考古学者の本棚


開かれた一冊の本。窓から挨拶をした風に頁が二三枚捲れた。其れを八雲は戻し、何か重りに為る物を探す。
一見乱雑とした書斎だが、八雲の頭の中ではきちんと整理されて居る。当然、妻の茜から見ればゴミ溜めにしか見えない。片付けなよ、と云うが、此れで良い、と八雲は云う。
片付けが嫌いでも苦手な訳でも無い、何方かと云うと八雲は整頓された部屋に居心地の良さを感じる男。本棚で例えるなら、高さで揃える。一方で師の國枝は著作で揃え、八雲には此れが気持悪くて仕方が無い。
探す時に便利なのは当然五十音だが、本が全て同じ高さ、厚みな訳は無い。段々に為った國枝の本棚を見る度、八雲は「嗚呼、一直線に並べたい」と出掛かった手を引っ込め、無断で並び替えす前に顔を逸らす。
八雲には兄弟子が二人居る。國枝考古学機関には二十人程の考古学者が居るが、國枝の弟子は半分。約十人の学者が八雲の兄弟子に当たるのだが、兄弟子と慕い、そして向こうも可愛がるのは弥勒と夏彦二人しか居ない。と云う依りは、此の二人以外は兄弟子の兄弟子、と云う具合である。
其の兄弟子の一人夏彦は抑に本棚を使わない。では如何するかと云うと、積み上げ、造形して居るのだ。
此れは国会議事堂、此れはタワーブリッジ、此れは斜塔、此れはシルクロード、馬鹿垂れ此れは凱旋門だ、違うエッフェル塔じゃない金閣寺……一種の芸術だが、此れこそ片付けろと八雲云いたい。兎に角、夏彦の研究室では神経がおかしく為りそうで、出た時には衰弱する。
然し夏彦には便利なのだ。横一列依りは探し易いと。パズルみたく、金閣寺の左右上下何番目、と把握して居る。此の膨大な本の配置を、全て頭に叩き込んで居る。流石は國枝が認めた男、と云おうか。
夏彦の本に用途は求めない方が良い。一寸一冊失敬…すると本の芸術は崩壊する。國枝は其の完成度の高さと芸術性に賛美絶賛拍手の嵐、無論、誰も触らない。此の芸術を破壊するのは歴史を破壊するに値する、と喧しい。
八雲、國枝両方から“何だかなぁ”と思われるのは弥勒である。
弥勒は高さでも五十音でも無く、年代で分別して居る。國枝からはせめて国で分けろと云われるが聞かない。巨大な本棚に世界の歴史が一年…いや、分単位で刻まれて居る。
まあ面倒臭い、案外面倒臭い。
最悪な事に弥勒は、必要な箇所しか保存して居ない。
八雲達が扱う本は、一般的な本とは違う。弥勒は自分が必要だと思った箇所しか保存しないので、八雲が確認した時、頁を飛べば判るのに其の頁が無い為混乱に陥る。此れは何ですか、と聞けば、そんな事も判らないで考古学者目指すな、と反論受け、結局國枝に聞く羽目に為る。
弥勒が破り捨てた本、國枝がきちんと保管して居る。
だって考古学者は、金が無い。
御坊ちゃまの弥勒ちゃまには判らないだろうが、高いのだ、此の類の本は。馬鹿高いのだ。考古学者の貧困が何れ程な物か、骨身に染みて居る國枝は捨てられずに居るのだ。
一度、此れも要る、此れも要る、で、前書き後書き表紙以外を保存した時がある。此れには、九割破くなら一割我慢しろ、と國枝の雷が建物及び弥勒を直撃した。其の振動でか夏彦のシルクロードは崩壊した。弥勒に怒鳴り散らして居る師の声を聞き、泣き乍ら、復元して居たっけ…。其の場に八雲は居たので、崩壊の瞬間を目撃し、嗚呼此れが歴史が葬られる時か、等と考え、続いて夏彦の、俺のシルクロード、と泣き面を見た。おいおい泣き、余りのショックに手が震え、結局今でも残骸だ。
丁度、そう、こんな具合に。
文鎮の代わりに為る物を探して居た八雲は、本の雪崩に遭った。二階から壮絶な音が聞こえ、何事かと茜が様子を見に行けば、何だ夫は、本山で遭難寸前では無いか。
「八雲ぉ、ちょお、八雲はん何処ぉ。」
「痛いがな…」
大量の本の中から弱々しく聞こえた八雲の声。中身が落ちて来た本棚が悪かった。書斎で一番でかい、高さ三メートル、横四メートルの本棚。落ちて来たのは其の半分だ。
三メートルの高さから本が直撃する、此れは痛い。一冊では無く大量に、そして一度に。
「眼鏡壊れたやないかっ」
ばさばさ、と本の中から現れた八雲は、変形した眼鏡を持ち、喚く。
本能で、命ある物は全て、危険を察知すると一番大事な頭を防御する。勿論、八雲も同じなのだが、端くれとは云えど考古学者、降り懸かる本を知った八雲は在の本が置いてあるテーブルに身体を向けた。頭や背中、首に本は当たり、眼鏡は吹き飛んだ。
「首も痛いがなっ、全身痛いわっ」
「…タオル、濡らして来るしな…。薬も持って来るわ…」
全身が痛かろうが、眼鏡が壊れ様が、本能…八雲の本能は違った。
守ったのは自分では無く、テーブルに乗った其れだった。
「嗚呼、良かった…、無事か…」
くすんだ黄金、石が幾つか嵌められている首飾り。八雲は其れを手にした。
守るのは自分じゃない、其処に歴史があるなら、其れを守れ。自分が死んでも、実物があれば必ず誰かが見付けて呉れる。けど、実物が消えたら真実から遠退く。
何、歴史と全世界の考古学者の浪漫が闇に消える位なら…
「わいの命何か、安いもんや…」
國枝の言葉を、掌に向かって吐いた。ずくずくと首は痛むが、咄嗟に出た行動に口元が緩んだ。
「わいって、生まれ乍らの此れか。」
本棚の一番上に陳列した石が落ちて来なかったのは奇跡と云える。後一冊でも本が落ちれば、落ちる程石は棚から出て居た。
勿論八雲も、此の石が落下するのは瞬時に計算した。した為、首飾りに身体を向けた。石の落下点が、丁度首飾りに位置した。凡そ五キロの石が脆い金細工に直撃でもしてみろ、夏彦のシルクロード崩壊以上のショック、弥勒に落とされた以上の雷が國枝から放電される。
落ちる前に奥に引っ込め、首飾りを遠ざけた。そうして散乱した本の山に手を付けた。
「八雲、持って来たで。」
救急箱を持った茜が近付き、あ、と思った時には遅かった。茜の性格を考えれば、足元を見ないのは明確だった。
茜は、八雲が視界に入れば八雲にしか焦点が合わぬ、と云う不思議な性格をして居る。散乱する本の山に躓き、バランス崩した茜は手から救急箱を放り出し、宙を飛ぶ救急箱は本棚に激突、次いでに茜も激突した。ぎゃあ、と云う虚しい声と共に茜は本に埋もれ、本の上に散乱した救急箱の中身に八雲はうんざりした。
「仕事、増やすなや…」
「助け、て…」
「嫌。」
救急箱を戻し、痛いと呻く茜に片付けを手伝わせた。
一冊一冊、二人で仕舞う。ふと八雲は、在の状況に茜が居たら、果たして自分は何方を守るのか気に為った。
首飾りを駄目にすれば國枝筆頭に全世界の学者の浪漫が失せる、茜を駄目にすれば夜叉を筆頭に極道がなだれ込む。
「茜が首飾りを守って、わいが其の茜を守ればええんやな。」
「え?何?」
「何でも無い。」
そうすれば首飾りは無事、身体を張って茜を守るとは極道の鏡、両方に良い顔が出来るでは無いか。
願わくば、そんな場面に遭遇はしたく無い。
「疲れた…」
二時間掛け本棚を元通りにした八雲に、仕事の続きをする気は起きない。明日する、と部屋をで、窓の前に置かれた首飾りが夕日を受けた。真ん中に嵌められた石に夕日が差し込み、赤く色付いた。ドアーが締まった時、其の石から無数の光が四方に広がり、ゆっくりと部屋を回る。其れが石の本来の姿である様に、何の違和感も無かった。
珈琲を飲んで居た八雲は、矢張り在れは偽物では無いのかと、黙る。細部迄本物と一致して居るのだが、中央の石は“朱珠”と文献にはある。如何見たって在れは黒い。透明度がかなり高い黒い石である。
窓から入って来た風に依って頁は捲られたが、勿論続きがあった。八雲は其れを確認する前に文鎮の代わりを探した。
――我守りし時、其れは我と為り真実と為る――
首飾りの持ち主が最期に云った言葉。國枝には此れが本物であるのは一見しただけで判った、然し真実が何か判らない。
朝日に当てた時、黒い石が全くの無色透明に変化したのを見た。
國枝に渡された地図。此れは道が所々切れて居る全く地図に為らない地図である。
八雲は未だ知らない。石から放たれた光で地図の隙間を埋めると一本の道に、真実に為る事を。地図に浮かび上がる持ち主の横顔、其の瞳の所に赤い印がある。其の横顔が見詰める先、其処に本人は眠る。國枝達は其の墓を探して居るのだ。
此の考古学者達が其れに気付くのは、随分と先の話に為りそうだ。
今は未だ、本棚と遊んで居る方が似合いだろう。




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