼に慌てて謂った。小さな私なら、ちょいと抱えて、其れこそ猫の様に、部屋から出される。
「ちゃんと、タオルケット使い為さい。春ゆうても、夜は寒いんや。」
「はい。」
消毒液の匂いを撒き散らす白衣、彼の匂いを撒き散らすタオルケット。其れをすっぽり、頭から被った。彼に抱き締められて居る気分に為るが、此れでは顔が見えない。目だけでも出そうと動かした頭を、彼の手が押さえた。そして、タオルケットごと私を包んだ。
「時一。」
「何でしょう。」
「ほんに、煽んの止めて来れへん?」
「…………?」
タオルケット越しにされたキッス。一度唇を噛むと、離れた。
「ゆうてもうち、男やし。」
「知ってます、僕もです。」
「阿呆、ちゃうしな。君は男ん子、うちは男、成人男性。」
「生物学上は雄じゃないですか。同じです。」
「同じな訳あるか…」
「…付いてますよ…?一応…」
こんな形だが。何時も“御嬢ちゃん”と呼ばれるが、正真正銘、男である。
「知ってますよ…?可愛いのがね…?私の親指位のがね…?」
「失礼ですね、もう少しありますよっ」
「うっそぉ、見せてみ。」
「…嫌ですよ…」
「やっぱりぃ。」
親指サイズの時一君、可愛い可愛い男ん子、等と訳の判らない歌を手を叩き歌う彼にむっとし、顔を出した。
「でしたら、兄上のは、嘸かし、御立派なのでしょうね?」
頬杖付いて居た彼は、垂れた目を丸くし、一度視線を流した。
「いや、細長い。仏蘭西人みたい。和臣のは違うなぁ。てゆうか和臣、比率差無いやろ。在の侭で立つんちゃう?外人みたいに。」
「…知らないですよ…」
彼の其れも、仏蘭西人の其れも。兄さんの其れ等、もっと知りたくない。余計な事は要らない。
「うちはちゃうなぁ、おっき為るで。長さは要らんのやわ、もちっと短く、太さ欲しい。…和臣程は要らん…」
「いや…もう…結構です…」
「聞いて来たんそっち違うの。」
確かに聞いたかも知れないが、誰がそんなに事細かく、願望迄謂えと謂った。十歳の子供に、彼は何を謂って居るんだ。
「寝て良いですか…?」
「せやから、早ぉ寝為さい、ゆうたでしょう。男はなぁ、暇やったら下ネタに走んのぉ。男ん子の君には判らないですよねぇ。」
「…御休み為さい…」
不貞腐れ、タオルケットを被った。とん、とん、と肩を叩かれ、彼は矢張り弾きたいのでは無いか、指をそう謂う風に動かした。
「兄上。」
「早寝て…」
「弾いて良いですよ…?」
「もうええの、うちも寝るの。」
「そうですか。」
段々と、声が掠れ始めた彼。暫く私は暗い中で瞬きを繰り返し、聞こえた寝息に頭を出した。
「寝てる。」
寝ると宣言したのだから、そら寝るだろう。然しまさか、本当に寝るとは思わなかった。
月が、傾いて居る。彼を追う様に月が動いて居る。寝顔を隠す髪を払い、顔を寄せた。
「兄上…」
「はいストップ。」
目は開かず、薄い唇が微かに動いただけだった。唇に掛かった彼の息に私は驚き、身体を引いた。
「誘って逃げるとか。」
私の身体に伸びる腕はびくりとも動かず、彼の腕の長さ分迄しか身体を引けなかった。
「あんなぁ時一。」
「はい…?」
「部屋、戻って呉れへん?」
「え…」
何か気に触る事でもしたか、覚えが無い訳では無いが、キッス位、今迄何度も繰り返した。
「一緒ん寝たいんは判るよ、うちも寝たいし。抱き心地ええから。でもな。」
月明かりに浮かぶ、奇麗な目。私は其れを逸らせず居た。
「……壊すよ?」
窓から見える月は、彼の目の様に奇麗な光を纏い、まあるく空に浮かんで居る。
在の月を、手にする事は出来るのだろうか。
そんな思いで彼の顔に手を伸ばしたのだが、月は、矢張り手には出来無いらしい。触れる前にしっかりと掴まれた。
「御免な時一。」
「はい…?」
「愛てなぁ、小説の中んみたく奇麗違うのん。」
「はい…?」
「ほんまはな、どす黒くて、歪んでて、ちっとも奇麗何かやあらへん。何処に奇麗さがあんの。なあ…?」
私の声は、雲が月を隠す様に、キッスで隠れた。
「こんな自分が、嫌いで堪らんのだよ。」
私は彼が此の地球上で最も好き、一方で彼は、世界の何よりも自分が嫌い。そんな彼を好きで、私は果して本当に良いのか。私が彼を好きで、彼は自分を愛せるのか。出来るなら彼には、自分を愛して貰いたい。そんな彼なら、私はもっと愛して仕舞う。
自分を愛する、則ち、大事にする。
自分を好きな人間には、二通りが存在する。
盲愛的に己だけを愛する人間は、防衛に依る。結局は人を信じず、自分以外を信じられない、だから自分の事しか愛せない。詰まり次兄だ。
もう一方は、愛をたらふく与えられ、愛が何かを知り、其れに依って倖せを知る為、満ち足りた自分を愛して仕舞う場合。其の状況が好きで堪らず、其れ以上の倖せを望まない満たされた人間。此れが姉に当たる。
彼は其の何方でも無く、他人は好き、だけど自分は嫌い、自分の事を好きだと云う人間を変な目で見る時もある。
「僕、兄上が大好きです。」
「有難うさん。」
「自分を愛された兄上は、もっと好きです。」
本の少しで良い、自分を愛して、其の残りを私が満たすから。
「自分を御嫌いだと、そんな寂しい事、仰らないで…」
「時一…」
「僕はこんなに好きなのに、そんな貴方が否定したら、僕は誰を好きに為って良いか判らない…」
ベッドに流れる左腕、其れを持ち上げ、白い傷痕に泣き付いた。
「貴方が泣けないと仰有るなら、僕が代わりに泣きます。其れで少しでも貴方の心が痛んだら、其れは貴方が御自分を愛してる証拠でしょう…?御願い…」
自分を好きに為って。
彼は何も云わなかった。黙って、私を抱き締めた侭揺れて居た。其れは息苦しい程で、彼が懸命に自分を愛そうとする心に居るみたいであった。
私は彼の、光に為れるであろうか。




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