御父様降臨


物置小屋に放り込まれた犬みたくキースは震えて居た。カップを持つ其の手が震え、口元にはあるが上手く飲めて居ない。ソーサーに置く其の時も音は鳴り、其処迄キースが怯えるのには訳がある。
広過ぎる豪邸、高過ぎる天井から幾つも吊されるシャンデリア、此れが落ちたら嘸気分爽快だろうなと思う。大理石の床には傷一つ無く、遥か彼方上にあるシャンデリアの光を反射して居た。其れを裂く様に玄関から伸びる白い絨毯は中央階段を流れ二階に続いて居た。手触りの良い此のソファの足元では、がばりと腹から開いた本物の熊が四足を四方に広げ前を向いて居た。
「熊って、顔大きいね。」
「身体が大きいんだ、顔も大きいだろう…」
ソファから下り、床に伸びる熊の顔を仰け反らせ自分に向けた。
「牙凄い…。噛まれたら痛いだろうなあ。」
「死ぬだろう…」
「其れを仕留めちゃうんだから凄いよねえ。」
ベイリー公は。
俺の口から出た言葉にキースは固まり、片足を揺らし始めた。
そう俺達は、キースの父親、ベイリー公に会いに来て居る。
付き合い始めて数年経ち、キースの姉ディアナには年に数回会っては居るがベイリー公に会った事は無い。其れをベイリー公側が良く思わず、「僕を邪険にするな」と無理矢理呼び出された、と云う単純な話である。寝る暇が無い程世界を飛び回り、貿易し、ベイリー公が多忙なのは充分理解して居たので態々俺達の為に時間を作らせるのはと会いには来なかった。決して邪険にして居た訳では無い、忘れては居たが。
欧州最大規模の鉄鋼社、其の社長がベイリー公であり、英国三軍の鉄はほぼ全て、此の会社から流れて居る。軍艦も戦車も兵器全てに鉄は必要不可欠、其れをベイリー社が昔から提供して居る。故に此処迄成長を見せたのだ。英吉利にある鉄製品は全て此の会社と云っても良いだろう、現に今走って居る列車、在れも材料はベイリー社から来て居る。列車には木炭や煉炭が要る、ベイリー社はベイリー公が当主に成るや否や其れにも手を広げ、ベイリー家は総資産云億の英吉利最高貴族に成った。列車の燃料は可燃性が良い為冬には重宝する。ベイリー社の勢いは止まる事を知らないのだ。
然し、其の勢いもベイリー公の代で終わって仕舞うのだろうかと、会社に全く興味示さないキースを見た。此の英吉利最大規模の会社をキースは後継者として如何思って居るのか、キースが手にする筈であった大金を思うと泣かずには居られない。
だって俺は何よりも御金が大好き、愛よりも御金が大事なのだ。
世の中所詮金だよ諸君。
愛の無い人生は考えられるが、金の無い人生等全く考えられない。此れは母さんと云うよりは父さんの所為。
――良い靴を造るには腕も必要だけど、先ず材料が良くないとね。其れには御金が必要だよ。だから僕は金持ちにしか靴を造らない。
そしてもう一つ教えて呉れた。此れは母さんも云って居た。
――たった一人で良い。権力と人脈を持つ人間を捕まえて於く事。権力者の人脈は恐ろしい程広いからね。そしてプライドが高い。
父さんの場合は「彼奴より良い靴を造れ」、母さんの場合は「彼奴より大金を出せる」。そうして父さんは上層階級では名前が知れ、母さんは人脈を歩き大女優。此の二人が出会い、恋に落ち、結婚したのだって、元を辿れば互いの人脈が繋がった結果なのだから俺が金と云うか、其れに伴う権力に従うのは当然であろう。尤も、今の所ベイリー公の権力に縋り付く理由は無いが、繋がって於くに越した事には無い。金持ちには必ず優秀な弁護士が後ろに居る、味方であれば最良だが、敵であれば最悪に為るのだ。
キースは不思議な事に、底辺の生活も天辺の生活も知って居るのに其の力の大事さに全く気付いて居ない。其れ所か金にさえ大して興味示さない。有れば有れで其れに越した事は無いが、無いなら無いで構わない、稼ぐ努力も別にしたくない、実力に伴った金で充分だと云う。
キース、性欲と独占欲は人一倍あるが、物欲と金銭欲は人一倍少ない。キースが金を使う事と云ったらティカップ位で、けれど其のティカップはどれも阿呆みたく高額。普段金を使わないからか使う時は桁が少しズレて居る。本人が満足して居るので何も云わないが、“本当の金持ち”と云うのはこう云う物だ。偽物の金持ち、俺の様な所謂“成金”は小さな事に金を使い、塵も積もれば何とやら、正しい金の使い方が判らない。確かに家は裕福過ぎる程裕福だが、此れは母さんの金であって俺の金では無い。故に大金掴むと、一瞬で無くなる。
矢張りキースは、生まれ乍らに貴族。
其の流れる血は、確かに貴族なのだ。
「御免ね、待たせたかな?」
風の様に現れたベイリー公は後ろにバッカス氏を従え、俺を見る其の目は、キースに良く似て居た。
「あれ、バッカスさん…?」
ディアナの所に居るとばかり思って居ただけに、ベイリー公の姿も然り、彼の姿にも驚いた。薄く笑みを浮かべた侭バッカスさんはベイリー公から書類を受け取り、金細工の施される机上でトランクを開いた。中の書類と受け取った書類を照合し、座ったばかりのベイリー公に、休む暇も無く新しい書類を渡した。流石にベイリー公、此れには呆れたのか、「バッカス」そう一言云った。余り寝て居ないのか額は青白く、今日は終業と項垂れ其の額を支える腕からはベルガモットの香りがした。
頭を支えて居る、と云うよりは、手首に付けた其の匂いを嗅いで居る様にも捉えられた。
ベルガモットは、俺の好きなラベンダーと似た様な作用、いや其れよりもずっと強い作用がある。
ベルガモットには鎮静と高揚、両方の効果がある。興奮している時は其の興奮を抑え、怒りの気持を和らげる。緊張した神経には、緩和効果がある。或いは陽気な気分に為りたい時。ストレスが引き起こす不安や緊張がある時に嗅ぐと、非常にテンションが上がったりする。
今のベイリー公は果たして何方か、閉じた目元を見た。
キース曰くベイリー公は、昔から怒らない人だったと云う。其れは性格か将又ベルガモットか、二分程か漸く目を開き天井を見る目を見続けた。
「バッカス…」
「はい旦那様。」
「在れは如何為って居た…」
今日はもう仕事はしないと云ったベイリー公だが、根からの仕事人間、好きで為った訳では無いだろうが矢張り、放り遣った書類が気に為るのか手にした。
一枚捲り又一枚、把握したベイリー公は頷き、書類を机に置くと指先で弾いた。足を組み、其の上で両手を組んだ。
「初めまして、ハロルド君。」
眼鏡の奥にある目、其れはゆるりと笑った。
「キースの父親、ハロルド・ベイリーだよ。同姓同名だね、ハリー。」
――同じ名前だな、ハリー。
俺を覗き込み、サディスティックに笑ったキースの言葉が頭に流れた。
在れは若しかすると、LNが同じと云った訳では無く、ベイリー公、父親と“同じ名前だな”と云ったのでは無いかと、馬鹿にした笑いも含め少し考えた。
「本名は、ハロルド・ウィリアム・ラルフ・ベイリー。ハロルドって長いからハリーで良いよ。ベイリー卿は、余り好きじゃないから。」
「ハリー…」
「君はハロルド君で良いのかな?」
笑った顔が、本当にキースそっくりで、ハリーでも良いかも知れないと頷き掛けた。
「御父様、ヘンリーです。ヘンリーは、ハリーと呼ばれるのが…嫌いです。」
仏頂面の悪魔に邪魔をされた。
「ヘンリーで…、閣下…」
ハリーと呼ばれる相手に向かって何を云って居るのか、口元を隠し笑うバッカスさんの性悪さを見た。
「嗚呼、閣下って止めて。鳥肌が立つ。」
君がハリーと呼ばれ嫌悪するのと同じにね、ベイリー公は云って笑った。
含み笑いでバッカスさんはテーブルにティセットを並べ、クッキーを一枚食べたベイリー公は人差し指で口元を叩いた。
紅茶の匂いに混ざる垂らされたベルガモットの香り、熱を知り、強さを増す。
「ハロルド君、じゃないヘンリー。君、MNあるのかい?」
気付いたがベイリー公、俺と口調が良く似て居た。数回言葉を交わしただけでも感じた位だから、キースは遠の昔に気付いて居るに違いない。
だからキースは、俺に逆らわないのだろうか…。
「ミドル、ネーム、ですか…?」
「君の母親、リンダは無いので有名じゃない?だから君にも無いのかなって。」
何故ベイリー公が母さんのMNの事迄知って居るのか、公爵とは全てを把握して居るのか。恐ろしく感じたが、何と云う事は無い、ベイリー公は、唯のリンダ・ヴォイドファンだった。キースがリンダ・ヴォイドを好きなのも、ベイリー公の影響であった。因みに後ろに突っ立つバッカスさんも、其の一人である。
世の中にはリンダ・ヴォイドしか女が居ないのか、他にも女優は居るだろうと、揃いも揃って出会う人間、口を開けば母さんを好きだと云う。其れ程母さん、リンダ・ヴォイドが絶大な存在だと息子として誇りに思えば良いのだが、其の人間達からリンダ・ヴォイドを奪ったのは、他為らぬ俺。だから俺はそんな人達に、掛ける言葉は無かった。
「ありますよ…?」
然も、MNがあるのは家族の中で俺だけ。実は俺、要らない子何じゃ無かろうか。
「あるんだ、何?」
目を輝かせて居る所申し訳無いが、云いたくないのが本音だった。
「いえ、其れは一寸…」
「ゾディアック…?」
「連続殺人犯じゃないです…」
貴方の息子の名前です、とは云えない。
「リンダも連続殺人犯だった。」
「………ウェストウッド通り。」
「そう、ウェストウッド通り。美しき連続殺人犯、イヴになら殺されたいね。」
「旦那様の青春ですよ。」
「毎日見に行ったよ。勿論リンダを。若しかして君のヘンリーって、在のヘンリーから来てるの?」
連続殺人犯の最後の獲物、然し獲物にする所か獲物にされて仕舞った。余談だが、此のヘンリー役の俳優、キースに顔が似て居る。
「母は、そう云ってました…」
「君がヘンリーって呼ばれるのに強い思い入れがあると思ったら、そう云う事だったのか。」
だったら僕も今日からヘンリーに為ろうと、小さく笑い紅茶を飲んだ。不思議と、キースが紅茶を飲む姿と、似て居た。いや、キースが、此のベイリー家の仕来たりを無意識にして居るのだろう。
ディアナが紅茶を飲む時とは、全く似て居ないのだから。
「と為ると、君のMNは、リンダの映画の中から来てるのか…」
頭を使うのが余程好きなのか、ベイリー公は母さんの映画を一つ一つ辿って行った。如何か当て無いで、ちらちらと上目遣いで願ったが、当てられて仕舞った。ベイリー公がずば抜けて頭良いのか、母さんが極端に頭悪いのか、良く判らない。台本を一度読んだだけで覚えるのだから悪くは無いのだろうが、安直な思考しか持って居ないのかも知れない。
母さんは沢山の映画に出る、舞台もする。けれど思い入れのある映画は、世間に名前を知らしめたウェストウッド通りと、悪女が売りであるリンダ・ヴォイドが180度方向転換した映画。
あんな聖女の役は、あたしには無理だったわと二度とそんな役はしなかった。
「ベルガモットの城…。其れの相手役が、キースだった。」
古びた城に一人で住む女、其の城の周りには季節関係無く、ずっとベルガモットが咲いて居た。透ける程白い肌に紺色の服を纏い、漆黒の髪を靡かせ何時も窓から空を見上げる女。其処に一人、男が迷い込む。
男は一目で女に惚れ、然し女は男に惚れはしなかった。
女は、遠の昔に死んだ此の城の主。愛したベルガモットの木を守る為、肖像画から抜け出した虚像。けれど女は自分が死んだ事を知らない、男が愛と共に其れを教えると、ベルガモットと共に消える。後に残ったのは、古びた城と、女に対する愛情。そして男は、城の周りにベルガモットを植える。男が愛した、女との一時の時間を永遠にする様に、死ぬ迄植え続けた。
「今思い出しても泣けるね。」
「けれど旦那様、少しホラーが入っておりますよね、其れ。」
「そうそう。ベルガモットの根本に死体、リンダってホラー好きなの?」
ベイリー公の云う通り、母さんはホラー好き。何でも、ホラーを見た時にだけ出て来る体内物質が美容に一番効くと云って居た。だから、処女の生き血風呂や成長期前の少年の睾丸を食べた在の王妃達の美容法は、理に適って居る、らしい。余りにも酷いので詳しくは知らないが。
「キース…」
「はい…?」
「いや御前じゃない。そうだキース、御前は知らないの?」
「知って居ても、教えません。」
「可…愛くない…」
床を見た侭サディスティック笑い、キースは紅茶を飲む。
そう云えばキースは、知って居るのだろうか。
キースの本名が、キース・ハロルド・ウィリアム・ベイリー、だと云うのは知って居る。長っ垂らしい厭味な名前、と施設で馬鹿にした記憶がある。
可愛くない息子の態度にベイリー公は少し怒りを見せ、身を乗り出し、キースに聞こえよがしに“小さな”声で云う。
「ヘンリー、聞くけど、こんな息子の何が良いの…?」
今更聞かれても、正直俺にも判らない。俺の大嫌いな言葉で云う為らば、運命。小馬鹿にする為に存在する鼻をつんとするキースを見、溜息を吐いて首を傾げた。
「何でだと思います…?」
「御金…?」
「キース、御金あるの…?威圧感しか無いけど…」
「僕の財産の半分は、キースに行く。」
云って二人で又キースを見た。
「半分って?」
「半分はエレナに行く。」
「嗚呼、成程。」
浮気を繰り返す癖に独占的で、サディスト。明日は晴れるだろうか、そんな表情で紅茶を飲むキースに疑問しか湧かず、まじまじと顔を見た。
「顔…?顔だろうな…顔しか良い所無いもんな…」
「キースは、其処迄良い男じゃないと思うよ…?世の中にはもっと、良い男居るよ…?」
「御父様、聞こえて居ますよ。」
「聞こえる様に云ってるの。」
さっきの仕返しだとベイリー公は“サディスティック”に笑った。
其の笑顔を見て思った。
此の二人は、親子だ。
「ハロルド…」
此れ以上の侮辱が許せないのか、カップに注がれる紅茶を見た侭キースは口を動かす。
「キース、ベイリー…。其れがヘンリーの、名前です。」
有難う、とバッカスさんに云い、静かにカップを口に付けた。
「やったね、当たった。」
ベイリー公は手を鳴らし、其の侭カップを持つと真横に腕を伸ばした。其の時にだけ香るベルガモット。漆黒の鬘を被った母さんが見えた。
ベルガモットの香に魅せられたのは、何もベイリー公だけでは無い。ベイリー公が静かに教える其れに、俺は魅せられた。
キースとは少し違う青さ、レンズの所為では無い透き通る美しさ。
見られるのが余り好きでは無いのか、唯俺が見過ぎたのか、ベイリー公は視線を逸らすと上げた口角をカップで隠した。
「ヘンリー…」
「はい…?」
「面白い事を、教えてあげ様か。」
くふ、とベイリー公は高く鼻で笑い、キース以上の艶で俺を見た。目元に掛かるブロンド、鈍く光るレンズ、其の奥の目。ベイリー公は面白い事と云うが、不気味さを覚えた。
「君達は、同性愛者でしょう?」
其れをとやかく云う積もりは無いから黙って聞いて居ろと、べったりとカップに張り付いた唇を見た。
「同性愛者って、八割方、母親で決まるって、知ってた…?」
カップから唇を離し、顔を上げたベイリー公は横に視線を流し、少し伏せた。
「育て方とか、そんなんじゃ無くて、中で決まるんだよ。」
薄い笑みを口元に蓄え、バッカスさんを一度見た。バッカスさんは其処に居るのに、置物みたく動いて居ない。
「強いストレスをずっと母体が受けてるとね、何故か其の子供は同性愛者の率が高い。…面白いでしょう…」
くふ、と又笑い、床を見て居るキースを見た。
「エレナのストレス、其れは大きかっただろうね。ディアナ一人でも生活苦しいのに、阿呆な男の所為で又苦しく為る。エレナは相当、僕を恨んだだろうね。」
小さく笑う其の声に、キースの溜息が重なる。強く目を瞑り、必死にベイリー公の言葉を聞かない様にして居る様だった。
「御言葉ですが御父様。」
「話は未だ終わって無いけど。」
有無云わさぬ声にキースは黙り、溜息を飲み込んだ。そして流れた視線に俺は強張った。
「リンダも、焦っただろうね。」
ダンサーの息子同士で、同性愛者、君達が出会ったのは当然なのかも知れないと、目を伏せた。
「ハリー…?」
「何?」
「何で其の話をしたの…?」
態々俺達が不快に為る話等、する必要があるのか疑問が湧いた。
閉じては居ないが深く伏せられた目はゆっくりと上向き、強く俺を見る、其の余り強さに俺はソファの凭れた。艶を持て余すと云おうか、ベイリー公の目に足先から鳥肌が立った。キースに対してもこんな感覚は覚えた事無く、此れはディアナの艶に似て居た。
「ヘンリー…」
笑みを零す口元から出る声に力が抜ける。
「君は本当に、奇麗だね。本当、リンダに似てる。」
厭らしくと云うか意地悪くと云うか、ベイリー公の見せる笑顔は数分前に見せて居た物とは全く違って居た。
「キース。」
「はい。」
「云って無かったね。」
「何をです?」
チョコチップクッキーのチョコチップだけを、チョコ嫌いのキースは陰湿に取り除いて居たが其の手を止めた。汚れた指先をナプキンで拭き、チョコの匂いに顔を顰めた。
「僕も、そんな母体から生まれた、一人だよ…」
垂れる目は大きく開き、似る垂れた目は真逆に細まって居た。
俺は意味が判らず「え?」と聞き返したが、二人は視線で会話をして居た。
見開いた目は見る見る細まり、最後はベイリー公を睨み付けた。挑発する様にベイリー公は笑い、キースの取り除いたチップチップを口に流すとカップを持った侭立ち上がった。
「悪いけど時間切れ。仏蘭西に行かないと。会えて良かったよ、ヘンリー。」
ベイリー公に続き俺はソファから立ったが、キースは相変わらず下から睨み付けて居た。
一気にカップを空にし、トランクの乗る机に置くと透かさずバッカスさんは後ろからジャケットを腕に通した。
「僕は暫く居ないから、此の家に居ると良いよ。広いだけで、何も無いけど…。君達今休暇中だろう?休暇の間居れば良いよ。」
主の居ない城等悲劇的、とトランクを閉めた。其の時でも香ったベルガモット。
「御父様、私の話は終わってませんが。」
「私の話は終わった。御前に構う時間は無い。」
心理状態が休暇から仕事に切り替わったのか其の口調は何処か荒々しく、又威嚇的であった。釦を止め乍らベイリー公は横目で俺を見、俺が良く判らない笑顔を向けると鼻で笑った。
「バッカス、帰宅は未定だ。キースは手荒に扱っても構わんが、ハロルド君は丁重に持て成せ。」
「仰せの侭に、旦那様。」
バッカスさんの足音は胎動の様で、垂れた前髪を両手を後ろに撫で付け、其の侭腕時計を見るとトランクを引っ付かんだ。
「ヘンリー。」
バッカスさんが開けたドアーに向かって居たベイリー公は一度足を止め踵返し、忘れ物だろうかとクッキーの粕が散るテーブルを見た。然し其処は汚いだけで、ベイリー公が望んで居そうな物は無かった。
トランクを持たない腕は真っ直ぐ伸び、ベルガモットの芳香を肺一杯に知った。
此れはそう、映画にあった。
「愛してるよ、例え君が、此の腕に抱け無い存在だとしても。」
肖像画に戻る女に男は云う。腕は空を切り、ベルガモットの香りを残す。
そう、今のベイリー公と同じ様に。
ベルガモットの芳香に陶酔し、抱擁し返す前にベイリー公はドアーの外に消えて居た。額縁の様な細工施される、其のドアーの外に。
足元には痕跡を残す様に花弁が溜まり、思い出した俺はふっと足元を見た。信じられない事に、キースが詰まらないと暇潰しに千切っていたナプキンが風に流れ、花弁みたく俺の足元に溜まって居た。
「ベイリー公の事、今日からベルガモットハリー卿って呼ぶ。」
「在の色惚け親父…、脱線しろ…」
鈍い俺はベイリー公の真意等判る筈も無く、理解するキースは頭抱え項垂れて居た。整う髪を乱し、見送りから戻ったバッカスさんはそんなキースにくすくす笑い、テーブルに並ぶティセットを片付け始めた。
「其のナプキン粕は如何致します?ラベンダーヘンリー卿?」
「良いね、悪い気はしない。」
何処で知ったのかバッカスさん、俺がラベンダー好きだと云うのを知って居た。
「今日から暫く、俺がベルガモットハリー卿の代わり。働けよ、息子。」
「冗談じゃない。昼寝の時間だ、寝る。」
寝る子は育つと云うが、キースは少し、育ち過ぎな気がする。
ベイリー公が先刻迄使って居たカップを勝手に使い、勝手にベイリー公の椅子に座り、其の柔らかさに声が漏れた。
主の居なく為った城で、男は何をするか。
そう、ベルガモットを愛し続ける。
椅子に身体を委ねると其れは、ベルガモットの芳香を中から溢れさせ、ベイリー公が後ろから包んで呉れて居る様な気分だった。




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