酔狂


夜中に叩き起こされた私は、玄関に並ぶ顔触れに頭を下げた。
「すんまへん、ほんますんまへん…。有難う御座居ます…」
「御免茜ちゃん…」
「謝るのは俺達だ…」
右に弥勒氏、左には夏彦氏を、其の真ん中に、ぐでんぐでんに酔い潰れた亭主が居た。一人で歩行は疎か、起立さえ不可能な八雲は兄弟子に支えられ、暢気に笑い、星空を仰いで居る。何時もと様子の違う八雲に白虎は不安な目を遣り、匂いを嗅ぐ。普段しない酒の匂いに嚔をした。
「寝室は…」
「二階だよ…」
「しんど…」
「八雲、ほら…、家だよ。」
寝室に運ぶ二人の背中を見届け、タオルと水を用意した私は急いで二階に上がった。
「夏彦、そっち引っ張って。」
「如何為ってんの…此れ…」
慣れない軍服に二人は手子摺りを見せ、後は私が、と礼を云った。声を掛け乍ら服を脱がし、身体を拭き、寝巻を着せる私の姿に二人は「ほらな」「ほんにな」と小声で話す。
人の迷惑も考えず暢気にベッドで寝る八雲を一瞥し、二人をリビングに促した。熱い焙じ茶で少しは酔いが消えるだろうか。夏彦氏は相変わらず薄情そうに真っ白だが、弥勒氏の顔は赤い。
「態々済みませんでした。」
「飲ませたこっちが悪いから…」
「弱いって知らなかった…」
迷惑掛けたのは此方なのに、二人は恐縮する。其れを見ると益々恐縮し、段々と身体が小さく為って行った。タクシーを呼ぼうとしたが、通り迄歩くから大丈夫、と二人は笑顔だ。
最初は八雲も、自分が下戸なのを知って居るので御茶を飲んで居たのだが、水と酒を間違え飲んだのが悪かった。
「え?何此れ。」
「旨いだろ、旨いだろ、な、八雲。」
思いの他其の酒が旨く、先生の煽りもあり熱燗で三合飲んだらしい。そうしたら八雲の何かが弾け、夏彦氏の飲むブランデーやらワインやらを飲み始めた。先生も人が悪い、酔って居るのもあるだろうが、煽りを上げた。酒を熟知して居る夏彦氏は、本当に危ないと先生を止めるが、「出来た嫁さんが居るから大丈夫」と聞かない。其れが寝室での会話だ。
「耐久が無いから、注意してろ。暢気に御前も寝てたら、朝には冷たく為ってるぞ。」
小さく欠伸をした私に夏彦氏は云った。さっと血の気引かした私に夏彦氏はくつくつ笑い、弥勒氏が思い切り太股を叩いて呉れた。
何度も頭を下げ、二人の兄弟子を見送った後、うんざりした気持で白虎を見た。
「お父ちゃん、阿呆な。」
――なぁ。
白虎に就寝の抱擁をし、欠伸を連発し乍ら寝室に行くと、確かに寝かせた筈の八雲が居ない。暗い部屋の中にベッドが普通にあるだけだった。
「え…?」
小さな私の声は、二階にもある洗面所から搾り出された声に消えた。
「八雲、八雲さぁん。」
洗面台には辛うじて手を付けて居るが、間に合わなかったのか勘違いしたのか、床には吐瀉物が広がり、背中は揺れて居た。
「気持悪い…」
青白い顔で又吐き出す八雲に水を渡し、少し飲んだが濁りを見せ、吐き出した。
「吐く…吐くがな…」
「もう吐いてますよ、貴方。」
マットレスを敷いて居て良かった、自力で洗面所から出た八雲に視線を何度も向け乍ら、マットレスを丸め、適当に拭いた。敷いて居なかったら発狂したに違いない。何が悲しくて自業自得の処理をしなければ為らない。
「ちょ、退け…ッ」
吐瀉物塗れのマットレスを持って居た私は、又現れた八雲に突き飛ばされ、虚しいかな、吐き出す音を聞いた。
吐くだけ吐いた八雲は何度も顔と口を洗い、体力が完全に無くなったのかズルズルと床に座った。
折角苦労して着せた寝巻は吐瀉物が付着し、仕方無いので脱がせ、新しいのを着せた。其の間八雲はうんうん唸り、壁に頭を打ち付けると云う奇妙な行動をして居た。
「八雲、ほら。ベッド行こな。」
「うん…」
何時もこう素直なら可愛いのだが。煩い、を構えて居ただけに私の機嫌は少し治った、現金な女である。
力の入らない人間を運ぶのは容易では無い、半ば引き摺る様に寝室迄運び、後は床だろうが好きに寝て下さいと、私は一人でベッドに寝た。
「吐いたし、大丈夫やろ。」
吐いたら大丈夫、と帰り際弥勒氏が云ったのを思い出した私はうつらうつらして居た。すると、足にぺったりと手が張り付き、ちょいと覗くと、床に伸びる八雲が此方に来たそうな目で見て居た。
八雲で良かった、此れが違ったらかなり怖い。
「ほら、八雲さん。」
「うっふふ。」
珍しい事もある、と面白半分で八雲を招き入れ、床とは違う感触に破顔する顔を見た。白虎がもう一匹居る気分だ。
白虎は偶に、怖い夢を見たとか何とかでベッドに入って来る。自分で布団を剥がし、子猫に為った気分でぺったりくっつく。其れに気付き、大きな頭をしっかり抱えて遣ると、地鳴りみたく喉を鳴らすんだから可愛いじゃないですか。
虎等の大型科は喉を鳴らさないと云われる。此れは大型科が子供としかコミュニケーションを取らず、人間が聞く機会が極端に少ないからそう云われて居る為だが、実際はする。少なくとも虎は鳴らす。虎やライオンが喉を鳴らすのを聞ける人間は貴重だ。
まるで今の素直な八雲みたく。
「よしよし、御休み。」
まるで白虎みたく頭を擦り寄せ、破顔する八雲に安易に絆される。今朝された八つ当たりをすっからかんに忘れて仕舞うから不思議で堪らない。
こうして私は一日一日、八雲を好きに為って行く。身体の全てが八雲と云う成分で成り立つ。
私が何れ程貴方を好きか……貴方はちっとも御存じで無いのでしょう。気にも止めないのでしょう。
同じに、貴方が私を何れ程好きかも、私には判らない。
気付いたら、泣いて居た。八雲が居るだけで倖せに満ち足り、涙が勝手に流れた。
「何で泣いてんの。」
とろりとした目が、揺れて見えた。実際泣いては居たが、八雲に知れた瞬間目は渇いた。笑われて仕舞うのが悔しいばかりに。
本当なら、願望を云うなら、泣いて甘え縋る可愛い女に為りたい。涙を見せても八雲が知るのは罪悪感では無く、鬱陶しさ。
泣いて嫌われる位なら、泣きたいの我慢して笑って居れば良い。其れで八雲が傍に居るなら。
可愛い女に、為れずとも良い…。
「泣いて無い…」
「嘘ばっか。」
名残を見せる睫毛に、細長い指が触れ、其れに重ねた私の手には、指輪が艶めかしく光って居た。
八雲の愛の大きさと純粋さを量ったとでも云うのか、此の光りは。
「倖せ過ぎて、涙が出る。勝手に。」
「うん。」
暗い部屋みたく八雲の声は重たい。
「何処にも行かんでな…?よぅ行かんでな…」
はっきりと涙は指に流れた。熱い息が指輪を濡らし、まるで指輪の呼吸の様だった。
「うん。」
私にでは無く指輪に唇を付け、数回指先を撫でると目を閉じた。
八雲は云う。結婚は死が訪れる迄の契約だと。
だったら何故、片方が死んでも指輪をして居る人が居るのか。自分が死ぬ迄、契約を続けるのか。
出来るなら八雲に答えを教えて欲しい。
そうして私は、飾り気の無い八雲の左手をしっかり握った。
何処にも行かないでと、強く願って。




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