初めまして
――五年前 木島邸――
居間に、見知らぬ背中を見た。伸びた背筋、綺麗な折り目が付いた着物。兄にしてみれば背が高く、第一、髪の色が違った。うちに、こんな色素の薄い髪の人間、しかも男子は居ない。居るとすれば、そう、滅多に見ない第三夫人である。確か、第三夫人は、この男と同じ色素をしている。
亜麻色の綺麗な髪を。
「誰。」
僕は声を掛けた。男は少し驚き、顔を見せた。
「あ。」
思わず息を飲んだ。驚く程色が白く、似ていた。第三夫人に。亜麻色の髪、白い肌、少し垂れた眠たそうな愁いを帯びた目、第三夫人が男子なら、きっとこんな顔をしている。そう、思った。
「は。」
男は声を上げ、僕の顔を繁々と見た。
「時恵か。」
訛りを帯びた口調。此れも、第三夫人と似ていた。
「いや、ちゃうか。うちの記憶が正しかったら、時恵はとっくに成人か。」
男は息を吐き、ソファに座り、煙草に火を点けた。
「あんさん、幾つ。」
「え。」
男はマッチを捨て、僕を見る。実に、眠たそうだ。
「十、ですけど。」
「―十。ははあ。」
心臓が鳴った。見せた微かな男の笑みに、心臓が鳴ったのだ。
「なんやの。」
「え。」
「いや、こっちの話。」
鼻で笑い、テーブルに置いてある飴の入っている陶器の蓋を開け、物色し、真赤な飴を口に入れた。
「―変な味。」
男は立ち上がり、飴を屑篭に捨てた。
口から出された、真赤な飴。赤い唾液が、糸を引いた。其れは垂れ、薄い唇に付き、此れ又真赤な舌が、其れを舐め取った。
目眩が起きる。
僕は数回瞬きをし、軽く頭を振った。
「なぁ、嬢はん。」
「僕、男です。」
男は目を開き、鼻で笑った。
「ほんなら坊。親父何処や。」
「はい。」
僕は聞き返した。先ず僕は、この男を知らない。其れなのに、親父は何処だと聞かれても、僕には見当付かない。
僕の顔に男は、眉間に皺を寄せ、視線を逸らした。
「ちょぉ、宜しいか。」
「はい。」
「うちの事知ってるか。」
「いいえ。」
男は頭を掻き、項垂れた。
「ほんなら、和臣、か時恵で良えわ。何処。」
「二人なら部屋に居ますけど。」
「部屋の場所、変わってへんか。」
「あ、はい。」
男は煙草を消し、二階に続く階段を登る。僕も其れに続いた。第一、僕は、冷蔵庫に用事があった。其れは、もう完璧に忘れていた。
「和臣。」
兄の部屋のドアーを叩く。何故知っているのか、良く判らない。
「一寸待って。」
中から声が聞こえ、激しい音が聞こえる。
「あの。」
「何。」
僕の声と同時にドアーが開き、兄が顔を出した。御陰で、僕の声は消された。兄は男の顔を見るなり慌ててドアーを閉めようとしたが、其れは男の足で出来はしなかった。
「何で閉めはんの。」
「煩い。何で居るんだよ。」
「――家だから。」
「そんな事聞いてねぇよ。」
兄は男の腕を引き、部屋に入れ、引かれた男の手に依って、僕も兄の部屋に入った。
熱い。
掴れた処が、頗る熱い。
「座れ。」
男は無理矢理ソファに座らされ、兄は逃げられない様、背凭れに両手を付いた。
「いや、そんないきなし。」
「違う。俺はそんな趣味無い。」
どんな趣味だろうと、少し考えた。
小さなテーブルに、水が置いてある。僕は、喉が渇いていた。
「兄さん、この水貰って良いですか。」
「あ、嗚呼。――全部飲むなよ。」
「はーい。」
喉を潤し、二人を見る。凄い光景だと思った。
「で、なぁんで居るの。」
「何でって、知りたいか。」
「凄くね。」
「あら。嬉しいわぁ。」
兄は項垂れ、男は笑った。
又、心臓が鳴る。
痛い程。
「冗談はさて置き、うち、戻って来たんや。」
「はぁ。」
兄の声が痛い。
「もう良えかなって。沢山勉強させてもろたし。」
「其れで、戻って来たと。」
「其れにな、向こうで一緒に居った先生が戻って来るってのもあるわ。何も、伝も当ても無い人間が、ぽっと帰ってこれるかいな。」
「最悪だ。」
「嬉しいやろう。」
「――少しな。」
男は笑い、兄の頭を撫でた。兄も、何だか嬉しそうに見えた。
コップをテーブルに置く。新しく水を入れた。
一人だけ、置いて行かれた気分になった。
「兄上っ。」
高い声が、耳に入る。兄は振り向き、顔を緩ませ、男も、笑った。息を切らした姉が其処には居た。
「時恵っ。」
「御兄様に用はありません。―兄上っ。」
兄上――、姉の其の言葉に僕ははっとした。
此の人が、長男。
話には聞いていた。此の家にはもう一人男子が――第三夫人の生んだ長男が居ると。其れが何処で何をしているのか僕は聞かされておらず、初めて見た木島家長男に喉が詰まった。
何故か。
嫡子は僕である。
三男扱いではあるが、本妻の生んだ唯一の男子が僕で、系譜で見ると僕が一番に扱われる男子だった、最も父は、次男である兄を一番に考えているらしいが、兄の年齢も年齢なので致し方が無い。
男は姉の姿に一層破顔し、少し腰を落とした。
「―大きゅうなったなぁ。」
「大きゅうなったなぁ、とか、そんなの要りませんわっ。何時御戻りになったのですか。」
「今。」
姉は力が抜けたのか、床に座り込み、項垂れた。
「もう、帰ってきて下さらないのかと―。」
姉は、泣いていた。体を震わし、小さく泣いていた。
「女泣かせな兄上です事。」
「昔から、よぅ云われるわ。―女に興味無いのにな。」
「俺は、止めてくれよ。」
男は鼻で笑い、僕を見た。笑い、近付き、背の低い僕に合わせ、屈んだ。
優しい目。
この家では決して見る事の無い、優しい目だった。
「御免な、放ってて。」
「いいえ。」
暖かい手が、髪を撫でる。僕は、無意識に目を瞑った。
感じた事の無い、感覚に陥る。
全身が心臓になったかの様に感ずるのに、其れでいて、柔らかい何かに全身を包まれている様な。
「坊、名前は。」
「あ、時一です。」
「ほぅか。顔も似てるけど、名前も似てんねんな。でも。」
暖かい手が、顔に触れる。
「時一の方が可愛えな。」
そう笑った顔に、息が出来なくなりそうになった。
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