冷酷情熱


五階迄の道程は、私の身体をすっかり甘い痺れで覆うには充分な距離。階段一段、階一つ、五階に近付く程強く為る。貴方を好きな気持が。其れは甘い痛みを伴い、膝に力が入らない。ぞわぞわと内股を這い上がり、心臓を鷲掴む。
陸軍基地には何度か行った事ある。体力に自信もある、五階位何と云う事無いのに、五階に着いた私の息は乱れ、首筋はうっすら湿り、膝は面白い程笑う。口角も釣り上がる。
最後の一段、登る前に壁に背中を付け、鞄から鏡を取り出した。前髪を整え、一寸ばかし紅を直し、淡く色付く頬を撫でた。
おかしいな、頬紅は付けてないのに………。
よし、と鏡を仕舞い、先の長い廊下を見た。唯々真っ直ぐな廊下、突き当たりは壁、其の一寸前にドアーと男が二人。
「あの…、今日は…」
廊下が矢鱈に長いのには理由がある。海軍基地五階、海軍元帥室。一つしか無いドアーの向こうは、又違う空間を見せる。
海軍基地は最上階が七階に当たる、詰まり其処が元帥室。此の五階のドアーからしか入れない。
五階には会議室と給湯室、六階には書簡庫と将官室があり、七階…最上階が彼の部屋だ。彼は此のドアーから朝入ったら夕方迄一歩も出ない。
声を掛けた私に見張りは視線だけ向ける。無言でドアーを開き、長机が並ぶ空間を見た。
「あの階段から上がって下さい。」
六階に続く階段の前に居る見張りを指し、云う。又見張りの前を通り、六階。今度はドアーが並ぶ階だった。其の廊下に人影。
「あ…、佐々木さん…ッ」
「ん…?」
私の声に気付いた佐々木さんは窓から目を離し、そっと笑う。
「琥珀ちゃんか。」
「今日は。」
窓の外に紫煙を流し乍ら頭を数回撫でて呉れた。彼と会う前、知り合いに会えたのは、緊張を解す意味で良かった。
「やけん機嫌良かったとね。」
「そうなの?」
「うん。気味悪かごたぁ、思いよったっちゃけど、そうか、琥珀ちゃんが来るからやったったいね。」
ささ御待ちですよ、と云わんばかりに、佐々木さんは煙草を消すと私の手を掬う。然し私は不思議だった。彼とは此処一ヶ月、会って居ない。約束等して居なかった。けれど不思議は気に為らず、気に為ったのは専ら、汗ばんじゃ無かろうかと、どっしりとした手に握られる我が手だった。離れた手はしなやかに七階のドアーに流れ、三回軽い音を鳴らす。
「私です、元帥。」
「はい。」
背中に電流が走った気分だった。久し振りに聞いた彼の声なのに、耳に膜が張る所為でぼやけて聞こえた。
「客。」
「誰です?此の忙しい時に。木島さんですか?全く全く…」
「ん?御前が呼んだとや無いとか。」
「ワタクシが?木島さんに用有る場合はワタクシが行きますよ。」
ごつりと、靴音が寄った。
「失礼ですが木島さん、いらっしゃる時には事前に……」
上がる顔、私を見止めた彼の冷たい目は、一度瞼で消えると見開いた。
「……今日は。」
「琥珀さん…?え…?大和、此れは何です。」
「琥珀ちゃん。あれ?違うとか…?」
「いいえ、彼女は確かに琥珀さんです。何故居るのです。」
「さあ。」
「御免為さい、あの…、前を、通って…其れで…」
基地の前を通った時、じっと門衛を見た。入りたいと思い見た訳では無く、此の人は朝に彼を見たのだなと羨望から。すると一度視線を落とし、嗚呼、と頷くとすんなり入れて呉れた。訳が判らず立ち尽くして居ると一人男が現れ、丁重に此処迄の道を教えて呉れた。教えて呉れた男は部屋が三階なのか三階で別れ、云われた通り五階迄行くと見張りが居た。そうして佐々木さんに会った。
「いいえ…結構…、些か驚いて居るだけです。」
ワタクシは決して怒って居ないからと柔らかな笑顔と共に掌を見せ、其の侭佐々木さんを払った。
「全艦撤退。」
「アイアイサー。」
にやにやと口元緩ました侭佐々木さんは消え、広い、唯広い部屋にぽつんと立った。
口元を隠し乍ら視線を床に流し、木島元帥だとばかり思って居た彼は混乱を見せて居た。
「…ええと…」
「御免為さい…、帰ります…」
今来たのに何を云って居るんだ、そう云うなら初めから来なければ良い。佐々木さんに続いて撤退し様とした私の腕を、熱い手が掴んだ。
「いいえ、いいえ、如何ぞ…、あの…」
「私って馬鹿…、何考えてるんだろう…、帰ります、御免為さい…」
「琥珀さん…ッ、あの…」
あの…と彼の身体は近付いた。両二の腕に伝わる熱い彼の体温は、私の耳迄熱くした。どくどくと心臓から熱い血液が流れ、足が痺れた。
「あの…琥珀さん…」
上目で見た彼の顔は、困惑を厚塗り、漆黒の髪から微かに覗く耳は真っ赤だった。
私と同じ気持…?
「会いたかったの…」
「……ワタクシも、ですよ…」
私の身体はすっぽり彼の体温に支配され、軍服からする彼の匂いに頭が茹だった。
「馨さん…」
ぎゅう…と背中を握り、一層強く為る腕の力を知った。
「琥珀さん、琥珀…」
耳の裏に知る彼の息遣いに腰が痺れ、其の痺れは口から漏れた。
「あ…」
「会いたかった、本当に…」
鼓膜に直接届く、愛。私を抱き締める力が、彼の愛が強く為る程、私の踵は浮いた。
「馨、さん…」
「此の御馬鹿さん…」
「御免為さい…、でも…」
「駄目、駄目ですよ、琥珀さん…」
海の男は危険だから、彼は云う。駄目と、必死に自分に抗い乍らも彼の唇と愛は、耳を弄ぶ。
息遣いと共に知った微かな灼熱に肩が跳ねた。
「か…」
「琥珀さん…」
「擽っ…たい、の…」
「でしょうね…、首筋に鳥肌立ってます。」
「駄目…」
耳朶から伝わる電流、私の腰に鉛玉が撃ち込まれた。
「あ………ッ」
重力に従う私の身体を、逆らう様に彼の腕が支えた。
逆らおう、全てに。
愛の前に倫理等要らない。全てが膝を付き、崇める。そう例え、彼でも。床に膝を付き、私に愛を教える。
「唇に傷が付きますよ…」
だったら今直ぐ、耳から唇を離してと云いたいが、言葉の変わりに声が出るの判って居たので、じっと唇を噛んだ。
「甘い匂いがする…」
「………ッ」
「美味しそう…」
「食べないで…」
「…嗚呼、そうか、そう云う意味もありますね。」
彼は素直に、私からする甘い香水の匂いに“食欲を刺激される”と云っただけで、“性欲”を刺激された訳では無かった。墓穴か或いは望みか…、耳から離れ、首筋に這う唇に力が入った。
足を撫でる絨毯の刺激にも私は反応し、一度彼は顔を離した。絨毯と足の間に割り込む腕、彼の顔の向こう世界がぐにゃりと動いた。
嗚呼そうだ、全く此れだ。
彼と会えば、彼しか見えず、世界は確かに存在するのにぼやけ歪んで見え、浮遊感を知る。
背中にソファの柔らかさを、首筋には彼の唇の柔らかさ。此れを甘美と云わずして何を甘美と云うのか、瞬きするのも痛い程熱に乾いた目で彼を見た。
床に座る彼は髪を撫で続け、視線も逸らさなかった。彼ばかり触れるのが苦痛で、色には見えないが確かに興奮で燃える彼の顔を同じに撫でた。
「馨さん…」
「御相手は出来ませんが、暫く此処に居らっしゃい。」
頬を撫でる毛先、鼻先に感じる息遣い、自分の下瞼に自身の睫毛の固い感触を教えた。
「おでこ…」
眼鏡の向こうにある冷たい目が一層冷酷な楽しみを蓄え、形を変える。彼の唇が触れた熱い額を触り、腑に落ちない顔をする私に彼は目を伏せ笑った。頬と髪を撫で乍ら彼はくすくす笑い、猫にするみたく鼻先を指の腹で愛撫した。
「強欲は大罪ですよ、琥珀さん。」
「私は大食だよ。」
「おやまあ、でしたらワタクシは。」
色欲だと、性的感受に全く関係なさそうな能面に不気味な影を重ねた。
「然しまあ、食欲と性欲は紙一重ですから。似たり寄ったりと云う事で。」
「馨さん、折角奇麗な顔してるんだから、性欲とか云わない方が良いよ。違和感あるから。」
私は見た、確かに肥大する彼の欲望を。零度の向こうに存在する、灼熱を。




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