愛しい掌


後二ヶ月程でサマータイムが終わるな、等と暢気な事を考えて居た。
今は八月、何十年振りだろうか、誕生日を一人で過ごすのは。
一人…?
嗚呼違う。
「ヘンリー。」
一人には広過ぎたヨークの家。一人で居るには広過ぎる。風が抜ける様に寂しさが心に抜ける。そんな家に住んで居るから気が滅入るのだと、何十年振りに住まいを移した。
こんな田舎に誰が住むんだと思ったが、ヨークは英吉利でも中々に人気がある。家はあっさりと売れた。
買ったのは、他でも無い、香港に居たシャギィだった。赤の他人に買われ、全くの無にしても良かったが、ヘンリーが一月に死に、其れから二ヶ月後、シャギィが香港から引き上げて来た。与えられた別荘を詐欺紛いの高値で金持ちに売り付け、其の金丸々で在の家を買収した。香港の別荘も在の家も、ヘンリー名義のヘンリーの財産なので、俺がとやかく云う積もりは無い。尤も、在の家を買ったのは俺だが。
在の家が、プロポーズだった。ヘンリー名義にしたのは、離婚する時が来た時、面倒臭く無い様にだったが、如何やら杞憂だった。
在の家は、俺の人生全てだった。
其れが無くなった今、シャギィの物に為っても問題は無い。家具も荷物も其の侭「でもあんたのは要らない」と、自分の荷物だけを送った。
一人で住むには何の問題も無いアパートメント。ヘンリーに出会う前に住んで居た家を彷彿させた。
ヘンリーが死んだ時、姉が「戻って来たら?」と、父親が母に与えた家を指した。然し、在の家はもう既に姉の物に為って居る。俺同様にパートナーとの間に二人の子供が居る。一人は姉が女児を産み、一人は其のパートナーが男児を産んで居る。此れはもう、かなり歳が行ってる。
何せ俺が五十代なのだから、姉等の子供は充分成長して居る。マットよりかは下だが、パートナーが産んだ男児の家族と同居して居る。
そんな場所に、幾ら母親の弟だろうが、住むのは甥に気を使わす。深く関わりがあれば「叔父さん気にしないで」と良かったのだろうが、生憎俺達家族は、“其方さん”とは関わって居ない。
“其方のベイリーさん(俺)”と“彼方のベイリーさん(ヘンリー)”は、全く接点が無かった。
一度姉が冗談で(事実なのだが)、「コハク・ヴォイドって親戚よ」と子供に云った時、「母さん、エイプリルフールは過ぎたよ」「誰がそんな嘘信じるの?」と猛攻を受けた。
此れは今でも信じて貰えて居ない。パートナーからも一時期疑われて居た程。仕方無くヘンリーが出向き、「確かにコハクは俺の息子のワイフ」と漸く信じさせた。
其れ程疎遠だった。
早い物で、姉も俺も、すっかり“祖父母”の位置に為って居た。
俺達の親は、母が五年前に死んだ。父は未だ生きてる。俺が継ぐ予定だった会社は、成長した甥が社長と為り、父は会長だ。
父は今でもしつこい。俺を社長にする気満々だが、生憎俺は経営学を完全に忘れて仕舞って居る。
「キースもさ、海軍辞めたんだから、そろそろ…」
等と荒波立てる事を平気で云う。父としては、一応は親族と為っては居るが、血縁で考えれば全くの他人の甥に会社を継がせたのが気に食わないらしい。そんなに嫌なら国に売れば良いのだが、其れも嫌らしい。
結局俺が其の椅子に座る事以外は嫌。
だから俺も、嫌と云って、楽しく耄碌爺の相手をしてる。爺と云っても、俺と父は十五歳しか違わないが…。
“彼方のベイリーさん”も中々に大規模だったが、“其方のベイリーさん”も関わらない間に大規模に為って居る。面白い事に姉の子供等はLNがベイリーだ。マットには、養子に貰った時こそ“ベイリー”のLNを付けたが其れは“彼方さん”の“ベイリー”で、俺のLNの“ベイリー”では無い。コハクと結婚した時は“其方さんのベイリー”と完全に無関係にしたかったので好きに付けさせた。
“ヴォイド”を混じらせたのはマットにしては案が良かった。気に入ってる、俺もヴォイディに為りたい位だ。
キース・ヴォイディ…格好良さに益々磨きが掛かる。ハロルド・ヴォイディは…一寸似合わない。ヘンリーには矢張り、“ベイリー”が一番似合う。………そう考えたら“ハロルド・ヴォイド”何だけどな、一寸違う。“ヘンリー・ヴォイド”なら完璧だろう。
余談だが、ヘンリーの偽名はダニエル・ヴォイドだ。在の顔でヴォイドは全然偽名に為って無い。ハロルド・ベイリーだと即刻判るに違いない。“ダニエル”にした理由は何だったかな、「俺に似合わない名前」だった記憶がある。
俺は一体、何の話をして居たのだろう。最近、最初考えて居た事から脱線する。脱線に脱線を重ね、複雑怪奇な考えに辿り着く。難破するだけ難破して、目的地を見失う所か、其の目的地さえ忘れて仕舞う。ふとした拍子に思い出す。目的地の地図を見付け「あ…」と為る。
足首に感じる体温…そうそう、思い出した。
今日は俺の誕生日何だ。其の話をして居たんだ。
全く、ヘンリーが居なく為ってからと云うもの、頭がおかしく為ってる。故にまあ、海軍を辞めたのだが。
マットを日本に送った、在れが最後の仕事だった。元帥としても、父親としても。
俺の予測は、マットはもう英吉利に帰って来ない。日本に永住は、仕事柄有り得ない。五年程したら又違う国に行くだろう。コハク達は永住するかも知れない。
マットはヘンリーに思考が良く似て居る。
だから、二度と英吉利には戻って来ない。
ヘンリーが香港に逃げた在の時、ヘンリーはずっと香港に居る積もりだった。戻って来て仕舞ったのは、俺が居たから。
でもマットは…………?
妻子は日本、大好きな父親は英吉利…いや、此の世界何処探しても居ない。マットが英吉利に戻って来る理由が無いのだ。
「散歩にでも行くか、エンリケ。」
足元の温もりを二度と手放す事が無い様、抱き上げた。
未だ柔らかい髭の感触に頬を緩まし、此の陽気とは反対の冷たく濡れた鼻を舐めた。
「エンリケは出歩くのに肉球はふにふにだな。うふふ、ふにふに。」
「みゃぅ。」
「彼氏作ったりするなよ。」
「…………」
太陽は燃える様に熱い。風に湿気が無いから悪い気はしない。時折エンリケが、一本跳ねた俺の髪で遊ぶ。
「オーラ、キース。」
「オーラ。」
「今日誕生日だって?お、エンリケ、御散歩?」
「まぉ。」
「そう。誕生日を恋人と過ごしてる。羨ましいだろう。」
「!Feliz cumpleanos!」
「………!Gracias!」
「!Mia-a-a-a-u!」
ヨークの在の家に居たのは三十年余り。其の間、俺はヘンリーとずっと過ごした。此れから先、其れと同等の時間、俺は一人で過ごすだろう。未だ未だ先は長い。此の西班牙の情熱で、ヘンリーを思い乍ら、過ごすとし様。
「な、エンリケ(=ヘンリー)。」
「!Miau!」
愛しい掌は、愛らしい肉球と為り、俺の頬に触れる。




*prev|1/1|next#
T-ss