ワタクシと母


唐突な息子の発言に母親はカップを鳴らした。雅は其の言葉が嘘臭く感じられ、紅茶を飲む振りをし、カップで隠れた口元は鼻で笑った。中にはもう、一滴も入っていないと云うのに。
馨の言葉が全く理解出来ない母親は、聞き間違えだろうと流し、自分と雅のカップに赤い紅茶を入れた。
「私は居ない方が良いみたいですので、部屋に。」
ソーサーを持った雅は椅子から立ち、其の場から消えた。馨には都合が良いが、母親には居て欲しい気持ちの方が強かった。馨の云う事に反論出来ない母親は、誰か傍に居て欲しかった。例え其れが、普段存在を認めていない人間でも。其れ依りも母親には、馨がそんな事を云い出した方に思考を奪われ、雅の事は直ぐ忘れた。
随分と、馨の父親が死ぬ前からそんな話は馨本人に持ち掛けていたのだが、興味が無いの一点張りで相手にされ無かった。其れが行き成り。
女の影は匂わせていなかった筈なのにと母親は感じた。
「其の…御相手は…」
「嗚呼、其れなら心配は無用です。彼女の御父上には了解を得ましたので。」
「そうでは無く、素性です。」
大事な息子の、いや加納の嫁になる女は、完璧でなければならない。
母親の目に馨は詰まらなそうな息を吐き、教えた。
「陸軍の…娘…?」
母親の顔から血の気が引く。依りに依って、陸軍。此の海軍の血に、野蛮な陸軍の血が混じる。母親は渇いた口を紅茶で満たし、息を漏らした。
「其れともう一つ。」
眼鏡を上げた馨の目が気持ち悪く、母親は喉を鳴らした。
「彼女は、日本人ではありません。」
其の言葉に眩暈が起き、全く声が出無かった。唯々視界が揺れ、不安定な不快感を知った。足元がゆらゆらと揺らぎ、吐き気を覚えた。
「なり…ません…」
やっと搾り出した声は頼り無く、出ているのかも疑わしい。馨は紅茶を飲み干し、新しく冷めた紅茶を注いだ。
「駄目と申されても、私は結婚致します。」
「考え直して…」
「嫌です。」
母親の声を無視する様に馨は言葉を繋ぎ、液体の冷たさを食道に教えた。妙な渋さに舌が気味悪さを訴え、馨は顔を顰めた。
無表情に不安定な視線を何処かに向ける母親を無視し、馨は椅子から立つと牛乳を入れたポットを温め始めた。くつくつと煮滾る音が静かに聞こえ、馨は其れを聞いていた。
「私に出す時はミルクティでと、頼んでおりますでしょう、母上。」
ハーブティに等興味は無いと、新しい葉と砂糖を滾り始めたポットの中に揺らがせた。
「馨さん…」
「未だ反対為さる御積もりでしたら、私は彼女と駆け落ち致します。」
全てを捨て、彼女の生まれた場所に行く、そうポットを見ながら云った。
彼女が手に入るのだったら、全てを捨てる。英吉利に向かい、無の状態で始めるのも、浪漫があって良いでは無いか。此れぞ、純愛文学の定義だ。
くつくつと滾る音と馨の小さな喉奥の笑いが重なった。
自分達の愛は、白く無くてはいけない。
白い軍服、白いワンピース、其れを一瞬で汚く見せる吐き出す白濁した琥珀への愛。
ごうっとポットが鳴り出し、牛乳は葉を渦巻かせながら変色していった。茶色く変化してゆく中身は、馨の心の様だった。
白くなければならない。でなければ、汚す事が出来ない。
彼女の過去は、余りに黒過ぎる。だから、漆黒の髪と目を持つ、黒を着る陸軍の娘になった。自分が汚す事は無理だ。ならば、今の白い琥珀を、汚す迄だ。
此のポットの中身の様に、一瞬で変色させてやる。
「母上が幾ら拒否をしても、私は彼女と結婚致します。」
此の家での絶対は、自分だ。
夫に似た息子の目に、母親は静かに頷く事しか出来無かった。




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