其の目に映るモノ


昼間であるのに静かで、疲れたと連呼する其の声は容易く家の中に入り、俺は飛び起きた。持って居た本はごどんと床に落ち、けれど構わず窓にへばり付いた。アパートの門先の道に停まる馬車から荷物を出すヘンリーの姿。横にはリンダが居た。
「もう二度と俺を誘わないでよ、母さん。」
「誘う処か、二度と行かないよ。あんな国。」
荷物下ろしを手伝うリンダは、普段は低い其の声をキャンキャン張り上げ、ヘンリーにキスをすると馬車に乗った。
「あれ、寄らないの?」
「早く帰って寝るよ。又ね。」
相当疲労が溜まって居るのか、馬車は会話の途中で動いた。車輪の音が消え、其れに比例して玄関が開いた。
ヘンリーは二ヶ月前にリンダと旅行に出掛けた。場所はアメリカの何処か。聞いた筈だが完全に忘れた。
今は冬だ。暖かい場所に行きたいと寒さに業を煮やしたリンダが云い、最初は南イタリアにする予定だったが地図を見た時、アメリカの座標がイタリアより下にあった為其処になった。そんな遠くに行かなくとも、イタリア、カリブ海で充分だろうに。
「只今、キース。」
疲れた笑顔に釣られて笑い、手を引いた。
「アメリカの話を聞かせてくれ。」
「嗚呼、一杯あるよ。先ず何から話そうか。」
ヘンリーは、母親が女優と云う所為でか幼い頃から色々な国を知って居る。ドイツ、オーストリア、フランス、スペインにオランダ。イタリア、ソヴィエト、そしてアメリカにニホン。俺の知らない国を、海を、大陸を知って居る。リンダが一番好きな国はオーストリアで、ヘンリーはニホンだ。ソヴィエトは寒さが異常な為二人共嫌い。毛皮は良いけれどね、とリンダは笑う。
其れが羨ましい。生憎俺は、此の国以外を知らない。母親の故郷のスペインさえ。他の国の匂いも言葉も俺は知らず、其れが嫌で海軍に入隊した。泳げもしないのに。
海軍なら、全てを知れる。そう思ったから。
「ヘンリーの目には、世界が如何映ってるんだ?」
「世界…?其れは規模が大きいね。ヨーロッパにしてくれる?」
ヘンリーは笑い、アメリカで買って来た良く判らない物で遊ぶ。天井から吊す物らしいが、凄く気持悪い。コバルトブルーとショッキングピンクの豚が何匹も笑っている。一匹だけ塗料が垂れ、泣き乍ら笑って血を吐いて居る。此れは豚では無く熊らしいが、何処を如何見てもどの角度から見ても豚にしか見えない。そして目も痛い。
「ヘンリー、もう少し、愛らしい物は無かったのか?」
同じモビールでも天使や花や、動物であったら犬、何故態々豚か熊か判別出来無い不気味な此れを買ったのか。
未だ半年しか一緒に居ないが、ヘンリーは相当趣味が悪いに違い無い。
「可愛いと思うけどなぁ、駄目かな…」
此れを選んだ理由は、一匹だけ異様な不気味さを放つ豚、では無く熊でだと云う。
「ベッドの真上に吊して良いかい?」
「止めてくれ…」
目覚める度に発狂しそうだ。
不満そうにヘンリーは眉を落とし、渋々トイレに吊した。
「其処は、夜中に泣きそうだ。」
「御共に如何ぞ。」
「何のだ…」
アメリカ話は何処へやら、買った物を次々鞄から出しては其の趣味を疑われた。
「そう、此れだよ。此れが凄いんだ。」
楽しんで居る処申し訳無いが、俺は紅茶を噴き出した。モビール以上の趣味の悪さ、イギリス何処探してもヘンリー程の悪趣味な人間は居ないだろう。そう思わせる代物だった。
多分其処の原住民達が、生首片手に踊って居ると云う、言葉を失う光景だった。
「凄いだろう?」
確かに凄い。
しかし俺の“凄い”は、其の光景であり、ヘンリーの云う“繊細さ”では無い。
「此れはねえ、ベッドルームに置くべきだと思うんだ。」
何処にも置くべきでは無いと思う。けれどヘンリーは其れ等原住民達を片手に纏めて持つと俺の手を引いた。
「本気か…?毎晩悪夢に魘されそう何だが…」
漸く言葉が出、奇麗なヘンリーの顔に又言葉を失った。
「良い加減、気付こう。」
「何を…だ?」
「俺が、ベッドルームばかり連呼する意味。」
俺の知る海に良く似るヘンリーの目は大きく波に揺れ、俺は船の上と同じ揺れを全身に感じた。其れは自分だけの感覚だと思って居たが、実際ヘンリーに抱えられて居た。
「ヘンリー…、力あるな…」
「意外と出来たね。」
俗に云う姫様抱っこをされ、喚くべきか考えたが黙って居た。読みは当たり、数歩進んだだけで二人揃って床に座り込んだ。過剰な力を入れた所為でヘンリーの腕は震えており、其の腕に目を懲らした。
「筋肉、付いて来たな。」
「そうっ、そう何だよっ」
施設から出たヘンリーは陸軍で精神と肉体を益々鍛えて居る。施設に来た時の骨と皮しか無い様な姿とは、嘘みたく違う。元はダンサー、足腰はしっかりしているが如何も肩の筋肉が無いらしい。其れが不満で施設に居る時から懸垂はして居た。けれど無い物を鍛えるのは無理で、十回も出来無い事に陸軍の奴等と笑って居た。
「運べると思ったんだけどなあ…」
しゅんと項垂れ、原住民達を床に並べる姿は可愛いが、此の身長差からは如何考えても無理だろう。
「よしよし。俺が運んでやるから。」
頭を撫で云ってやると、意外にも明るい声を出した。
「本当っ?」
「あ、嗚呼…。何でそんなに嬉しそう何だ?」
海軍少尉に抱え上げられる何て凄いじゃないか、とヘンリーは云うが、実際錯乱状態の時、俺よりもっと上の上官に抱え上げられて居たのは内緒にしておこう。
「ほら、其の原住民持って。立つ。」
すんなりとヘンリーは上がり、ひゃっほーと歓喜した。首に腕を回し、足をばたつかせる。非常に危険だが、軽いヘンリーが落ちる事は先ず無いだろう。
「良いね良いね、凄く楽しいよっ」
俺をアトラクションか何かと間違えて居るみたいだ。
なんせ此の家は俺しか住んで居なかった。二人で住むには狭いが、ベッドルーム迄には時間が掛から無い。一人暮らし用の部屋はこんな利益があるから良い。最近はヘンリーの荷物が増え、非常に不便此の上無いのだが。おまけに、唯でさえ狭かったベッドルームはキングサイズのベッドに占領されている。
「着いたぞ。」
「下ろしてくれよ。」
「自分で下りろよ。」
吊り上げた魚の様にヘンリーをベッドに投げ捨て、しかし其処はヘンリーだ。ちゃっかり俺の襟を掴み、揃って揺れた。疲労が見える目元を撫でると、笑ってくれた。
「ヘンリーの目には、何が映ってるんだ?」
目を瞑り、俺の手にキスをくれる。
「キースとの、未来だよ。」
ずっと先も、其の海を見せてくれ。澄んだ其の、美しい宝石を。




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