“愛”ってなんぞ


世は知らんが、大阪には“愛してる”って言葉は抑存在し無い。ならば如何遣って愛を―――云って身震いが起きた。“愛”って言葉が無い。気持を伝えるか、此れは何とも曖昧な表現をする。
はっきりと“好き”とは云うには云うが、「云わんでも判るやろ」「判れや」と暗黙だ。
妻に対しても、私は同じだった。
「好っきゃで」「好きやわ」とは、酔った勢いで云う。が、「愛してんで」とは、馬鹿か、云えるかい。恥ずかしい。
抑何だ「愛してる」とは。
よぅもこんな恥ずかしい言葉を生み出した。東京の御人は、判りません。漱石先生とて仰って居るでは無いか、“情”で伝えられる―――と。(此れが彼の有名な“月が奇麗ですね”である)
仏蘭西映画を見て、見てる此方が赤面した。一体何だ、此の“愛”は。幾ら役とは云え、恥ずかしくは無いのか。恥を知れ。
情を知れ………!

―――好きな人、居る?
―――目の前に。

―――結婚は?して無いの?
―――既婚者、君がして呉れたらね。

何だ馬鹿野郎、薄ら寒い。大概にせぇ。ベッドの中で位黙ってせえ。映画館で妻と見て居たが、余りの薄ら寒さに途中で席を立った。愛の言葉に全身が毒に侵されそうだったから。
仏蘭西映画を遥かに凌ぐ映画は、西班牙だ。此れは妻も、「何かなぁ」と赤面した。西班牙映画の愛は、恥ずかしい通り越して恐ろしい。
伊太利亜映画は、音楽で愛を伝えて居た。
官能の国仏蘭西、愛の国伊太利亜、情熱の国西班牙―――此のラテン三国、一寸改めた方が良いかも知れない。私なら、羞恥死する。
独逸映画の愛は、不思議と受け入れられた。普段は押し黙り、伊太利亜人みたく会った瞬間「ティ アモ」「ティ アモ」と連呼しない。仏蘭西人みたく「夜露に輝く薔薇」「君は僕の全て」とベッドに誘わない。
自分でも知らない優しさを相手に伝え、ふとした拍子に「Ich liebe dich...」と囁く。そして、「俺は何を云ってるんだ」と在の厳つい顔を、目元赤らめ照れて居るでは無いか。

―――御免、忘れて。
―――嫌よ、如何して。もう一回云って…
―――嫌だよ…恥ずかしい……愛してる…

嗚呼、何の飾り気も薄ら寒さも無い、すっきりとした愛だろうか…っ
唯独逸映画、云って仕舞えば最後、愛をたらふくさっぱりと乗せる。“愛してる”の連呼である。

―――如何してだ、何で君は応えて呉れないっ。俺はこんなにも君を好きなのに、俺の何がいけないんだっ。俺は君を、愛してる…
―――愛してる何て容易く云わないで…っ

独逸の女性は、愛何て言葉に惑わされない。独逸の男性は、愛が伝わらないと怒鳴るらしい。
…何だ私は、独逸人だったらしい。
細君は、三日と開けずに私に「愛してるか」と聞いて来る。そうで無いと不安らしいのだ。
阿保か、本物か。
「煩いなぁ、好き好き。」
「ちゃんと目ぇ見てゆうてっ」
「云えるかっ、阿保っ」
“愛してる”と云う言葉を知らぬのに、どないせぇっちゅー。妻は仏蘭西映画に熱上げたのか、矢鱈に愛の言葉を求める。
「八雲はあたしの全てやしなっ」
「嗚呼はい…大きに…」
「八雲もちゃうのんかっ」
「いえ…はい…一緒ですよって…」
漸く妻は満足する。安心して眠りこける。
一生寝とれ、アホンダラ。二度と起きるな。二度私に“愛してる”等と云わせるな。
「ふ、ふふ…」
此れを元帥に云うと、笑われた。嘲笑された。如何せ私は笑われて当然の男ですよ。無表情で元帥を見て居ると、其の顔が又面白いのか、吹き出した。
おいこら、其処迄笑う事無いやないか。
私は妻の盲愛に疲れ果てて居るのに、上司の能面は笑う。畜生、大凡関係無さそうな…いや、元帥の事だ、関係あるかも知れん。兎に角、何方でも良い、能面叩き割って遣りたい。
「ワタクシは一日に…」
云って指を折る。
朝の挨拶、愛してる。
出掛けの挨拶、愛してる。
帰宅の挨拶、愛してる。
夜の挨拶、愛してる―――何だ此の能面、一度死ね。
日に四回も薄ら寒い言葉を云って居るのか。…在の幸薄そうな香苗夫人に…?
然し云って居たのは、十年以上も昔、先の夫人にだった。今ではそんな言葉、添削したそうだ。
「愛してるとは、云うより、云わせる方が、器量と云う物ですよ。」
細い鼻先からふふん、と息を抜く。塞いで遣ろうかと思った。
「はあ…」
家でも仕事場でも、溜息しか出ない。生気の無い風船みたく息吐く位なら、排気ガスみたく愛を吐いてもええや無いか…。
思うのだが、口と心は動かない。
嗚呼駄目である、心身共に毒されて居る。
「白虎…」
広間で寝る白虎に、手を伸ばし、声を掛けた。寝て居ても私の声に反応する娘は可愛い。心底愛が滲み出る。一方妻は如何だ、片足剥き出し寝ている。其の足を撫でても妻は起きない。
アホンダラ、一生寝腐れ。
「白虎…」
――どないしてん、オトーチャン。
鼻と其の下に指の背を往復さす。すると娘は、大きな顔を子猫の様に下げる。濡れた鼻先は大きいが、此の愛くるしさは子猫と何ら変わりは無い。
「白虎…」
――何やの、ふふ…
ぐるぐる喉鳴らし、其の振動の心地好い事心地好い事。枕代わりに頭を乗せ、指は未だ鼻にある。
「愛してるよ…」
顔に対しては小さな耳が動く。
――何やの、気味悪。
ぐるぐると喉は一層鳴る。
そうか、漸く判った。妻や元帥が私を疲れさす理由。
人間疲れると本音が出る。心身共に衰弱した私は、本音が出た。
「愛してる、愛してるよ、白虎…」
――も、ええて。
愛くるしいもの、愛しいものが傍に居るとつい甘えたく為る。疲れを取って貰おうと、甘い言葉を口にする。愛してるからでは無い、甘えの対価が“愛してる”に為る。云わないと甘えさせて呉れないから。証拠に娘は、素直に甘えさせて呉れる。
大阪に其の言葉が無い理由、今判った。
私達は、疲れる程働かない。適度に働き、適度に休み、豪快に笑い飛ばす、結果心身消耗しない。笑えば疲れ等知らぬのだ。
疲れてる?、と聞かずとも、人間の疲労とは顔に表れる。
依って“愛してる”と囁く男は、総じて“見栄っ張り”の“虚弱体質野郎”―――元帥である。
私は娘にキッスを一つ鼻先に、片足剥き出す妻の居る寝室に向かった。ベッドは二つ並ぶが、私は今夜、妻の方に入った。横向きで寝る妻を後ろから抱え、首筋に鼻を付けた。仏蘭西のコロンが、ほんのり香った。顔の前で握り締める石ころみたいな手を握り、うつらうつらとコロンの匂いにさ迷って居ると、あろう事か妻は目覚めた。
「どないしてん。珍しい。」
「疲れてんねん…」
「ほうか、御疲れさんに御座い。」
満更で無い妻の声色、だから私は云った。
「愛してんで…」
「………知ってるわ。」
くるくる、妻の喉は鳴った様だった。




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