馬鹿程可愛い


絵の具の匂いがした。在の特有の油の匂いで、白い彼女の手、爪には絵の具がこびり付いていた。絵を描く事が好きな彼女は、暇があれば描いている。人物画は苦手らしく、描くのは専ら、無気質な物らしい。例えば、食器。
一度彼女の絵を見せて貰った事がある。一メートルはあるであろうカンバスに薔薇と国旗が無造に描いてあった。勿論、其の国旗はユニオン・フラッグ。もう一つのカンバスは描き掛けで、白乳色のカンバスには淡い色の桜の花弁が舞っていた。描き掛け、と云う依りは、気に食わない為放置している様にも思えた。続きは描かないのかと私が聞いたら、彼女は徐に紅色をカンバスに塗りたくり、何箇所か桜を消した。丸い円形から無数に線を伸ばし、海軍の旭日旗を描いた。薄く散る桜の花弁は、何だか魅力的で、とても綺麗だった。
「あたし、前から気になってたんだけど。」
薔薇に色を足しながら彼女は聞いた。
「何でユニオン・ジャックって、云うの?あ、民間人がね?」
私は質問の意味が判らず、赤色と桃色の微妙な色加減を見ていた。彼女は色彩に夢中なのか、私の言葉は要らないらしく、筆を動かし続ける。
「加納さんがユニオン・ジャックって云うのは判るの。海軍だから。」
「と、申されますと。」
「英吉利の国旗は、ユニオン・フラッグだよ。連合旗。ジャックって云うのは海軍だけ。不思議で仕様が無いんだよねー、あたし。」
彼女の不思議は、私の思考も不思議にさせた。多分、日本の国旗が日の丸と日章旗で呼ばれる違いだと思う。若しくは。
「此の海軍の旭日旗が、日本の国旗だと勘違いされているのと同じ事だと、琥珀さんは申されたいのですか?」
「うーん…うん。簡単に云ったらそうなるかな。」
「其れは困りますねえ。」
我が日本国の国旗は、白地の真ん中に赤い丸。此れである。
しかし。
以外と彼女、頭が良い。私の思い違いであろうか。何処から如何見ても、頭が悪そうに見えるのだが。
私は何も云わず、薔薇の色彩と筆の動きを眺めていた。薔薇の着色が終わり、国旗の線に筆を置く。痛い程の青が白地に浮かび、彼女は満足に頷いた。透明な水は青を蓄え、平たい筆は赤を知る。私は筆の動きを眺め、何故が筆の位置に違和感を覚え、知れず首を傾げた。
私の知る其れとは、妙に違うのだ。
「あの…琥珀さん…」
「ん?」
「赤は…其処では無いと…思うのですが…」
青の周りに赤が来ている。私の記憶が確かなら、青の周りは白だった筈。其の侭白を入れてしまったら、真ん中の十字は白十字になってしまうのでは無いのだろうか。
私の言葉に筆は止まり、彼女は瞬きを繰り返した。
「あ、嗚呼!そうだ!しまった!此処は白だ!」
漸く間違いに気付いた彼女だが、もう遅い気がした。其の塗りたくった赤が乾いた後日、白を上から塗るしか無いだろう。
彼女は落胆し、もうやる気が失せたと、張ったばかりのカンバスをイーゼルに置いた。私が来た時、彼女は針を打っていた。其のカンバスだ。
国旗の失敗した其れは乱暴にイーゼルから弾き落とされ、絵の具がこびり付く板床に音を響かせた。今度は筆では無く木炭を持ち、黒を置いてゆく。
私は息を飲んだ。
瞬く間に其の黒は明暗を蓄え、船の形を作り出した。時間にして一時間位だろうか、下絵も無かった真白いカンバスに、真黒い軍艦、柊が浮き上がった。心が落ち付いたのか彼女は額を拭い、満足の息を漏らした。
其の姿。
「琥珀さん…」
「何?」
「おでこ、真黒ですよ。」
カンバスに似た真白い肌に炭が付き、何だか其れが面白くて笑いが出た。
此の時初めて私は、彼女の前で声を出して笑った。
「ぶえっ…木炭って…取れないんだよな…絵の具もだけど…」
「琥珀さん…ふふっ。」
絵の具と炭塗れの彼女は、今迄で一番愛らしい姿をしていた。
私は其の絵を貰い、勿論柊本体に飾った。




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