茜色の空に三つの雲


猛暑の中でも蝉は連日煩く、其の声と暑さはわいの頭をわいが気付かん程度に少しずつ蝕んで居た。此れは田舎の風習を知らない内に思考に侵食されて居るのと似て居た。夏は暑い、蝉は居る。そんな当たり前の事と田舎の奇妙な風習は酷似して居る。
蝉が起床する前に光大と落ち合い、容易く蝉を二匹捕まえたわいは、涎垂らし寝汗に魘される謙太の両耳に当て、自然目覚ましを施した後引き摺り出した。
「未っだ耳ガンガンするわ…」
此処等は大半が農家を営み、普通なら早朝から男であるわい等は狩り出される。然し、此の農村に伝わる“奇妙な風習”の所為で、わい等には全く無縁であった。だからわい等は、夏休み中、一切の手伝いをせず遊びに暮れて居られるのだ。
耳鳴りが止まず顔を顰める謙太に二人で笑い転げ、又蝉を当てて遣った。
斎藤家には男が三人居るが、兄二人は此の村には居ない。
男であるのに、長男であるのにだ。
此の村の八割は、女系だった。
なので、同級生の美代子含め、此の村の女は皆浅黒く、一見すると男に見えるのだ。最悪な場合、わいの姉達みたく妖怪化する。
此れが此の村の“奇妙な風習”であった。
謙太の所は、女四人に対し、男は健太一人、光大の所は此れも同じ割合であった。
此の村は極端に男子の出生率が悪く、女系で無い家庭は農家以外。村長や医者、教師の家等である。此れ等家には、嫡子が生まれるや否や本人の意思関係無く、家系図を見、血の交わりが無い家に持参金を渡し娘を作らせ、そして其の金で其の家の望む侭一切の農作業をさせず、文字通り“姫”として育てるのだ。娘が十五歳に為った其の時、娘の両親は大金を手にする。“小百合チャン”が別世界の生き物みたいであった理由は、此れである。
女系の場合は自由で、好きに男を選べた。なので此の村の男達の大半は、弱々しくはいはいと笑って居るだけ。女は妖怪と化するのだ。
男が三人も居て、何故うちは貧乏か。
単に兄さんが逃げたに過ぎず、貰った大金は借金に代わり、婿を貰う嫡子の姉は醜女。金が出来る筈は無いのだ。嫡子以外の娘達は好きに結婚出来るが、なんせ男子が居ない。村から出るか、外から連れて来るしか無かった。
一番上の兄は父の連れ子で、うちに大層な借金を拵え、貧乏から更に貧乏を重ねさせたのは次男である。
長男は連れ子ではあったが眉目良いかと家長である母から気に入られ、「御前は結婚せんとええ」「大学に行きたいなら連れてったる」「御前の好きにし為さい」と何処にもそんな金は無いのに云われた。最初は冗談であったが、長男の母親は余程の秀女であったのか長男は村一番の秀才児と成り、肝抜かした母は「何とかして高校に行かせて遣りたい」と村長に相談した。長男の秀才ぶりを知る当時の村長は「ええよええよ」「此の村からそんな秀才が出るんや」「有難い事や無いか」と、村長の孫娘と結婚するのを条件に、長男は村長家の金で高校、大学と進学した。此れはわいが生まれる随分前の話に為るので正しいかは知らないが、現に長男は其の孫と結婚して居るので本当であろう。
熱風は無く為らないもの、太陽の熱が若干和らいだ夕刻、目覚まし時計に使用した蝉を、水に沈めてみたり羽や足をもぎ、最後は火で焼いた。油の嫌な臭いにわい等は悶絶し、然し、芋虫状態で焼かれた蝉の何とも美味そうな事か。腹が減ったので帰宅した。
黒い車体。
こんな車が廃墟寸前の我が家の前に停まって居る事自体不自然で、最初は茜ん家の車かと思った。然し、茜ん家の車庫にはきちんとあった。
大層な車で、仰々しい。
我が家を貧乏にした次男の他為らなかった。
長男は母親が大層な面持ちであったのだろう、大層な男前だ。
次男も美男子で、此れは、長男みたく“男らしい男前”では無く、誰に似たのか絵に描いた様な“繊細な美男子”。わいは其の中間だった。
両親、姉達全員が顔面崩壊であるのに、と村の不思議。実は父親が違うのでは無いかと噂され、わいも一時期疑ったが間違いは無かった。妹の恭子が、恐ろしく可愛いのだ。泣けば、妖怪をも逃げる妖怪だが。
長男は地学者で、次男は面白い事に民族学者であった。
貧乏で、長男を高校に遣れない云々な我が家。
気付いて居るだろうが、次男は、此の村から勝手に出て行った所謂裏切り者。両親と村の人間からは総すかんで、だからだ。
門前に次男が乗って来たであろう車が停まって居る事に、気味悪さを覚えた。
わいの顔が反射する程磨かれた車体、曲線に歪む其の不細工な顔に姉との血縁を痛感した。
「八雲か?帰って来たんか?」
正月でも盆でも無いのに門から長男の声が聞こえ、驚いた。
「兄さん…?御帰り為さい。」
わいの挨拶を無視し長男は、厭味っ垂らしい其の車のタイヤを蹴った。
「津雲、こんなとこに停めなや。」
「蹴らないで下さい。此れは僕の物ではありませんので。奥田先生に怒られてしまいます。」
カーテンの掛かる後部席の窓が開き、訛り一つ無い言葉と熱風がカーテンを揺らした。
本の少しだけ見えた繊細な鼻先、顔を見せない次男に長男は乱暴にカーテン開き、胸倉掴み上げ窓から次男の上体を引き摺り出した。
「邪魔や。八雲が通られへんねや。退かせや。」
「出雲兄さん、離して下さい。僕は出雲兄さんと違い、力は無いんです。」
「爺垂らし込む力はある癖に、なあ…?」
長男は鼻で笑い、座席に次男を押した。
繊細だ繊細だと記憶して居たが、此処迄、女以上に白く蝋人形みたく繊細な次男に驚いた。
掴まれた所為で歪んだタイを直し、然し次男は車から下りる気配は無かった。
「下りや。」
「嫌ですよ、御母様に会えば殴られますので。」
「せやから下りぃゆうてんねや。勝手に出てったの詫びろや。」
「嫌です。」
次男が頑なに嫌だと云い続けるには理由がある。
母からの小言や折檻を恐れて居る訳では無く、次男を村から連れ出した“オクダセンセェ”の命令の為である。
「奥田先生は、僕の顔を宝に思って居ますから。勿論、身体も…」
掠り傷一つでも付けて帰る事は許されないのだと、妖艶な笑みで下車拒否をした。
「ほんでぇ?其のオクダセンセェの愛人さんが、何ぞ用や。」
「出雲兄さんがいらっしゃると聞きましたので、奥田先生が。」
「奥田奥田煩いねん。」
「××地方の××地層、どれ程迄衝撃を与えられます?」
「××地層…?」
次男から出た言葉と紙切れに、長男は“高圧的な長男”から“地学者”に顔付きを変えた。
其れはわいに、知れず興奮を教えた。
紙切れに書かれる其の地層を指す指は幹の様に太く、反対に次男の指は蝋燭に見えた。
「此処は、地盤緩いで。外は確かに岩で、一見頑丈に見えるけど、地盤はめっさ緩いで。精々岩退かし位やな。中に向かって振動何ぞ与えたら…」
地盤と共にオクダセンセェが泣き崩れんで。
煙草蒸し笑った長男に、次男は至って冷静に頷き、有難う御座居ました、と紙切れにペンを走らせトランクに仕舞った。
「其の地層、何かあるんか?」
「此の地層のある場所に、閉鎖的な集落があるのを御存じですよね。在の鳥居も。」
「嗚呼、在の陰湿な集落な…」
何でも長男、其れを調べに行った時、其の集落の人間から「勝手に近付くんじゃない」と鎌持って追い掛けられたと云う。
「そう。其処を守る様に存在する集落です。今は其の集落を調べて居ますので。中に屹度、何がある…」
妖艶で繊細な次男の顔は、少しの不吉さを見せた。
此れはわいに、興味を教えた。
「自分、其の内祟られるで。」
「奥田先生の所に行った時から、充分に祟られて居ますよ。」
「此の村も、危ないからなぁ。」
山に沈む夕日に目を向け、長男は吐いた。
「此の村も何れ、調べますよ。何故女児の出生率が高いのか、奥田先生は興味津々です。」
「ホモの癖にか?」
「だからじゃないですか?」
くすんと笑った次男に、長男も笑った。
「愛でる対象が居てないのは、そら興味津々やな。」
「時に八雲。」
次男、面持ちは繊細だが、声はやけに低く、父に声を掛けられたのかと錯覚した。
窓から顔だけ出した次男は熱風に長い髪を遊ばせ、わいを手招いた。
「中学を卒業した後、八雲は如何するの?」
高校に行くのかと聞かれたが生憎、御前の拵えた借金の所為で我が家は大変だった。第一、そんな頭持ち合わせて居ないが。
「十八迄、ぼぅっとしときます。」
「結婚するのか、其れは詰まらない人生だね。」
「一人位、此の村の風習に付き合うてもええかなて。」
「ねえ八雲。」
此の次男の言葉が、わいの人生を決定的に決め、次男に続けわい、そして茜迄もが村八分に遭う事と為った。




*prev|1/14|next#
T-ss