lips
彼の言葉に、あたしは何と云って良いか判らず、唯笑った。驚きが強過ぎて、意味不明な発言と笑い、泣く事しか出来無かった。
ずっと好きだった。
好き過ぎて、夢で迄見た。こうして貴方があたしを愛してると云う事を。
愛され過ぎているのは判っている。彼にそう云ったのは、期待を持ちたくないから。あたしと彼は、余りに違い過ぎる。
英吉利で汚く育ったあたしが、綺麗に育った彼に愛される等、そんな馬鹿気た話、聞いた事が無い。
あたしは唯黙って地面を見ていた。彼が早く此処から居なくなってくれる様願って。自分が居なくなれば良い話だが、足に力が無く、動けないのが実際だ。もう一度名前を呼ばれたらあたしは、彼を受け入れてしまう。
だから御願い。呼ばないで。
「琥珀さん…」
呼ばないで。
「琥珀さん…其の…済みません…」
呼ばないでったら…。
遠退く重い靴音が嫌に響き、其の音にあたしは彼を受け入れてしまった。
「馨…さん…」
止まった靴音は、又、早く近付いた。息を吸った。とても深く。彼の香りが肺に充満し、あたしは其れだけで幸せだった。腕の力も、呼吸も、鼓動も、彼の全てがあたしを満たす。
「やっと…名前を呼んで下さった…」
彼の吐息は熱く、強く抱き締められたあたしの身体は痛い程反り返り、立っているのがやっとだった。かつりとヒールが鳴り、よろけた。壊れそうな自分の心臓を押さえ、あたしは短く呼吸を繰り返した。俯くあたしの顔を彼が触り、視線が合う。
「済みません、少し、自分がおかしいです…」
恥ずかしそうに彼は笑い、釣られてあたしも笑った。薄い唇が横に伸び、目は、少し潤んでいた。其の顔が何時に無く人間臭く、又色気があり、唇に指先を当てた。
彼もキスをする人間なのだなと、初めて知った。
彼の唇は、驚く程柔らかかった。あたしの唇は厚いけれど、彼の様に柔らかくは無い。数日前に食べた白子を何故か思い出し、軽く噛んだ。
「痛いですよ…」
「ふふ…だって美味しそうだったから…」
彼はあたしの腕を、唇を重ねた侭引き、後退した。自分達の靴が響き、彼は背中を塀に預けると少し身を屈め、下からあたしの唇を塞いだ。彼の両足の間に身体を入れ、何度もキスをした。
何度したか判らないキスの後、あたしは背中に塀の冷たさを知り、深いキスをした。
夜で良かったと素直に思った。
白い月が彼の後ろに浮かび、一瞥したあたしは、一層白い軍服の背を握り締めた。
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